De cela

あれからいろいろ、昔のアルバムから新しい発見まで

和田太平伝(後編)

2019-08-05 11:30:30 | 私小説
(四)噂
半兵衛たちが帰り道に再び次男の宮大工を訪ねた。そこの棟梁は中野村とは深い付き合いがあったが、同時に角田村とも行き来があり、和田家の噂話も豊富に持っていた。この1,2か月、白鷺堂(分家遼庵家の屋号)の動きが激しかった。白鷺堂は庭に出来上がったばかりの豪華な石造り土蔵2棟に本家の土蔵にあったものを運び込んだ。この仕事には多くの村人がかかわったようである。雨漏りで傷んだ木箱にあった掛軸やら骨董品やらの虫干しも手伝ったので中身についても結構うわさが広がっていた。庄屋の土蔵の中身には誰でも興味関心が湧く。
数日後、中野村では太平が角田村の和田家の養子になるらしいという噂が独り歩きしていた。半兵衛こそあまり知らなかったが、土地では角田の白鷺堂で治療を受けた村人も近所におり、和田家の噂話も古くから広まっていたようである。半兵衛も太平も、この婿入り話は予想外に不利な感じがして乗る気が薄れたものの、話を持ってきた人たちの顔を立てるためには簡単には断れないと悩んだ。数日後太平は野津田の道場で横田に面会し、角田村に行ってきた旨の報告をした。太平は横田に和田家の実情を話すこともできず、横田のよかったよかったという言葉をうつむいて聞くだけであった。横田は早速承諾の書状を出すということでこの話はすでに抜き差しならぬ状況になってしまった。

さらに何日か後、太平は単独で角田村白鷺堂の遼庵を訪ね、お世話になる旨伝えた。この時遼庵から思いもよらない条件が出た。遼庵に14歳の娘がいる。その娘が16歳になったら嫁にとるように。それまでに母屋を家族が住める状態に普請すること。その後遼庵が保管している資産は引き渡すという。また、同時に書類の束を太平に渡した。それは本家の分家からの借金証書の束である。農地はことごとく分家の抵当に入っていて、現実に太平が使える農地はどれだけあるか定かでなかった。
この一件で太平はこの縁談はきっぱり断ってやると覚悟を決めた。分家が本家を借金で縛って自分が本家を名乗ろうとしている。

(五)フサとの祝言
太平は遼庵が出した条件に付いて半兵衛と話し合った。太平は多摩の道場以来小野澤フサとは付き合いが続いていた。フサは実家に戻っていた。和田との縁組は破棄してフサと一緒になりたいと半兵衛に話した。そこで出た結論は、近くフサと半兵衛家で祝言を上げてしまう。そのうえで和田家との両養子縁組の届けを出してしまう。本家の唯一の生存者、養祖母の届け出で受理されるはずである。遼庵からの借金証書はすべて養祖母との契約になっているし、届出人として資格十分なはずである。
 5日ほど後、太平とフサの仮祝言が半兵衛家で行われた。ほんの身内だけで祝言は済ませ、遼庵の耳に届く前に手続きを済ませてしまおうと、翌日太平はフサを伴って和田本家に行った。養祖母を口説かなければならないが、それには案ずるほどのことはなかった。養祖母は素直に、しかも大喜びでその話を受け入れた。太平はその場で養祖母を背負い、歩いて10分ほどのところにある角田村役場に駆け込むようにして入った。案の定届出人の資格として養祖母が適当かどうか役人の間で話し合いがされていたが、事情を知っている役人は遼庵よりも適当だろうということで直ちに受理されることとなった。文久元年二月二十八日のことである。入籍の証書の写しを作ってもらい、そこを立ち去ろうとしたとき、村長と名乗る熊坂という男が声をかけてきた。太平のことはすでに承知している様子であった。そして、落ち着いたら藩から指示の出ている検地などの職を受けてほしいと依頼された。

(六)先祖伝来刀剣一対
 フサとともに引っ越しの準備をしなければならない。入籍の手続きが終わると義祖母を背負って和田本家に戻り、フサは義祖母の寝床の用意をした。義祖母は太平に長短一対の刀を渡した。今日こそは太平はそれを受け取った。太刀は備前長船、脇差は兼近とのことである。
義祖母の願い通り太平は長短を袋から取り出し腰に差して見せた。ほとんど何も語らないがこれで安心して死ねると言っているのであろう。また、自分用の懐刀があるが、それはどこにしまい込んだかわからなくなっているので、フサが引っ越して来たら必ず渡すと言った。
 今日のところは直ちに中野に帰ることにした。遼庵に顔を見られたくないし、2,3日のうちに必ず今日の太平の行動は遼庵の知るところとなるのでそれを待ってからの方が良かろう。母屋は太平夫婦が住めそうな四畳半ほどの女中部屋があるがその他は手を入れなければすぐには住める状態ではない。四畳半があれば当面は何とかなるので、ともかく近く越してくることにした。フサの嫁入り道具をすべて持ち込むことは不可能なので大半は半兵衛の家に置いてくることになる。二人は義祖母に、なるべく早く引っ越してきて、義祖母の世話をするから安心してくれと話して和田家を後にした。


(七)分家百年戦争
 太平とフサは中野村に戻り引っ越しの準備に明け暮れた。和田家には本家としての伝来の物品は分家に移されていることは承知だが、当面の生活用品、台所用品は残されている。寝具と衣類さえあれば生活は可能と思われるので、フサの嫁入り道具は極力置いていくことにした。太平も身辺の必要品と書物だけ持参する。書物と言えば買いそろえた日本外史だけは太平の宝物の一つである。農業を学ばなかった太平にとって農業の手ほどき書が必携だが全く持ってなく、これからは書物の出費が増えていくことになる。
 養子縁組手続きから4日後の文久元年三月四日、大八車に荷物を積んで手伝いの男手を二人つけてフサとともに角田村に参じた。隣家の遼庵家にだまっているわけにもいかず、荷物の運び込みはフサと手伝いに任せて挨拶に参じた。すべてを承知の筈の遼庵は意外と冷静で本家の守りをよろしくお願いすると言った。思う通りに事は進まなかったと言え、遼庵としては本家という重荷から解放されるという利点も感じていたし、自分の娘を嫁にすることに失敗したとはいえ、本家の伝来の物品を自分のものにする理由は出来た。これからは遼庵家が本家を名乗るから心配するなというようなことも太平に言った。太平は一切の資産が戻ってこないであろうことは覚悟していた。帰り際に、鉄舟先生に会うことがあったらよろしく伝えてくれと言った。この顛末を鉄舟には何と言い訳したらよいか太平の悩みではあったがすべて正直に話すつもりだった。
 和田家に戻ると引っ越し荷物は全部運び込まれていた。義祖母が寝起きしている仏間の仏壇がほぼ空っぽになっていた。古くなってはいたが仏壇の作りは相当なものだった。過去の栄光がしのばれた。仏具・位牌まですべてを持ち去るということは遼庵の思いのほどが現れていた。百年戦争の始まりである。太平としては和田家の再興という役目は無くなったということでホッとする面もあった。現に、和田家がどういういきさつで生まれ、どんな栄光を築いたかなど詳しいことは何一つ知らされていない。それを知る書物さえ残っていない。養子縁組とは言え、入籍手続きで太平の名の前に太兵衛の名は附けなかった。

次回エピローグ