かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の一首鑑賞

2020-06-21 16:53:40 | 短歌の鑑賞
     ブログ版清見糺鑑賞 4  
          かりん鎌倉支部  鹿取未放  


24 〈宗教は阿片〉とぞさはさりながらわれは阿片を神と吸いたし
                 「かりん」95年1月号

 この歌は『死者の書』展を見た感想のようだ。支部で鑑賞したとき「神と」の解釈が分かれた。①神として ② 神と共に。 ①だと、阿片を神様だと思って吸いたい、というのか。 ②はコミカルなんだか悲惨なんだかよく分からない。神は随分地に落ちた感じだ。①の宗教は阿片なんだけれど、それでもよいから現実から逃避できるなら神としての阿片を吸いたいというのだろうか。


       (後日意見)(2012年7月)
 この歌、〈宗教は阿片〉の阿片は比喩だが、下の句の阿片は阿片そのものを指しているのでそこにズラシがあり、解釈がしづらくなっている。〈宗教は民衆の阿片である〉はマルクスの言葉として知られている。もっともマルクスの言葉は、親友ハイネの「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」の借用らしい。それは措いて、またレーニンも同様のことを言っている。レーニンは言葉のみでなく宗教の弾圧を行い、教会を壊し、聖職者を処刑にした。当然行き過ぎであるが、言わんとするところは分かる。宗教は階級闘争を押さえ込む役割を果たすからである。すなわち来世での救いを掲げることで、搾取される側にはこの世でどんなに辛くても忍従しろと説き現実世界での解決から目を背けさせる。逆に支配階級には、この世でわずかばかりの施しをすれば救済されると説き、搾取することに免罪符を与える。
 ちなみに、挙げた歌の前に「かりん」の同じ月に載った歌で削った二首がある。
チベットの空深ければ飛ぶ鳥に骨肉あたえて葬りせるかも
『死者の書』によれば初日がおもしろい解脱は性的陶酔に似て
 掲出歌は、この2首目の下の句「解脱は性的陶酔に似て」からの連想により、阿片を引き出しているのだろう。マルクスやレーニンはそう言っているけれど、まあ、そういう難しい話は措いて、阿片がそんなに気持ちの良いものだったら阿片を神としてあがめて吸ってみたいよ、というのだろう。階級闘争云々はさりげなくずらして、しかしちゃっかり彼らが否定した神を結句で登場させているところが、この歌の味なのだろう。


       (後日意見)(2020年6月)
  寺田寅彦のこんな文章を見つけた。
  宗教は往々人を酩酊させ官能と理性を麻痺させる点で酒に似ている。そうして、 珈琲の効果は官能を鋭敏にし洞察と認識を透明にする点でいくらか哲学に似てい るとも考えられる。酒や宗教で人を殺すものは多いが珈琲や哲学に酔うて犯罪を あえてするものは稀である。(『銀座アルプス』)


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