De cela

あれからいろいろ、昔のアルバムから新しい発見まで

和田太平伝・エピローグ

2019-08-06 10:56:37 | 私小説
和田太兵衛という名前は歴史上では相模風土記角田村の記述の中に初めて出てくる。

新編相模風土記稿 巻の五十八
村里部 愛甲郡巻之五 角田村
    西蓮寺 同宗(註:浄土宗を指す)下荻野村法界寺末一行山稱名院ト号ス、元和元年八月和田太兵衛承応元年二月二十七日死ス、法名一叟道句、今村民子孫有 ト言フ者建立シテ地蔵千躰ヲ安ス、故ニ今ニ千體堂ノ号有リ、後年僧傳西直蓮社真蓮社正譽正徳五年二月十五日卒住持ノ時一寺トナス、故ニ此僧ヲ中興開山トセリ、今ハ阿弥陀ヲ本尊トス

 元和元年とは1615年、すなわち大坂夏の陣が終わった年である。徳川時代天下泰平の世の中が始まった。
泰平の世界で和田太兵衛は菩提寺として西連寺を建立し、地蔵千躰を安置した。和田太兵衛は承応元年1652に死亡とある。この千體堂の場所は、このブログの初期、筆者が「千體堂発掘記」として記述してきた場所である。和田太兵衛家の敷地の最東端にある。正徳五年1715におそらくこの西連寺の最盛期があったのであろう。墓地は和田一族以外使っていないのでこの時点でも和田の最盛期は続いていたと思われる。
 しかしながら、相模国風土記が編纂されたのは天保12年1841であり、「現在村人の中に子孫がいる」と書いてあるに過ぎない。この表現は、明らかに和田太兵衛の子孫はいたが、ただ居るに過ぎないという記述に読める。すなわちこの頃没落状態であったのだろう。
 和田太平伝に記したように、太兵衛の系図は太平が現れた時すべて分家に移動して、分家を正当な和田太兵衛伝承の家とする意思があったようで、真実は隣家の蔵の中にあり知りようがない。
 そういえば、昭和30年台、隣家の蔵に盗賊が入った。数年後容疑者が他の件で御用となり、この蔵に入って刀剣二振りを盗み出したことが公となった。この刀剣の価値が高いものだったので銃刀法の関係から所持の由来を警察に問われ、和田家の祖先の物品であることが新聞にも公表された。
 太兵衛とは和田家がそれなりの「家」として出現して以来継承している名前であり、何代目であってもこの名が使われていた。もちろん和田太兵衛信房などと幼名も言わないと何代目かは分からない。そして太平は太兵衛の名を使ったことはない。いまや、どんな家柄だったのか子孫に伝えることもなく遺跡や墓標で長い歴史があったことを推定するだけである。
 千體堂発掘記では想像を飛ばして、千體地蔵尊の意味は鎌倉時代の和田義盛の乱での戦死者千体を意味しているのではないかと考えている。



和田太平のその後(1)生活
 
 太平の養子縁組のいきさつがわかると、その後の和田家、太平の生き方が気になる。すべての資産を没収されてどうやって生きて行ったのだろうか。
 この時代、土地の所有権登記など厳格な法整備がなく、何年も家督が相続されずに使われなくなった農地などは小作人などにより使われていた。太平が住むようになると次々と小作人と称するものが、今後年貢はどうすべきか相談に来た。そのようにしてその年の暮れまでには大まかな農地資産概要が見えてきた。小作人たちは隣家の白鷺堂の許可をもらって耕作していた、とか、年貢米は白鷺堂に収めていたという。現に土間には使いかけの1俵の米俵があり、老婆の食事に事欠くことはなかった。遼庵から預かった土地を担保とした借金証書からも所有地の概要は辿ることができた。特に抵当に入っていたという確たる証拠もなく、多くの土地が自然と戻って来た。そのようにしてともかく、今後農家としてやっていく十分な農地が回収できた。ほとんどは小作地でコメは自分で耕作しなくとも自己消費や売って生活はできるめどがついた。屋敷うちというか屋敷に隣接した空き地で野菜など十分に耕作できる土地もある。
 幕末から明治に渡って、太平は土地測量を命ぜられ、角田村全域にわたった土地所有を明確にする地図と台帳を編纂した。また、村人と協働で中津川堤防などを整備して新しい農地を開墾することも主宰した。それら役所の仕事の報酬はほとんどなかった。土地整備や地図編纂で太平固有の発想で、それまで明確に決まっていなかった地名や文字を当てはめていった。堤防を作ることで生まれた新しい田畑の地名、小字名を仙台下と命名したのも一例である。本来千體堂の下にできた農地なので千體堂下とあるべきである。ここにも和田家由来を避けた気持ちが現れている。現代まで誤解を招いている地名が「海底」である。「おぞこ」と読む。当時正式な文字が当てはめられていなかったのだろうが、於曽講などと書く地名がないではなかった。ここは海底だったのだろうという見方が幅を利かし、テクノプレートで出来た地層に海の貝殻化石が発見されてますます海の底という言い伝えがまかり通るようになった。
 太平は質素倹約を恥じることなく実行し、普段はつぎの上に継ぎ接ぎすると言った典型的な水飲み百姓の風袋でいたようだ。

和田太平その後(2)義祖母の死
 母屋が住める状態ではなくなっていたということから、その後太平はどのような普請をして住んでいたのだろうか。母屋が倒壊寸前という状態であったが、長屋門はさほど雨漏りもなかった。長屋門には門の左右に十畳ほどの住処が付いており、他に土間と厩があり小作人家族が何組か住んでいたことがある。第一子が生まれるころは長屋門を補修してそちらに移り住む。明治半ばごろまでには母屋を壊した木材を再利用して門扉を外して中央にも部屋を作り、子の太松の時代には最盛期4家族15人ほどが住んでいた。その家を母屋のあった近くまで約20m動かして、途中太松の子義治が大改修を加えるが昭和40年代末までに住む人がいなくなり朽ち果てた。
 太平が移り住んで1か月ごろ、義祖母が亡くなった。まだ親戚のつながりなど様子がわからない太平を助けて葬儀を取り仕切ってくれたのはもう一軒の分家、屋号「中垣外」とその一族だった。母屋の中にある多くの戸棚の中には結構上等な無数の食器類が遺されており4,50人の人寄せには不足はなかった。割と近い代では旅籠を営んでいたと思われる。大小一組の個人用の膳が50組ほどきちんと整理されて収まっていた。

和田太平その後(3)剣術普及
 和田太平は明治32年(1899)亡くなるまで天然理心流の普及に努め、本業は剣術指導者だったと言える。明治29年に田代勝楽寺に献納した和田太平局の剣道奉納額がすべてを物語っている。天然理心流は太平から子の太松に伝承し、それはさらに孫の義治まで引き継がれ昭和20年の太平洋戦争終戦と同時に途絶えた。終戦を境に義治は自分の子を含めて剣道の伝承を一切断ち切った。太平は、行政府から命ぜられる仕事と、剣術とともに地域伝統の伝承となどで社会御貢献したが百姓仕事の合間に読書・書画に興じ質素倹約の生活から脱することはなかった。