日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

数学観の激変と精神の受容   20220214

2022-01-04 09:15:53 | 日記
 見えないもの観るとという事でも第一段は書いた。

https://blog.goo.ne.jp/dark_angel_jam/s/%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE

この中で書かれていること以外の事に付いても他にあったなという思いにもさせる。言語自体も見えないものであったなという事。他にもという形では書いた、感覚の所だろか。

端的に求めると、統計に論理に記号に形で型に性質に現象に。

この挙げていたものを理解と体性感覚として掴むのは大変な困難が伴った。尊敬する祖父の言葉一つ一つに示唆深いものはあるが、その肝心の細かい所までは本人が亡くなってしまったあとであったので尋ねようがない状態。

それでも、私が一番祖父に似ているという事は大好きだった祖父の妻であった、祖母が確信して言っていた。それから祖母意外の伯父にも言われたことがある。

なので示唆的な手掛かりは示唆の解説される説明通り明示されはいないが、指し示す様と言うのが正にであり、自身の似た存在であると言え、かつ私よりは優れているのは間違い無い存在からの啓示とも一般的には呼ばれるものだろうが、その通りに確信するには至る。

それを用いた状態で言語を学ぼとする場合は何が必要で、何が必要ないのかが、確信をもって選択できる。これまでの混乱が噓の様に明確に解る。


何を優先すべきかというより、「何が優先であるか」という事。私の場合は感覚であるということ。

学んできた結果でもあるのだろうが、数学観の激変と自分は普通では無いと受け容れた精神だろうか。昔伯父と父が普通について盛んに話していたことを思い出してしまう。
コメント
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