日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

衡平性と対象性と相似性と   追記20230322

2023-03-21 10:51:31 | 日記
 「衡平性と関係性」で書いた通りのことを含み,中学時代に受けた英語教師からの暴言と暴行と侮辱。自分の体操服の名前を取らされるという事をさせられ,教師の禁忌と謂われる行為をされたということに為る訳で,何故この様な人が教師に成っているのかという問題となる。

職員室に呼び出しをしたという事は少なくとも自身が普通の行動をしていないという認識は在った訳で,「存在の跳ね返り」を詰まりは照射されて来たものの跳ね返りを受け取り,存在者として受け取った訳だ。この場合に「問うこと」に付いて深く考えていないという事なのか。

ある一定の所まで出来るという事の話から察するに,その事に対して「真直ぐ問うていない」という事か。存在者に対する「「問い」と「問う」」(追記・い・と・う)という行為と「対象」を為しているという事か。

 対象漸く出たな。そうか深く問うという行為をしてこないでその場に存在者としてという事か。

確かに,私を落とした大学に説明を求めに行った時に,もっと簡単で単純な人が良いと奇妙なことを言われて困惑したが,正にソコに齟齬があったという事か。寧ろ逆じゃないかと。

そうか,そうか,そこで衡平性が出てくるんだな。漸く理解出来た。

 衡平性を成立させるには存在者側に相似性が存在していることが必須であるか。成程なぁ~。

衡平性が存在していない存在に,互いにその対象性を求めていたと言う訳か。漸く解ったな。


そしてこれを含む関係性をと言う訳か・・・。。

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衡平性と関係性

2023-03-15 07:35:22 | 日記
https://blog.goo.ne.jp/dark_angel_jam/e/acc254b3e73e7418c591b3a97d04bac1

 この記事にある教授の話し通り「君が居るから~来たんだ」同一日ではなかったが,ハイデガー的な思想が意識され認識される瞬間なんだなと言う事が解る瞬間か.

 Twitterより.「形而上学の時の講義終了時のことで,挨拶した時に教授が私に言った言葉で教授の言葉の意味が漸く解った。君が居るから此処にいる。この為にこの学校に来たんだと言い,何を言っているのか解らなかったが,何だか関連している言葉ですごく印象に残っている言葉だったけど此れと繋がっていたとはな。」


与えられた事が無い課題を長文記述する経験が不足していたな.どうにかして,この不足している感じを補おうとしていたが,それが詰まりの「時」というヤツだったんだな.教授会の様なもので度々語られていたことではあったが,私自身はそういう感覚は余り感じないからか,何がそれなんだろうという感じだったものな.

その「時」が来たという感じか.何だか明智光秀の逸話を思い出してしまうな.何故かな・・.

 並行して,同時に漸く朧気ながらに見えてきた感じはするな.自分の考えることへの終着点が.

 衡平性が大いに不足している感じ.他にもあるけど.

それぞれが何と無く解っていたけど,頭の中で拡散していたんだよな.頭の隅の方に在って関係するのか?という感じだったものな.
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情と慕いと悔いと

2023-03-07 17:37:10 | 日記
 教育に付いて允か此処まで自分の認識が追い詰められるとは思はなかったな。認識の許可する在り方だから苦労するんだろうが,心理学と数学を勉強していたからどの段階が問題なのか具体的な姿が見えてくるし,これでもしも勉強して無かったらどんな風に考えていたかなっとゾッとする。

 安易に自身の小さな経験を語っていたのではないかと想像して,恥ずかしくなる思いもある。そして大きい意味での経験という事を,恐らく後に本来は述べたい筈なのにそのことが書けずに悔しい思いもするのだろうか。

 悔いるという事は殆ど無いと思っていたが,自分自身の恥ずかしさの所為で言い出せなかったという事が当て嵌まるのかと最近認められる様になった。大学で仏文学を学んでいた教授に,学びの素晴らしさや楽しさや苦しさを語っている姿に慕う思いを抱き,その気持ちは何なんだろうか。

 という事が当時は解らなくて,現在に至って一緒に写真を撮れなかった事が,後悔だったんだと理解し認識出来る様になったということ。

これが後悔というヤツだったんだな~。あの時感じた離れ難い思い。

当時は自分がオカシくなってしまったと思ってしまったものな。この感情は何だろうかという思いで。

教授は次の年度で辞めようかと思っていたが,私の時まで延ばしてくくれたという論文内容を授業で語っていたことがあり,その内容を書いたのは正しく私だったなという事があり,大学ではこんな事があるのかと衝撃を受けたんだよな。

何だか何を書いているか分からなくなって来たから終了だな。
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身体と輝きとハイデガーと

2023-02-19 23:06:37 | 日記
 在り方の視点である課題の勉強を与えられしてみると、自分が随分と何重にも填められていたなと思えて仕方がない。先ずは数学から解る認知、それから心の在り方の非認知思想性、そしてそこに在る存在であるのだから、「だれでもどこでも」聖職者の一人であるのだから、「だれでもどこでも」それを目指しているのだという認知の錯覚。

その存在とはどういうものであるのかという、根本的な問いとも呼べるものに気付かなかったという方が正しいのか。それとも幼さ故に気付かなかったのか。

それとも気付きたくなかったのか。此れは気付きたく無かったのかもしれないか。

小学生時代にそれらしいことをフッと思った事を文章を書きながら思い出した。壁を突っ張りながら攀じ登って居る時か。

体幹圧力を解消する最中は憶えていて、解消後にも憶えて置こうと思って居たら考えが混乱してきたのか。解放された清々しい感覚に寄って。

そこでもし、そのことを憶えていて探していて見つかれば、それらしいモノにハイデガーというものに行き着き知ることになったのかな。

矢張り学び知るべきかもなぁ。
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勇者パーティを追放されたビーストテイマー  20221227

2022-12-13 10:59:57 | 日記
 勇者パーティを追放されたビーストテイマー最強種の猫耳少女と出会う。という作品があるが。この作品を観ると本当に涙腺が緩くなったなと思う印象を受ける。

此処まで昔は涙脆くなかったんだけどなっというものと、何に対してなのかという思いと。カナデに対してという想いもそうかもしれないというものと、カナデが感じる思いというのもそうかもと思えたり。

最終回と言う事で終わってしまうかという気持ちと再びお帰りなさいという何気ない言葉に思はずぐっと来てしまった。主人公の哀しさを本当に解っている存在であろうというものと。

そして最後のエンディングの映像は前に絵を描いていて使用したいという許可を貰っていたKikunoさんの作品からなんだろうなという事を想像させ、こんな風に使われるんだという想像もしなかったモノに出来ていて、何を表現したかったのだろうと芸術に疎いからか、汲み取れず毎回考えてしまう。それでも毎回観たくなる以上に繰り返し目が離せない映像に仕上がっている。
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