日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

判別式と徳川家康と英語学習と

2022-07-21 00:01:59 | 日記
 日本文化チャンネル桜に対してあるひとが裁判官である様だと話したという。私から言わせれば判別式の様な存在だと思うが言って居る事は同じ様なものかもしれない。

今でこそ近い立場を取っているけれども昔は私はやや違う立場でもあった。それが誤りを認めて寄ってきてくれた様な思いはある。

そんな時に、昔似たような表現を徳川家康が家の本家に寄った時に毎回似た言葉を語っていたという話あったなという事を思い出す。徳川家康が本家に来た時のある時は「中心が解らなくなっていたんだな」と語っていたり、ある時は「解らなくなって来ていたんだな」と語っていたりと他にもあるが。

ASDとHSPの傾向があるからだろうか、伯父が話してくれた事をよく覚えている。

何故こんな事を書きたく為ってしまったのか。考えてみると言英語についての学習を本格的に始めているからだろうか。

英語学習を行う時に日本語自体の理解力が大変重要になってくるのだが、その辺りの日本語文法に付いての事が曖昧だからだろうか。母語を中心として拡張していく方法について凡そ確信を以て見通すことが出来る様になったからそんな思いと共通するものを感じるからだろうか。

久し振りにブログの題名通りのものが書けたな。久々に気分が良い。
コメント
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