探偵ものと言える続きの記事として、見えないものを観る第一段階としては統計学があったという事になる。様々な手法で現象がどの様な意味を持つのかを紐解いていく。
そこから更に次の段階として論理的展開を見せるが、その論理的展開を構築していくのが記号論理学であり、その記号論理学の中に数学認知の過程が展開して行くということになる。
論理を展開していく場合に文章ではある一定の所までしか、大多数は理解できず、極稀に極めてその分野の才能があるものにしか理解出来ないという事が起こり、記号の重要性が認識されて、記号であれば容易に大多数も理解するようになる。それは書かれていることが記号であれば何でもない事であるという様に。
その記号を超え数学認知の段階に入ってくると具体的な現象の表れが数学のソレになるが、簡単な例で言えば、高校数学の対数の底変換定理だろうか。これは表現されているそのものに本質は無く表現されていないものに本質的な意味があるという極めて解りやすい例であるがこの繋がりに気付くのに恥ずかしながら随分遠回りしてしまった。
振り返ってみると初めの頃から、それは始まって居た。小学・中学・高校とどの段階の先生にこれはどんな意味があるの?っと(追記)「実際に職員室に訪ね、質問に特に尋ねても答えが返ってこない。」
それは不思議で、何処か結節点が切れている気がして、感覚だけは理解していた。そして繰り返されるのは具体的な数学問題としての適用だけで答えと呼べるものでは無かった。
そんなことを再び大学指定の統計学教科書でも再びである。この教科書自体は評価されっている筈なのに、再びその事が起きて確信した。今回も再び証明箇所が省かれていたという事実。
そこから更に次の段階として論理的展開を見せるが、その論理的展開を構築していくのが記号論理学であり、その記号論理学の中に数学認知の過程が展開して行くということになる。
論理を展開していく場合に文章ではある一定の所までしか、大多数は理解できず、極稀に極めてその分野の才能があるものにしか理解出来ないという事が起こり、記号の重要性が認識されて、記号であれば容易に大多数も理解するようになる。それは書かれていることが記号であれば何でもない事であるという様に。
その記号を超え数学認知の段階に入ってくると具体的な現象の表れが数学のソレになるが、簡単な例で言えば、高校数学の対数の底変換定理だろうか。これは表現されているそのものに本質は無く表現されていないものに本質的な意味があるという極めて解りやすい例であるがこの繋がりに気付くのに恥ずかしながら随分遠回りしてしまった。
振り返ってみると初めの頃から、それは始まって居た。小学・中学・高校とどの段階の先生にこれはどんな意味があるの?っと(追記)「実際に職員室に訪ね、質問に特に尋ねても答えが返ってこない。」
それは不思議で、何処か結節点が切れている気がして、感覚だけは理解していた。そして繰り返されるのは具体的な数学問題としての適用だけで答えと呼べるものでは無かった。
そんなことを再び大学指定の統計学教科書でも再びである。この教科書自体は評価されっている筈なのに、再びその事が起きて確信した。今回も再び証明箇所が省かれていたという事実。