かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の11 追加版

2019-08-24 22:35:00 | 短歌の鑑賞

 鶴岡善久氏による追加版
  ※(鶴岡善久)とあるものは「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
    より引用

  渡辺松男研究2の2(2017年7月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年) 
    【蟹蝙蝠】P14~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放

11 ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある

      (レポート)
 かけがいのない母親の一生と、とても自分の生を左右する存在とは思えないような青虫の一生とを対比した、大胆な表現に度肝をぬかれた。他者のなかでも最も自分に近い自分を生んだ母親と、他者のなかでも遥かに遠い他者であろう青虫との対比をし、その落差ゆえに、悲しみが極まる。「一生なんて青虫にも」と、母にもあったであろう、幼虫から蛹そして蝶へと羽搏いた一生を思い浮かばせる。青虫ときくとぷよぷよコロコロしたあの体を浮かべるが、青虫の一生、といわれるとその変身の様を思う。一首は反語的に詠まれていて、母の命以上に重いものなどこの世にはないんだ、と詠われているのだと思う。愛するたった一人の母だけれど、その母の一生に思いを馳せると、その変化のさまに、青虫の変化してゆく様を連想したのではないだろうか。作者との命の縁はまったく次元が違うのに、思い浮かんでしまった「青虫」がいまいましい。「◯◯なんて◯◯にもある」と口語で絞り出す声調に、母の死をなんとか受け入れようとし、なお受け入れられないでいる作者の悲しみや寂しさが宿る。と、私は鑑賞した。(真帆)

     (当日意見)
★お母さんを青虫に例えるなんて大胆なうたいかただなあと思いました。(曽我)
★自分の母だからってそんなに特別ではなくて、青虫にだって一生はあるんだって
 言っていると思っていましたが、レポートを読んでなるほど蝶になって最期は綺
 麗になるんだって劇的なことが含まれているんだなって感心しました。(T・S)
★そうですか、私は全く素直にこの通りに読んでいました。確かにトンボでも蝉で
 もなく青虫をもってきたのは変身のイメージが作者に思われてはいたのでしょう
 けれど。華麗な変身とかお母さんの一生の中にあった華やかな時代とか、そうい
 うことはあまり考えませんした。一生って部分ではなくてボリュームとして総体
 としてみた一生だと思います。反語的というと青虫を虫けらとして見くだしてい
 るみたいで、青虫のために気の毒と思います。もちろん、お母さんの一生は作者
 にとって大切なんでしょうけれど、だからといって青虫を侮するのは作者の思想
 から外れるんじゃないかなあって。
  あんまり事実と対照させてはいけないのでしょうけれど、お母さんは作者が大
 学生の時亡くなっています。そして歌を始めたのはずっと後です。心の中でずっ
 とお母さんの死を引き摺っていて、短歌の言葉を得た時に吐き出したというか歌
 ったんでしょうね。お母さんの歌、とてもたくさん作っていますから、どれだけ
 作者にとって重い存在だったかはよく分かります。もっともリアルタイムでは青
 虫は出てこなかったでしょうから、時間が経過しているからこそ詠めた歌だとも
 思います。この歌については『泡宇宙の蛙』の自選五首に入っていて本人のコメ
 ントがあるので、纏めるとき書いておきます。私はむしろ斎藤茂吉の「死にたま
 ふ母」なんかと比較して読む方が、この歌は面白く読めるかなあと思っています。
   (鹿取)
★なるほど。寺山修司なんか歌の中で生きているお母さんを殺していますものね。
   (真帆)


      (後日意見)
大井学のインタビューで、『泡宇宙の蛙』の自選五首を聞かれてこの歌を挙げ本人が下記のように書いている。
     (鹿取)
 母にも一生がある。青虫にも一生がある(もっとも青虫は蝶になりますが)。それはあまりにもあたりまえのことです。しかし両者を同列に置いたところが生の内実としての等価性をもただちに暗示してしまい、ケシカランと言いますか、ある種のタブーに触れたようです。また外側から強引に概念化したところが不快感を誘因しているかも知れません。しかしこの歌は自己納得のための歌でした。母の一生の意味を突きはなすことによって逆説的に浮かびあがらせようとしたのでした。母は大切なものです。とても。切っても切っても切れないものです。その前提があるから詠めたのだと思います。(「かりん」二〇一〇年一一月号の渡辺松男特集)


         (後日追加)2019年5月
 急死した母と青虫の一生が比較される。一見奇異な発想と思われるが、決してそうではない。つまり渡辺松男においては人間とそれ以外の生物の存在の境がまったく取り払われているのである。従って母も青虫もその一生には何の隔たりもないのである。さらにいえば「生」に対するある種のニヒリズムにも通底しているのである。生あるものはすべて滅びへの道を歩むのだといってしまえばそれまでだが、渡辺松男には「生」すなわち「通過」という根底の考え方があるように思われる。(鶴岡善久・2000年) 


     (後日追加)2019年8月
 (当日意見)の鹿取発言に「私はむしろ斎藤茂吉の「死にたまふ母」なんかと比較して読む方が、この歌は面白く読めるかなあと思っています。」とあるが、最近「死にたまふ母から阿古父、そして青虫」という評論を書いた。その一部分を抜粋する。「玄鳥」は高名な「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足(たら)乳(ち)根(ね)の母は死にたまふなり」を踏まえている。(鹿取)
 
 そして渡辺の歌は、人間と他の生き物の命の等価性を直観した、まさに渡辺らしい挽歌である。母が死んで悲しみの極みにいるとき(という設定のもと)「一生なんて青虫にもある」という想念が閃いたのだ。茂吉にとって玄鳥は母と対局にあったが、渡辺の青虫は母と地つづきである。「かりん」2019年8月号


コメント
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