鶴岡善久氏による追加版
※(鶴岡善久)とあるものは「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
より引用
渡辺松男研究2の8(2018年1月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
【百年】P40~
参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
59 妣(はは)はいまいずくのくにを旅ゆくや大欅揺れ水ふりこぼす
(レポート)
亡き母(妣(はは))を思い大空をみあげる作者。欅の大樹からざーっと水滴がおちてくるというのだが、作者の涙もあるようだ。欅の木肌のもつ少し女性的なすべらかさも妣への連想とうまくつながってゆく。(真帆)
(後日意見)
「妣(はは)はいまいずくのくにを旅ゆくや」の「いずく」はたぶん宇宙的なスケールなのだろう。大きな欅が風に揺れて雨滴をふりこぼした時、ふっと妣の通り過ぎた気配を感じたのかもしれない。母性と水は繋がりやすいが、「水滴」でも「雨滴」でもなく本質的な「水」を選択したところが、歌を大きくしている。(鹿取)
(後日追加)2019年5月
…この歌には渡辺松男ののびやかな生死観が表出されている。上の句は字句通りに理解すればよい。下の句には珍しく渡辺松男の自然回帰の心情が豊かにあふれる。遠い時空を旅する妣の魂と、目前に水をふりこぼす大欅。渡辺松男のニヒリズムの通路の先方にある明るさが見えてくる歌である。(鶴岡善久・2000年)