かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の17 追加版

2019-08-26 20:14:35 | 短歌の鑑賞

 鶴岡善久氏による追加版
  ※(鶴岡善久)とあるものは「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
    より引用

  渡辺松男研究2の2(2017年7月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年) 
    【蟹蝙蝠】P14~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放

17 ごうまんなにんげんどもは小さくなれ谷川岳をゆくごはんつぶ

     (レポート)
 (渡辺松男の大変有名な代表歌、優れた評論文をたくさん生んだ一首でもある。)
 群馬と新潟の県境にある谷川岳は、古くから登山家の憧れの山だが、気象の変化が激しく、世界で最も遭難死者の多い山なのだそう。「死の山」や「魔の山」などの異称がある。

①「ごうまんなにんげんども」とは?
(ア)登山の途中、食べ残した弁当やおにぎりなどを持ち帰らず、沢水に捨てて流してしてしまう
   ような、食べ物を粗末にする傲慢な人間の行為を指しているのか。
(イ)谷川岳という大自然へ挑み、制覇しようと登頂をあきらめない人々の傲慢さを指しているの
   か。
②「谷川岳をゆくごはんつぶ」とは?
(ア)谷川岳の沢水を流れてゆくご飯粒を見ているのだろうか。
(イ)(ア)とは全く違う角度から、例えば、谷川岳の山の頂をめざしロッククライミング(岸壁
  登攀)しながら登って行っている人々がいて、その背が陽光に輝き白く見えるため、麓からは
   まるで小さなご飯粒がのぼっていっているように見えるというのだろうか。その小さなご飯粒
   は、登ってゆけばゆくほど、作者の視界から遠ざかり小さくなるのだと言っているのだろうか。
③「小さくなれ」とは?
(ア)人は己の傲慢さを自覚し、本来の小さき存在へ戻れよ、と警鐘を鳴らしているのか。
(イ)登山の人が岩肌を登り行くほどに小さくなってゆくのをみて、命を惜しまずゆきたいのなら、
  頂上までどんどん行ってしまえ!と言っているのか。

 (ア)(イ)二通りづつの鑑賞を試みたが、結局わたしは①から③まで、みな(イ)の方だと結論した。つまり、作者は麓にいて、谷川岳の岩肌をご飯粒に見えるようになるまで登ってゆき、さらに頂上まで登りつめてゆく人々を眼に追っている。これまで多くの人が遭難死した事実を思い出しながら、懲りずに自然に勝てると思い上がる人々にあきれているのではないか。しかしだ、そんなにも登頂したいなのらばやるがいい、挑戦してみよ、と言っているような気がしてならない。(真帆)


     (当日意見)
★他の人はこの歌をどう評論しているのですか?(鹿取)
★すみません、そこまでは調べていません。(真帆)
★教科書でも採られている歌ですよね。(鹿取)
★ごうまんと言っているけれど、ごはんつぶと言ったところには優しさがある。(慧子)
★ごうまんな人間共は少し遠慮しなさいと言っている。谷川岳を行くあなたたちは所詮ご飯粒のよ
  うなものですよと。(T・S)
★人間はのさばるなっと思っている。(慧子)
★死亡する人も多い谷川岳を登るとき、自然の偉大さ、人間の卑小さをそういう大自然の中では思
  いしらされますから、自ずと人間は自然の前に小さくなっているのだと思います。漢字だとそれ
  こそゴツゴツして上から目線のお説教臭い歌になりますが、平仮名を多くしてユーモアのある大
  らかな歌になっていますよね。
  谷川岳を登っていく人達をご飯粒に例えているんでしょうね。でも「ごうまんな」というのは真
 帆さんが書いている命知らずの登山とか目先の個々のことではなくて、もっと大づかみに現代の「人
 間」というものは傲慢だととらえているんだと思います。ヒメベニテングタケのむくむくの歌とか、
 欅になって来るクルマをひっくりかえす歌とか、同じ系譜だと思います。傲慢な人間共は少し謙遜
 しろって日頃思っていて、谷川岳を行くご飯粒のような人間を見たとき(別に見てなくてもいい。 
小さいことをごはんつぶに例えているので、レポーターの説のように白く見える必要もない。)小 
さくなれという思いが甦った。直観的な把握だと思います。もちろん、ごうまんなにんげんどもに
 は作者も含まれているんだと思います。(鹿取)

      (後日意見)
 当日の鹿取発言の中の歌2首は次のとおり。(鹿取)

  地に立てる吹き出物なりにんげんはヒメベニテングタケのむくむく
      『寒気氾濫』
憂鬱なるわれは欅の巨人となり来るクルマ来るクルマひっくりかえす
      『歩く仏像』

          (後日追加)2019年5月
 上の句の厳しい人間指弾も下の句の透視的描写によって心が解放される秀歌である。とくに下の句の発想はまことに意表をつくもので何とも愉快である。かつてルネ・シャールは詩は健康によいといったが、この歌もまたすこぶる健康によい歌である。(鶴岡善久・2000年)


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渡辺松男の一首鑑賞 2の15 追加版

2019-08-25 18:51:56 | 短歌の鑑賞

 鶴岡善久氏による追加版
  ※(鶴岡善久)とあるものは「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
    より引用

  渡辺松男研究2の2(2017年7月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年) 
    【蟹蝙蝠】P14~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放


15 釣り合えよ 今日死ぬ鳥のきょうの日と千年生きる木の千年と

     (レポート)
 「釣り合えよ」と初句切れ、一字アケの強さ。短命の鳥と、千年生きる樹木とを比較し、「釣り合えよ」と言っている。どうか生きとし生けるものの命の重さは、等しくあってくれたまえ、と詠っているのだと思う。(真帆)


      (当日意見)
★祈りですよね。涙ぐましい気がします。松男さんの思考の形がよく見える歌で、
 大好きな歌です。11番歌(ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫
 にもある)ではお母さんと青虫を等価に置いていましたが、ここでは鳥と樹木で
 すね。(鹿取)


         (後日追加)2019年5月
 死にゆく鳥のきょうの一日と千年生き続けてきた木の長大な年月の同一化とは、ほかならず渡辺松男の時間の認識が日常としての一般的時間の特質を大きく超越していることの証である。時間がその特質を超越(逸脱)するとき、時間は一瞬にして「無限」へ転化する。無窮の世界では鳥の一日と木の千年とが完璧なかたちで「釣り合う」のである。(鶴岡善久)


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渡辺松男の一首鑑賞 2の11 追加版

2019-08-24 22:35:00 | 短歌の鑑賞

 鶴岡善久氏による追加版
  ※(鶴岡善久)とあるものは「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
    より引用

  渡辺松男研究2の2(2017年7月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年) 
    【蟹蝙蝠】P14~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放

11 ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある

      (レポート)
 かけがいのない母親の一生と、とても自分の生を左右する存在とは思えないような青虫の一生とを対比した、大胆な表現に度肝をぬかれた。他者のなかでも最も自分に近い自分を生んだ母親と、他者のなかでも遥かに遠い他者であろう青虫との対比をし、その落差ゆえに、悲しみが極まる。「一生なんて青虫にも」と、母にもあったであろう、幼虫から蛹そして蝶へと羽搏いた一生を思い浮かばせる。青虫ときくとぷよぷよコロコロしたあの体を浮かべるが、青虫の一生、といわれるとその変身の様を思う。一首は反語的に詠まれていて、母の命以上に重いものなどこの世にはないんだ、と詠われているのだと思う。愛するたった一人の母だけれど、その母の一生に思いを馳せると、その変化のさまに、青虫の変化してゆく様を連想したのではないだろうか。作者との命の縁はまったく次元が違うのに、思い浮かんでしまった「青虫」がいまいましい。「◯◯なんて◯◯にもある」と口語で絞り出す声調に、母の死をなんとか受け入れようとし、なお受け入れられないでいる作者の悲しみや寂しさが宿る。と、私は鑑賞した。(真帆)

     (当日意見)
★お母さんを青虫に例えるなんて大胆なうたいかただなあと思いました。(曽我)
★自分の母だからってそんなに特別ではなくて、青虫にだって一生はあるんだって
 言っていると思っていましたが、レポートを読んでなるほど蝶になって最期は綺
 麗になるんだって劇的なことが含まれているんだなって感心しました。(T・S)
★そうですか、私は全く素直にこの通りに読んでいました。確かにトンボでも蝉で
 もなく青虫をもってきたのは変身のイメージが作者に思われてはいたのでしょう
 けれど。華麗な変身とかお母さんの一生の中にあった華やかな時代とか、そうい
 うことはあまり考えませんした。一生って部分ではなくてボリュームとして総体
 としてみた一生だと思います。反語的というと青虫を虫けらとして見くだしてい
 るみたいで、青虫のために気の毒と思います。もちろん、お母さんの一生は作者
 にとって大切なんでしょうけれど、だからといって青虫を侮するのは作者の思想
 から外れるんじゃないかなあって。
  あんまり事実と対照させてはいけないのでしょうけれど、お母さんは作者が大
 学生の時亡くなっています。そして歌を始めたのはずっと後です。心の中でずっ
 とお母さんの死を引き摺っていて、短歌の言葉を得た時に吐き出したというか歌
 ったんでしょうね。お母さんの歌、とてもたくさん作っていますから、どれだけ
 作者にとって重い存在だったかはよく分かります。もっともリアルタイムでは青
 虫は出てこなかったでしょうから、時間が経過しているからこそ詠めた歌だとも
 思います。この歌については『泡宇宙の蛙』の自選五首に入っていて本人のコメ
 ントがあるので、纏めるとき書いておきます。私はむしろ斎藤茂吉の「死にたま
 ふ母」なんかと比較して読む方が、この歌は面白く読めるかなあと思っています。
   (鹿取)
★なるほど。寺山修司なんか歌の中で生きているお母さんを殺していますものね。
   (真帆)


      (後日意見)
大井学のインタビューで、『泡宇宙の蛙』の自選五首を聞かれてこの歌を挙げ本人が下記のように書いている。
     (鹿取)
 母にも一生がある。青虫にも一生がある(もっとも青虫は蝶になりますが)。それはあまりにもあたりまえのことです。しかし両者を同列に置いたところが生の内実としての等価性をもただちに暗示してしまい、ケシカランと言いますか、ある種のタブーに触れたようです。また外側から強引に概念化したところが不快感を誘因しているかも知れません。しかしこの歌は自己納得のための歌でした。母の一生の意味を突きはなすことによって逆説的に浮かびあがらせようとしたのでした。母は大切なものです。とても。切っても切っても切れないものです。その前提があるから詠めたのだと思います。(「かりん」二〇一〇年一一月号の渡辺松男特集)


         (後日追加)2019年5月
 急死した母と青虫の一生が比較される。一見奇異な発想と思われるが、決してそうではない。つまり渡辺松男においては人間とそれ以外の生物の存在の境がまったく取り払われているのである。従って母も青虫もその一生には何の隔たりもないのである。さらにいえば「生」に対するある種のニヒリズムにも通底しているのである。生あるものはすべて滅びへの道を歩むのだといってしまえばそれまでだが、渡辺松男には「生」すなわち「通過」という根底の考え方があるように思われる。(鶴岡善久・2000年) 


     (後日追加)2019年8月
 (当日意見)の鹿取発言に「私はむしろ斎藤茂吉の「死にたまふ母」なんかと比較して読む方が、この歌は面白く読めるかなあと思っています。」とあるが、最近「死にたまふ母から阿古父、そして青虫」という評論を書いた。その一部分を抜粋する。「玄鳥」は高名な「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足(たら)乳(ち)根(ね)の母は死にたまふなり」を踏まえている。(鹿取)
 
 そして渡辺の歌は、人間と他の生き物の命の等価性を直観した、まさに渡辺らしい挽歌である。母が死んで悲しみの極みにいるとき(という設定のもと)「一生なんて青虫にもある」という想念が閃いたのだ。茂吉にとって玄鳥は母と対局にあったが、渡辺の青虫は母と地つづきである。「かりん」2019年8月号


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渡辺松男の一首鑑賞 2の8

2019-08-23 18:02:34 | 短歌の鑑賞

 鶴岡善久氏による追加版
  ※(鶴岡善久)とあるものは「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)    より引用

   渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
    【無限振動体】P9~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放

  
8  森林そのものになりたき菌ひとつ増殖をし分裂をし 熊楠叫ぶ

(レポート)
 菌は森林の陰の木の根元や朽木などに繁殖するものとして捉えられる。ところが菌ひとつが「増殖をし分裂をし」とすさまじい勢いであることに「森林そのものになりたき菌」と想定外の様相に驚き、そう驚いたのは作者ではなく、熊楠だった。一首の構成として二重の想定外がある。(慧子)
  ※熊楠とは南方(みなかた)熊楠。生物学者、民俗学者。15年間世界各地を
   遊歴。大英博物館東洋調査部に勤務。民俗学、文献学、言語学に精通し、ま
   た粘菌類の研究で有名。(学習研究社「新世紀百科辞典」)


(当日意見)
★これだけが突然南方熊楠という実在する人物が出てきて、作者と共鳴する所があ
 る人なんだろうなと。粘菌類の研究者だって知らなかったのですが、ああこんな
 菌があるんだ、あんな菌があるんだって熊楠が叫んでいるところを作者が想像し
 たのが新鮮でした。(真帆)
★熊楠にだけ仮託されなくても、作者のことでも在るんじゃないか。(A・Y)
★「森林そのものになりたき菌」がたった一つですよね。どういう状況なんでしょ
 う?新しい菌を発見したという叫びですか?(真帆)
★6番歌(月光のこぼれてはくるかそけさよ茸は陰を選択しけり)でも言いました
 が、菌は種の意志として「森林そのものになりたき」と思っている。「増殖をし
 分裂を」することは生命の自然の摂理だから想定外でも何でもない。熊楠は粘菌
 類の研究者ですから、そういう生命についてはよく知っているわけです。ではな
 ぜ熊楠が叫ぶかというと、爆発的に増えていく菌を見て面白くって仕方がない、
 だから感嘆の叫びを上げているのだと思います。熊楠さん、とても破天荒な人
  だったらしいですけど。(鹿取)
★茸には良い菌と悪い菌があるから森を征服しようと思っているのかしら。悪い菌
 だったら熊楠の叫びは悲鳴でしょうし、よい菌だったら喜びだと思うのですが。
 桜の木なんかも菌にやられて倒れたりしますが。(T・S)
★それなら分かります。(慧子)
★熊楠は自然保護の人でもあるんですよ。木を伐ろうとした島一つを反対運動をし
 て守ったそうです。(A・Y)
★現実生活では良い菌か悪い菌か大問題ですけど、松男さんの歌ではそれは問題に
 していないです。あくまで菌という生命体が「森林そのものになりた」い意志を
 もって増え続けている。その生命力に熊楠は感嘆している訳です。善悪とかはこ
 こでは考えない方がいいです。(鹿取)
★では「森林そのものになりた」いとはどういう意味ですか?(T・S)
★生命というのは無限に発展したいものなんです。生命の本質ってそれでしょう。
 そこには善も悪も区別が無いのです。ジョン・ケージが影響を受けた東洋思想と
 か禅とかいうのにその辺りが繋がるのではないですか。(鹿取)
★いいか悪かは人間が決めることなんですね。(T・S)
★そうです、そうです。(鹿取)


     (後日追加)2019年5月
 菌類は森をめざす。森は菌類との共棲によってのみ本来の森となる。五句目に「熊楠叫ぶ」とあるが、この歌集の根源としてあるのはまさしく南方熊楠の「森の思想」なのではあるまいか。コンイロイッポンシメジ、イヌセンボンタケ、サンゴハリタケなどこの歌集には沢山の菌類が登場する。きのこは生体系のなかで物質の分解とさらなる還元という根源的な役割を果たす。特に菌類はバクテリアを捕食し、その活動の絶頂期に示す鮮やかさはほとんど感動的であるという。消費者としての粘菌は森の生死をさえ左右する。いま詳説する余裕はないが菌類や粘類に学問的に注目したのは南方熊楠である。輪廻にある生命はニルバーナ・マンダラと同一であるとして南方熊楠は秘密儀としての「森の思想」を説いた。この歌集のあとがきを見るまでもなく渡辺松男の『泡宇宙の蛙』を読み解く鍵は「南方熊楠」にありと指摘してこの稿を終える。
(鶴岡善久・2000年)

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渡辺松男の一首鑑賞 2の5 追加版

2019-08-22 18:46:58 | 短歌の鑑賞

 鶴岡善久氏による追加版
  ※(鶴岡善久)とあるものは「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
    より引用

   渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
    【無限振動体】P9~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放

  
5  するすると世界を抜けてゆくきのこ今宵は白く川の辺に佇つ
 
        (レポート)
 たとえばものを理解したとき、又別の境地に至った時、もとの場にいながら、そこを抜け出るような感覚がある。「概念を重たく被り耐えているコンイトイッポンシメジがんばれ」という4番歌と対称的に「するすると世界を抜けてゆく」とは、実際の伸びとそれ以上の意味を込めていよう。「川の辺」という場、「白く」「佇つ」という様を想像すると、きのこの傘が旅にあるものの笠のように思えて漂泊者めいた感じがする。(慧子)


      (当日意見)
★面白い歌ですね。(真帆)
★松男さんが歌いたいものは「いつもこちら側にいる自己同一的実体的作歌主体に
 とどまっているかぎり不可能」なんですから、そこから出ている歌を理屈で考え
 ても分からないですよね。映像としてこの世界を抜けていく茸を思い浮かべると
 私は楽しいです。三途の川だかわからないけど川のほとりに今宵は佇んでいて、
 明日は彼岸に行くのかもしれない。傘を旅人の笠に見立てるのは面白いし漂泊者
 というのは一つの興味深い捉え方だと思いますが、作者の意図はもうすこし違 
 う気がします。私はこの茸は一本か集団か迷いましたが、まあ無数の集団で帯か
 饂飩のようになってするすると世界を抜け出ていくのです。どこにも集団とは書
 いてないですけど。(鹿取)
★茸は繁殖力が強くていろんな所に出ちゃう。芝生の中とかに出ちゃう。本当だっ
 たら森の中に生えているはずの茸が、意外にも川のほとりに立っている。
  (T・S)
★確かに思いもよらないところに茸はポッと生え出てくるんだけど、「在ることの
 不思議、無いことの不思議」を詠いたい人にとって、彼が詠いたい事はそれでは
 ない。でも私は作者ではないので、意図はこうであろうと推測するだけですけど。
 全然松男さんの歌の本質的なところは掴めないんだけど、でも面白いから読みた 
 い。作者にはごめんなさいと思いつつ読んでいます。(鹿取)


     (後日追加)
 私は入眠次幻覚というのをしばしば体験するが、夢と違って自分はこのベッドで横たわっている事は分かっている。そこに何者かがやってくるのだが、ドアの外まで来たなというのは分かる。寝室のドアは鍵が掛かっているが、ドアの隙間を気体のようになってするりと入ってくる。そして何者かも形になる…(鹿取)


         (後日追加)2019年5月
 かくしてきのこは汚れた世界から脱出してとうとうと白く流れる川のほとりに屹立する。きのこがすべての生物の存在を代表するのである。(鶴岡善久・2000年)


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