読売新聞には毎週書評欄があるが、これが結構面白い。家族の中でも人気があり、時々「切り取り」の対象となっている。このコーナーは「本のよみうり堂」といい、この日の下段公告は、専ら本の広告である。これもまた、面白いのであるが。ウチの子がこの広告を見て、色々な発見をして私に教えてくれたりすることもある。そういえば、先日bewaad さんが記事中で紹介しておられた、『戦争請負会社』の書評も随分前に「よみうり堂」に出ていました。誰が評者だったかは忘れましたが・・・。評者の方は殆どが私の知らない人ばかりであるが、ごく稀に橋本五郎さんが評者の時がある(知っている人は、五郎さんくらいです・・・、恥)。ひょっとして、評者の方の記事の提出が間に合わなかったりした時に代打で書くのかな?(そんな訳ないか)
今日の書評には、特に興味を引いた作品が2つあったので記事に書いてみたい。
一つ目はウリカ・セーゲルストローレ著『社会生物学論争史』(評者・渡部潤一 国立天文台助教授)で、このような有名な論争があったなんて知りませんでした(笑)。いきなり評者の言葉に、「20世紀の代表的な科学論争の一つ」と書かれており、不知の罪を感じざるを得ません。E・ウィルソン著「社会生物学」に端を発する科学論争に、政治的・思想的論争へと展開するというのも、どうしてなのかな、と思う。「社会生物学者=遺伝決定論者=保守派、批判派=環境決定論者=マルクス主義者というレッテルさえ貼られてしまう始末」という言葉は、こうした論争の場合によく起こる現象なのかな、と短絡的に感じてしまいますね。
「sociobiology」(社会生物学)という言葉が適切かどうか、それとも「ethology」(動物行動学)という言葉が適しているんじゃないか、といった論争も全く知りませんでした。本を読んでみないと何とも言いようがないのであるが、人間が生物としての社会性を備えるということがあっても何ら不思議でもないし、以前に自分の記事にもそうした「当てはめ」を例に書いてしまったこともある。
人間だけが他の動物達と特別異なった社会性を有しているというのも、何だか腑に落ちないのである。本来、野生的生活を行っている人間がいれば、本能的な生物としての社会性だけが発揮されると思うし、そのプログラミングは遺伝的要素以外に有り得ないように思う。だって、人間の基本行動は、全て脳細胞の電気化学的反応の結果によるし、そうした脳内だけじゃなく体内の反応は全て物理化学的な基本原理よって成り立っているものと思えば、タンパク質をはじめとする「分子群」が「何か考えて」反応を決定することは到底有り得ないと思うからである。発生学的に考えた場合、遺伝的にプログラミングされた社会性を持たないことの方が、違和感があるような気がする(とはいうものの、生物発生学のことは、よく知らないのですけれど)。だが、人間が他の動物と違っていたことは、「言葉」を持ったことであると思っている。これが、社会性獲得にどう影響するのかは知らないのであるが(ゴメンナサイ、詳しくは各自で勉強してみて下さいね)。きっと、成長過程におけるシナプス形成の経路に大きく影響するんじゃないか、と思うのです。
根本的な疑問として、人間の自殺がある。これは、生物の本能的なシステムを考えれば、生存本能があるのではないかと思うのであるが、そのシステムは時として作動しないということです。これが何故なのか、がよく判らない。生物の最も重要なことは「最強の遺伝子を保存しようとすること―あらゆる環境で破壊されない最も安定的なタンパク質を残そうとすること?」なのではないか、と思ったりするのです(これは個人的感想なので、生物学者や専門の研究家は正しい見解を出していると思いますので、そちらを信じるようにして下さい)。遺伝子を構成するタンパク質が「自己破壊」を意図することなど通常ないのではないか、と思うのです。細胞には「アポトーシス」というプログラム死があるが、これが発動するのは場合によるし、個体死がプログラムされている訳でもない(崖から飛び降りる動物がいたな、なんだったか忘れた)。人間の自殺発動には個体数が多いとか食料不足という要因があるのか(多分ないと思うけれど)、それとも、言語の獲得によって脳内に誤った幻想を生み出すことにより、脳内の信号出力にエラーを生じた結果が自殺という形なのか、よく判らないのです。でも、後者は私が思う、人間の自殺なので、本当のことは判りません(近年ドーキンスの「利己的遺伝子」が日本でも流行っているようですし。適用の勘違いも非常に多いとは思いますが、どこが間違っているのかは私にもよく判りません、笑)。
まあ細部は別として、社会生物学についての論争が、今後は別な形で現れてくる予感を評者は述べており、脳研究や遺伝子研究の成果によって、新たな理論が生まれてくるのかもしれない。
この本は、読むのも辛そうだが、買うのはもっと辛い。2巻合わせて10800円だ。こりゃ、買えないな。古本屋に並ぶのを待ってみるか、図書館に入るのを待つかですね。
2つ目は、村上龍著の新作、『半島を出よ』(評者・池内 恵 日文研助教授)についてで、先頃新聞の下段広告に大きく出ていたので、作品が出されたことは知ってしました。簡単な説明も勿論読みましたよ。昨年の防衛大綱の決定前に書いた、テロ対策の記事を思い起こしました。そして、今日の書評ではなかなか面白いことが書かれていたので、紹介したいと思ったのです。
評者曰く、「村上龍がシミュレーション小説の形で示した近未来は、刊行と同時に現在の事象とシンクロし始めた。作者の勘というのは恐ろしい。」と。ふーん、凄そうなんだね。北朝鮮のコマンドっていうのは、著者の何かの政治的意図とかあるのだろうか。それと、防衛政策に何かのご意見があるのかもしれない。近年、何故か経済にご執心のことと聞いたことがあります。そこに原点が隠されているのかもしれない。まあ、読んでみないことには判らないんですが。
あと、評者の強烈な記述も、かなりインパクトがありました。
「この小説に横溢する危機意識は、日本で当事者として事に対処している人の多くが感じ取っており、表出する場を得ていなかったものだろう。徹底的な無能ぶりを描かれる官僚機構の内側からも、おそらくリークがあったのではないか。」
これは、ある意味、今の官僚制度に対して、単純に「NO」という意志表示なのではないか、とも思う。多分、経済に関心を寄せていた作者が、今の日本の状況を見るに、官僚達が行ってきたシステムの大きな欠陥に気付き、同時にそれを殊更低い評価として描くことで、変革を意識させようとしたのかもしれない。きっと、取材して書いたりするでしょうから、現職官僚から色んなお話を聞いて書いたのでしょう。
そして最後に、評者のえらく過大評価的ご意見が書かれていた。次の言葉で締めくくりたい。この本を直ぐに読むかどうかは、買うお金次第かな(笑)。
近年の「村上龍」は、新聞社やテレビ局を凌ぐ一つの「メディア」と化している。
今日の書評には、特に興味を引いた作品が2つあったので記事に書いてみたい。
一つ目はウリカ・セーゲルストローレ著『社会生物学論争史』(評者・渡部潤一 国立天文台助教授)で、このような有名な論争があったなんて知りませんでした(笑)。いきなり評者の言葉に、「20世紀の代表的な科学論争の一つ」と書かれており、不知の罪を感じざるを得ません。E・ウィルソン著「社会生物学」に端を発する科学論争に、政治的・思想的論争へと展開するというのも、どうしてなのかな、と思う。「社会生物学者=遺伝決定論者=保守派、批判派=環境決定論者=マルクス主義者というレッテルさえ貼られてしまう始末」という言葉は、こうした論争の場合によく起こる現象なのかな、と短絡的に感じてしまいますね。
「sociobiology」(社会生物学)という言葉が適切かどうか、それとも「ethology」(動物行動学)という言葉が適しているんじゃないか、といった論争も全く知りませんでした。本を読んでみないと何とも言いようがないのであるが、人間が生物としての社会性を備えるということがあっても何ら不思議でもないし、以前に自分の記事にもそうした「当てはめ」を例に書いてしまったこともある。
人間だけが他の動物達と特別異なった社会性を有しているというのも、何だか腑に落ちないのである。本来、野生的生活を行っている人間がいれば、本能的な生物としての社会性だけが発揮されると思うし、そのプログラミングは遺伝的要素以外に有り得ないように思う。だって、人間の基本行動は、全て脳細胞の電気化学的反応の結果によるし、そうした脳内だけじゃなく体内の反応は全て物理化学的な基本原理よって成り立っているものと思えば、タンパク質をはじめとする「分子群」が「何か考えて」反応を決定することは到底有り得ないと思うからである。発生学的に考えた場合、遺伝的にプログラミングされた社会性を持たないことの方が、違和感があるような気がする(とはいうものの、生物発生学のことは、よく知らないのですけれど)。だが、人間が他の動物と違っていたことは、「言葉」を持ったことであると思っている。これが、社会性獲得にどう影響するのかは知らないのであるが(ゴメンナサイ、詳しくは各自で勉強してみて下さいね)。きっと、成長過程におけるシナプス形成の経路に大きく影響するんじゃないか、と思うのです。
根本的な疑問として、人間の自殺がある。これは、生物の本能的なシステムを考えれば、生存本能があるのではないかと思うのであるが、そのシステムは時として作動しないということです。これが何故なのか、がよく判らない。生物の最も重要なことは「最強の遺伝子を保存しようとすること―あらゆる環境で破壊されない最も安定的なタンパク質を残そうとすること?」なのではないか、と思ったりするのです(これは個人的感想なので、生物学者や専門の研究家は正しい見解を出していると思いますので、そちらを信じるようにして下さい)。遺伝子を構成するタンパク質が「自己破壊」を意図することなど通常ないのではないか、と思うのです。細胞には「アポトーシス」というプログラム死があるが、これが発動するのは場合によるし、個体死がプログラムされている訳でもない(崖から飛び降りる動物がいたな、なんだったか忘れた)。人間の自殺発動には個体数が多いとか食料不足という要因があるのか(多分ないと思うけれど)、それとも、言語の獲得によって脳内に誤った幻想を生み出すことにより、脳内の信号出力にエラーを生じた結果が自殺という形なのか、よく判らないのです。でも、後者は私が思う、人間の自殺なので、本当のことは判りません(近年ドーキンスの「利己的遺伝子」が日本でも流行っているようですし。適用の勘違いも非常に多いとは思いますが、どこが間違っているのかは私にもよく判りません、笑)。
まあ細部は別として、社会生物学についての論争が、今後は別な形で現れてくる予感を評者は述べており、脳研究や遺伝子研究の成果によって、新たな理論が生まれてくるのかもしれない。
この本は、読むのも辛そうだが、買うのはもっと辛い。2巻合わせて10800円だ。こりゃ、買えないな。古本屋に並ぶのを待ってみるか、図書館に入るのを待つかですね。
2つ目は、村上龍著の新作、『半島を出よ』(評者・池内 恵 日文研助教授)についてで、先頃新聞の下段広告に大きく出ていたので、作品が出されたことは知ってしました。簡単な説明も勿論読みましたよ。昨年の防衛大綱の決定前に書いた、テロ対策の記事を思い起こしました。そして、今日の書評ではなかなか面白いことが書かれていたので、紹介したいと思ったのです。
評者曰く、「村上龍がシミュレーション小説の形で示した近未来は、刊行と同時に現在の事象とシンクロし始めた。作者の勘というのは恐ろしい。」と。ふーん、凄そうなんだね。北朝鮮のコマンドっていうのは、著者の何かの政治的意図とかあるのだろうか。それと、防衛政策に何かのご意見があるのかもしれない。近年、何故か経済にご執心のことと聞いたことがあります。そこに原点が隠されているのかもしれない。まあ、読んでみないことには判らないんですが。
あと、評者の強烈な記述も、かなりインパクトがありました。
「この小説に横溢する危機意識は、日本で当事者として事に対処している人の多くが感じ取っており、表出する場を得ていなかったものだろう。徹底的な無能ぶりを描かれる官僚機構の内側からも、おそらくリークがあったのではないか。」
これは、ある意味、今の官僚制度に対して、単純に「NO」という意志表示なのではないか、とも思う。多分、経済に関心を寄せていた作者が、今の日本の状況を見るに、官僚達が行ってきたシステムの大きな欠陥に気付き、同時にそれを殊更低い評価として描くことで、変革を意識させようとしたのかもしれない。きっと、取材して書いたりするでしょうから、現職官僚から色んなお話を聞いて書いたのでしょう。
そして最後に、評者のえらく過大評価的ご意見が書かれていた。次の言葉で締めくくりたい。この本を直ぐに読むかどうかは、買うお金次第かな(笑)。
近年の「村上龍」は、新聞社やテレビ局を凌ぐ一つの「メディア」と化している。