統計の基礎ができた居たので論理学は触りだけで、良いのではないだろうかと思っていたが、それがベイズ統計学から問題に成って来るとは私の見通しが甘かった。
更にその中の述語論理学というのが関係してくるとは全くの意外と言う他無い。情報学で基礎的な論理はしていたから、更に心理史の教授の直接の話でもそれ程難しいものは用いられないという言葉を鵜呑みにしてしまった。
恐らく教授からしたらそれ程難しい論理の話では無いという事であったのか。それはそうだよな、観ている点が違うのだから、当然の結果という帰結かな。だから、そういう意味で長岡亮介の動画は意味があったという事になるのかな。
私の場合は同値という話を完全に理解できていなかった。これが本質の話だと語る長岡亮介のスゴ味だよな。何故そう思うかといえば、この中で面白いというか、穴の埋まる感覚を覚えて、面白いなんて思えるんだから仕方がないよな。
高校の頃の教科書なんかも確認したが丁度省かれて居たところだった。周りは予備校かなにかでやっているところだったんだろうな。当然気付く事も出来ないか・・。そうしてこういうところに影響が出てくるとはね。何故省くんだろうと当時はそんな程度にしか思っていなかったし、精神状態も入院する程滅茶苦茶だったし、未来への希望なんて無かったし。その時の自分で出した結論の結果を受け入れる、受け入れ難さから来る、選択肢の無さの哀しさと、「その時の自分」を自身では、どうする事も出来ない悔しさ。進みたいものの進めない認め難い精神状態。周りは行けるのにという。その他の学校の対応や家庭での問題に、学友問題に、理解者の死に、まあ色々と色々と。
良く生きて居られたよな。17歳で亡くなってしまう人の精神状態と気持ちが痛い程解かる。置かれた状況はそれぞれだろうが、本当にそう思うと、まあ、仕方がないのか。
青山繫晴は十代から、何十年もしてから「余生」と悟ったらしいが、私は十代の頃からだもんな。周りの大人は軽く観ている向きもある様だが、誰も分らないんだろうな・・・。
方法を探る為に聞いた事があるのだが、長岡亮介の科目がとても勉強に為ったと言う話が真であったという事か。合格した人は粗であるが長岡亮介の科目を取っている人だったという話であったし。本質だったんだなと感慨深い話だったな。。
更にその中の述語論理学というのが関係してくるとは全くの意外と言う他無い。情報学で基礎的な論理はしていたから、更に心理史の教授の直接の話でもそれ程難しいものは用いられないという言葉を鵜呑みにしてしまった。
恐らく教授からしたらそれ程難しい論理の話では無いという事であったのか。それはそうだよな、観ている点が違うのだから、当然の結果という帰結かな。だから、そういう意味で長岡亮介の動画は意味があったという事になるのかな。
私の場合は同値という話を完全に理解できていなかった。これが本質の話だと語る長岡亮介のスゴ味だよな。何故そう思うかといえば、この中で面白いというか、穴の埋まる感覚を覚えて、面白いなんて思えるんだから仕方がないよな。
高校の頃の教科書なんかも確認したが丁度省かれて居たところだった。周りは予備校かなにかでやっているところだったんだろうな。当然気付く事も出来ないか・・。そうしてこういうところに影響が出てくるとはね。何故省くんだろうと当時はそんな程度にしか思っていなかったし、精神状態も入院する程滅茶苦茶だったし、未来への希望なんて無かったし。その時の自分で出した結論の結果を受け入れる、受け入れ難さから来る、選択肢の無さの哀しさと、「その時の自分」を自身では、どうする事も出来ない悔しさ。進みたいものの進めない認め難い精神状態。周りは行けるのにという。その他の学校の対応や家庭での問題に、学友問題に、理解者の死に、まあ色々と色々と。
良く生きて居られたよな。17歳で亡くなってしまう人の精神状態と気持ちが痛い程解かる。置かれた状況はそれぞれだろうが、本当にそう思うと、まあ、仕方がないのか。
青山繫晴は十代から、何十年もしてから「余生」と悟ったらしいが、私は十代の頃からだもんな。周りの大人は軽く観ている向きもある様だが、誰も分らないんだろうな・・・。
方法を探る為に聞いた事があるのだが、長岡亮介の科目がとても勉強に為ったと言う話が真であったという事か。合格した人は粗であるが長岡亮介の科目を取っている人だったという話であったし。本質だったんだなと感慨深い話だったな。。