鶴岡善久氏による追加版
※(鶴岡善久)とあるものは「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
より引用
渡辺松男研究2の8(2018年1月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)【百年】P40~
参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
57 百年が浮雲として過ぎ行けり木が木でがまんしているあいだ
(レポート)
「木が木でがまんしている」とは、やはり作者の今の胸中のように思える。木とて風などになりたいときもあるだろう。我身に与えられた宿命に真向かい耐え根を張る間、遥々と百年が過ぎたというのだが、「浮雲」に対比させ木の矜持も感じられる一首だ。(真帆)
(当日意見)
★100年は人間にも把握できそうな時間だ。過ぎ去ってみれば浮き雲のように軽
い時間だ。木であり、自分である下句のがまんはそれほど嫌ではなかった。肯定
的な感じ。(慧子)
★漱石の「夢十夜」の第一夜を思いだしました。死ぬ前に女が、墓の傍で100年
待ってというので、残された男が100年待つ話です。あの小説では太陽が昇っ
ては沈み、昇っては沈み、男が騙されたのではないかと思う頃、百合の花が自分
の鼻先で開いて、100年が来たんだと分かるという話です。「夢十夜」や55
番歌「松の根が岩を溶かしているあいだ日輪まわる巨の風車」では太陽が時間を
表していましたが、ここは雲ですね。木は飛びたとうとしても根が張って動くこ
とができない。それでずっと一箇所に我慢している。動けない木の上を浮き雲が
来る日も来る日も浮かんでは消えていった。そうして100年が過ぎた。私は木
にあまり人間の心を投影しないで、木そのものとして鑑賞した方がいいと思いま
す。(鹿取)
(後日意見)
この一連、椎、松、杉といろんな木が出てくるが、渡辺松男が書いたエッセイ【樹木と「私」との距離をどう詠うか】(「短歌朝日」2000年3、4月号)に次のような記述がある。
◆それぞれの木には名前があり、形も大きさもみんな違う。違うものに対しては同じ距離はとれ
ない。私と欅との距離、私と杉との距離は違うのだ。
上の引用部分は上記のエッセイの導入部分。より本質的な部分を上記エッセイから抜粋で下に引用する。(鹿取)
◆木は生き方として不動性を選択したときに垂直性を運命づけられた。
◆私と木との関係はダイナミックで、私の思いのなかに閉じ込めようとしてもは
み出してしまう部分、そこに木の本領があるのだし、そこに私は引かれる。
(後日追加)2019年5月
…渡辺松男の独特の時間軸が展開されるが、この歌で注目すべきは「木が木でがまんしている」の部分である。百年だろうが五百年だろうが枯れないかぎり木が木として存在し続けるのは自明の理である。にもかかわらず渡辺松男は木が木であることにひどく忍耐していると断ずるのである。これは木の存在そのものが非情に切迫した状況におかれていることにほかならない。これは何気ないしごく当り前な是認の事物でさえも、存在としての鋭い痛みを有している、と渡辺松男が考えていることの証である。(鶴岡善久・2000年)