De cela

あれからいろいろ、昔のアルバムから新しい発見まで

アイアムケンジ

2015-01-31 23:07:16 | 話題・問題・ひとこと
孫娘の玲子が一人でじじばば2人だけの我が家を訪ねてきた。小学3年生である。途中まで母親に連れてきてもらい、我々は駅に迎えに行った。
上の孫娘が中高一貫校を受験するために受験勉強が佳境に入ったこと、母親が原稿書きで忙しくて相手にしてくれないことなどから週末に遊びに来たもの。

彼女は、最近新聞をよく読むという。イスラム国人質事件に関心があるので主に第一面を読むのだそうだ。男の子で新聞をすごく良く読んでいる子に刺激されているみたいだが。

今日の夕刊がテーブルの上にあった。第一面トップ記事はやはりこの事件の関係。「ヨルダン 国内対応苦慮」とある。
その次にやや小さく、「シリアでも『私はケンジ』」という見出しが見えた。

そこでこんな話し合いになった。私の説明は間違っているだろうか。

じじ:「シリアでも私はケンジ・・」という見出しから何を感じた?
れいこ:わからない
じじ:「私はマララ」という本を書いた人のことは?
れいこ:それは知っている。頭を銃で撃たれて、生き返って、ノーベル賞をもらった。
じじ:それではフランスで起こった新聞社を襲ったテロ事件のことは?
れいこ:事件のことは知っている。
じじ:市民がこの事件を怒って、「私はシャルリ」と書いたプラカードをもってデモ行進をした。シャルリとは襲われた新聞の名前だ。
それと関連して、今度はシリアの市民が私はケンジというプラカードをもって写した姿をフェイスブックに載せた。

じじの考え方はこうなんだ。
マラらの書いた本。I am Malala.という意味は単に自分の名前を言っているのではない。私はマララと訳すより、マララはここにいる・・というような意味なんだ。逃げも隠れもしない、堂々と女の子の教育のことはどんなに責められようが続けるという覚悟だ。
だからフランスの市民がI am シャルリと書いたプラカードの意味もわかる。私もシャルリだ、シャルリを殺すのなら私たちも殺せるか、という、言論の自由の前に体を張る意思を示したのだと、じじは思う。

だから、シリアの人が私はケンジと言ってくれたことに胸が詰まるほど心強さをじじは感じるんだ。
れいこはヨルダンが難しい立場にあることはわかっている。ヨルダンの市民がアイアムケンジと今言うことはできない。その隣で、イスラム国という過激集団に多くの国土を蹂躙されているシリアの市民が意思を示してくれたことは、それがわずかな人だけであってもいろんな意味があって、日本と、難しい立場にある国々の人たちとも連携が取れていることに感謝しなければならない。

れいこ:じじの話はむつかしすぎるけどわかった気がするよ。

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