先日の竹島問題に端を発した韓国の反日運動。元を辿ればネット上の右翼的(愛国的?)思想を持つ人々が、直接(現実)行動へと移っていったのか、一部のそういう煽動家のような人々が大袈裟に煽り立てた結果なのか、よくわかりません。韓国の反日サイトは存在しており、そこでの意見集約・蓄積は、人々に現実行動へと駆り立てる衝動をもたらすのか、思想強化に結びついているのかもしれない。中国の反日デモもこれと似たような傾向が見られるように思う。反日署名サイトなどで、数千万人もの署名を集めるほどですからね。普段は平凡な暮らしをしている人々が、デモや抗議行動に参加していくさまは、ネット上の炎上と似ているような気がする。
日本ではこの前、人権擁護法案を巡ってネット上で激しい主張や反対運動が見受けられた。反対派は、国籍条項や特定団体の陰謀説等について特定サイトに意見集積し、そこに書き込まれる大半の意見は、自説を強調するものへと変わっていき、次第に中国、韓国や北朝鮮を、或いは特定団体を標的とした、先鋭化した意見がどんどん増えていく。極々少数の諌める意見や多数派に逆らう意見を述べる者には、普通の反論もあるが排除的言葉や攻撃的言葉が多数投げかけられ、多数派の中に埋没して次第に無視されるに至る。
こうして、大きな流れが出来上がると、遂には現実世界での直接行動を模索することになり、ネット上の活動と関連があるのかは不明だが、反対派集会が実際に開催された。その集会の主導的役割を担っている団体とか人物には多くの人は気にも留めることもなく、集会実施の情報がネット上のあちこちに広められ、その集会へ向けて気勢を上げようとする。参加を意図する人々にとっては、誰がそうした現実行動のコアとなっているかはあまり関係がなく、そうした意見や言葉の数的集積が進んだサイトや掲示板やブログコメント欄などにアクセスすることで、電脳群集の存在を意識するのではないだろうか。PCの前には自分1人しかいないにも拘らず、ネット上のそうした集積ポイントを通じて、自分と意見を同じくする多数の人間があたかも自分の周囲に存在するかのような錯覚をもたらすのか、群衆心理に近い状態を作り上げているかのようである。言葉にはそうした、魔力というか(以前は言霊と書いたのですが)秘められた力があるのでしょうか?勿論、参加者達は、強制された訳でもなく、組織的活動などに影響された訳でもないと言い、現実世界の直接行動に出る人は、自らの意思で参加したように思い込むのである。
同じような内容、同じような言葉の繰り返しを読むことによって起こる、擬似洗脳に近い効果があるのではないだろうか。これは、元々の言葉に対する感受性、思考パターン、直観的能力などに個人差があると思うが、大衆が煽動されることを考えれば、このような現象が起こっても不思議はないように思える。ある人達はこうした擬似洗脳効果によって、次第に「言葉に酔う」ようになり、勝利者の優越的快感に似た錯覚・体験をしてしまうのかもしれない。
自分に興味がある話題や対象であるかどうかは必ずしも重要ではなく、先に述べたような集積ポイントにやってくるのは、偶然遭遇する人や、他の情報源から聞きつけてわざわざやってくる人もいれば、自分で高い関心があり調査していて発見する人など、様々な理由によると思う。初めは少数の意見が出されるが(当然ですが、どのような場合にも1から始まっていきますね)、参加者からの情報の広がりや、偶然訪れた人の参加などにより、意見集積が進んでいく。この時に、サイバー群集というか電脳群集の増大が心理的に感じとれるようになってくると、野次馬的参加者(興味の対象は議論の中身ではなく、炎上具合や顛末を見たいといった興味本位の人々?)が加速的に増大していく。こういう嗜好の持ち主が存在するかどうかを確かめた事はないが、存在すると推測する。書いてあるコメントには、「~~で知って、飛んできました」「祭りはここ?」「燃えろー」といったようなものが散発的に見られるからである。
現実世界での出来事で考えてみると、例えば、牛肉騒動の頃に起こった、西友の肉代金払い戻し事件がありました(正確ではないかもしれません)。これは、偽装牛肉の代金を西友が払い戻しますという発表を行ったところ、実際に購入していないのに払い戻しをうけようという人々が沢山集まりました。メールで友人などに連絡し、「来たら払い戻されるらしいよ」ということで大挙して押しかけたのでした。当初、少人数のうちは大きな混乱もなかったのであるが、人数が増えるにつれ多数派である群衆は、店長をはじめ数人しかいない従業員に向かって、「お前らが偽装牛肉売ってたんだから、お前らが悪いんだよ」「土下座して謝れよ、お前らの責任だろ」「牛肉をここで買って食べた人間の気持ちを考えろ、どうしてくれるんだ」的な(テレビの映像でしたので、正確には憶えていませんが、概ねこんな感じでした)吊るし上げが行われました。この傾向はエスカレートし、「レシートがなけりゃ、払えねーってのかよ」と凄んだりするようになり、無関係な人々が押しかけたことも混乱に拍車をかけ、全員に払い戻しをする事態になってしまった。この店の全肉類の年間売上よりも数倍多い払い戻しとなってしまったようである。一度制限や基準が外れると、多数派の群集に押し流される典型のような例かもしれない。前述したネット上の例と大きな違いがないように思える。
それから、最近では、ドンキホーテ社員の記者会見場侵入事件の時も似たような印象です。消防当局の発表会場に偽って座っていた社員が、報道機関の人間に発見され、吊るし上げられた事件です。この時にも、報道関係者達という多数派と、たった1人の社員という構図であり、テレビ放映された内容では、数人の記者達から火災の「責任追及」や「謝罪要求」をされ、また何の権限か知らないが多数派の圧力ということだけで、メモの破棄や録音データ消去という不当な実力行使まで行われてしまいました。この時には、報道関係者という「閉じた集団」であったので、無関係の部外者が参入してくることはなかった。多数派が1人の吊るし上げを行うことで、追及をしていた記者達は、「勝利者の優越的快感」をきっと感じたはずだと思うのである。
郵政民営化問題でも似たようなことが起こった。細田官房長官は自民党部会に出席した時、多数派である郵政族やら反対派の議員達から、「政府が何で勝手に宣伝するんだ」「何億円も公費を使って宣伝していいと思っているのか」「自民党が認めてもいないのに、決ったかのような印象を与える」などといった反対意見が噴出し、細田さんはこれに陳謝せねばならなかった。これ以上の感情的反発を招くわけにはいかなかったからで、そういう事情があったにせよ、「国会議員」というこれまた閉じた集団であっても、多数派はこういう行動に出やすいのである。先日、竹中大臣が同じように陳謝したのも、これと似たり寄ったりだろう。多数派の吊るし上げは、意見や議論として正しいかどうかではない面があり、そうした現象は現実世界でも珍しくはないと思うのである。これはイジメの基本的原理というか構造なのではないか、と思ったりする。
そこで中国における今回のデモ騒動なのであるが、例に示した人権擁護法案反対集会と似たような経過を辿ったのではないかと思う。集積ポイントにおける電脳群集の圧倒的な数的優位性は先鋭化した意見集積を加速し、それが現実行動惹起への衝動へと繋がり、少数の右翼的反日活動家(煽動係?)が行動を起こすと、ネット上で擬似洗脳を受けた一部が加わる。これが初めの数百人程度であったのだが、これを目的としていなかった野次馬的群集が加わり出すと、雪ダルマ式に人数を増やしていくことになる。デモ隊は、現実世界の中で場所を移動していくので(これも当然なのですが、行進していきますからね)、それまでデモを知らなかった人々や反日の直接行動に興味を持っていなかった人々や騒ぎに興奮してしまい易い嗜好の持ち主などが、どんどん流入していく(これらの人々は、中国国内では特異な思想や活動はない、平凡な人々であろう)。彼らは知人たちにメールで参加を呼びかけ、さらに群衆の数を増やすことになる。こうして、1万人とか3万人規模のデモ隊に膨れ上がったのであろうと思う。現実世界でこのような群集流入が起こることを考えれば、ネット上の世界で起こっても何ら不思議はないように思える。
勿論、中国特有の背景とか、現実世界での別な要因とか、色々な影響が考えられるかもしれないが、一般的に人間の行動原理というものは、人種に関係なく本質的に共通する部分があるんじゃないかと思う。そういう意味で、中国で起こった現実世界での炎上―「現実(リアル)炎上」とでも呼ぶか―と、ネット上の炎上―「電脳炎上」―には、人間観察という点で興味を持ってしまうのである。
(私は、心理学とか社会学とか、そういった基礎知識は持ち合わせていませんので、書いてあることは、個人的感想であり、経験的に感じられたことを現象に当てはめようと試みたという程度ですので。正確な心理分析とかに詳しい人からは、「絶対に有り得ない」とかのご意見があるかもしれません。もしも分る人がおられましたら、是非教えて下さい。)
日本ではこの前、人権擁護法案を巡ってネット上で激しい主張や反対運動が見受けられた。反対派は、国籍条項や特定団体の陰謀説等について特定サイトに意見集積し、そこに書き込まれる大半の意見は、自説を強調するものへと変わっていき、次第に中国、韓国や北朝鮮を、或いは特定団体を標的とした、先鋭化した意見がどんどん増えていく。極々少数の諌める意見や多数派に逆らう意見を述べる者には、普通の反論もあるが排除的言葉や攻撃的言葉が多数投げかけられ、多数派の中に埋没して次第に無視されるに至る。
こうして、大きな流れが出来上がると、遂には現実世界での直接行動を模索することになり、ネット上の活動と関連があるのかは不明だが、反対派集会が実際に開催された。その集会の主導的役割を担っている団体とか人物には多くの人は気にも留めることもなく、集会実施の情報がネット上のあちこちに広められ、その集会へ向けて気勢を上げようとする。参加を意図する人々にとっては、誰がそうした現実行動のコアとなっているかはあまり関係がなく、そうした意見や言葉の数的集積が進んだサイトや掲示板やブログコメント欄などにアクセスすることで、電脳群集の存在を意識するのではないだろうか。PCの前には自分1人しかいないにも拘らず、ネット上のそうした集積ポイントを通じて、自分と意見を同じくする多数の人間があたかも自分の周囲に存在するかのような錯覚をもたらすのか、群衆心理に近い状態を作り上げているかのようである。言葉にはそうした、魔力というか(以前は言霊と書いたのですが)秘められた力があるのでしょうか?勿論、参加者達は、強制された訳でもなく、組織的活動などに影響された訳でもないと言い、現実世界の直接行動に出る人は、自らの意思で参加したように思い込むのである。
同じような内容、同じような言葉の繰り返しを読むことによって起こる、擬似洗脳に近い効果があるのではないだろうか。これは、元々の言葉に対する感受性、思考パターン、直観的能力などに個人差があると思うが、大衆が煽動されることを考えれば、このような現象が起こっても不思議はないように思える。ある人達はこうした擬似洗脳効果によって、次第に「言葉に酔う」ようになり、勝利者の優越的快感に似た錯覚・体験をしてしまうのかもしれない。
自分に興味がある話題や対象であるかどうかは必ずしも重要ではなく、先に述べたような集積ポイントにやってくるのは、偶然遭遇する人や、他の情報源から聞きつけてわざわざやってくる人もいれば、自分で高い関心があり調査していて発見する人など、様々な理由によると思う。初めは少数の意見が出されるが(当然ですが、どのような場合にも1から始まっていきますね)、参加者からの情報の広がりや、偶然訪れた人の参加などにより、意見集積が進んでいく。この時に、サイバー群集というか電脳群集の増大が心理的に感じとれるようになってくると、野次馬的参加者(興味の対象は議論の中身ではなく、炎上具合や顛末を見たいといった興味本位の人々?)が加速的に増大していく。こういう嗜好の持ち主が存在するかどうかを確かめた事はないが、存在すると推測する。書いてあるコメントには、「~~で知って、飛んできました」「祭りはここ?」「燃えろー」といったようなものが散発的に見られるからである。
現実世界での出来事で考えてみると、例えば、牛肉騒動の頃に起こった、西友の肉代金払い戻し事件がありました(正確ではないかもしれません)。これは、偽装牛肉の代金を西友が払い戻しますという発表を行ったところ、実際に購入していないのに払い戻しをうけようという人々が沢山集まりました。メールで友人などに連絡し、「来たら払い戻されるらしいよ」ということで大挙して押しかけたのでした。当初、少人数のうちは大きな混乱もなかったのであるが、人数が増えるにつれ多数派である群衆は、店長をはじめ数人しかいない従業員に向かって、「お前らが偽装牛肉売ってたんだから、お前らが悪いんだよ」「土下座して謝れよ、お前らの責任だろ」「牛肉をここで買って食べた人間の気持ちを考えろ、どうしてくれるんだ」的な(テレビの映像でしたので、正確には憶えていませんが、概ねこんな感じでした)吊るし上げが行われました。この傾向はエスカレートし、「レシートがなけりゃ、払えねーってのかよ」と凄んだりするようになり、無関係な人々が押しかけたことも混乱に拍車をかけ、全員に払い戻しをする事態になってしまった。この店の全肉類の年間売上よりも数倍多い払い戻しとなってしまったようである。一度制限や基準が外れると、多数派の群集に押し流される典型のような例かもしれない。前述したネット上の例と大きな違いがないように思える。
それから、最近では、ドンキホーテ社員の記者会見場侵入事件の時も似たような印象です。消防当局の発表会場に偽って座っていた社員が、報道機関の人間に発見され、吊るし上げられた事件です。この時にも、報道関係者達という多数派と、たった1人の社員という構図であり、テレビ放映された内容では、数人の記者達から火災の「責任追及」や「謝罪要求」をされ、また何の権限か知らないが多数派の圧力ということだけで、メモの破棄や録音データ消去という不当な実力行使まで行われてしまいました。この時には、報道関係者という「閉じた集団」であったので、無関係の部外者が参入してくることはなかった。多数派が1人の吊るし上げを行うことで、追及をしていた記者達は、「勝利者の優越的快感」をきっと感じたはずだと思うのである。
郵政民営化問題でも似たようなことが起こった。細田官房長官は自民党部会に出席した時、多数派である郵政族やら反対派の議員達から、「政府が何で勝手に宣伝するんだ」「何億円も公費を使って宣伝していいと思っているのか」「自民党が認めてもいないのに、決ったかのような印象を与える」などといった反対意見が噴出し、細田さんはこれに陳謝せねばならなかった。これ以上の感情的反発を招くわけにはいかなかったからで、そういう事情があったにせよ、「国会議員」というこれまた閉じた集団であっても、多数派はこういう行動に出やすいのである。先日、竹中大臣が同じように陳謝したのも、これと似たり寄ったりだろう。多数派の吊るし上げは、意見や議論として正しいかどうかではない面があり、そうした現象は現実世界でも珍しくはないと思うのである。これはイジメの基本的原理というか構造なのではないか、と思ったりする。
そこで中国における今回のデモ騒動なのであるが、例に示した人権擁護法案反対集会と似たような経過を辿ったのではないかと思う。集積ポイントにおける電脳群集の圧倒的な数的優位性は先鋭化した意見集積を加速し、それが現実行動惹起への衝動へと繋がり、少数の右翼的反日活動家(煽動係?)が行動を起こすと、ネット上で擬似洗脳を受けた一部が加わる。これが初めの数百人程度であったのだが、これを目的としていなかった野次馬的群集が加わり出すと、雪ダルマ式に人数を増やしていくことになる。デモ隊は、現実世界の中で場所を移動していくので(これも当然なのですが、行進していきますからね)、それまでデモを知らなかった人々や反日の直接行動に興味を持っていなかった人々や騒ぎに興奮してしまい易い嗜好の持ち主などが、どんどん流入していく(これらの人々は、中国国内では特異な思想や活動はない、平凡な人々であろう)。彼らは知人たちにメールで参加を呼びかけ、さらに群衆の数を増やすことになる。こうして、1万人とか3万人規模のデモ隊に膨れ上がったのであろうと思う。現実世界でこのような群集流入が起こることを考えれば、ネット上の世界で起こっても何ら不思議はないように思える。
勿論、中国特有の背景とか、現実世界での別な要因とか、色々な影響が考えられるかもしれないが、一般的に人間の行動原理というものは、人種に関係なく本質的に共通する部分があるんじゃないかと思う。そういう意味で、中国で起こった現実世界での炎上―「現実(リアル)炎上」とでも呼ぶか―と、ネット上の炎上―「電脳炎上」―には、人間観察という点で興味を持ってしまうのである。
(私は、心理学とか社会学とか、そういった基礎知識は持ち合わせていませんので、書いてあることは、個人的感想であり、経験的に感じられたことを現象に当てはめようと試みたという程度ですので。正確な心理分析とかに詳しい人からは、「絶対に有り得ない」とかのご意見があるかもしれません。もしも分る人がおられましたら、是非教えて下さい。)