『小熊座』2021年2月号より 〈マスク考〉

2021-12-18 22:10:08 | インナーポエット

 

 

 

 

 

 

 

 

 


     マスクの世言葉を隠し声隠し    津髙里永子

 コロナウイルス禍の昨今、マスクを題材とした句が季節を問わず見受けられるようなった。マスク着用が通年となったせいである。ただし、ウイルス感染防止のマスク俳句では扱いにくい。マスクは冬季の感冒や寒気を防ぐためのものとして冬の季に定着してきたからだ。「夏マスク」の用語は、苦心のほどに同情するが無理な造りである。では、冬の季語ではなくなったのか。まだ結論を出すのは早いだろう。これまでも医療用や防塵用のマスクがあって、季語とは別の言葉であった。これは医療や調理用の手袋が季語の手袋でないのと同様である。それでも季語手袋は生き続けてきた。季語マスクもコロナウィルス禍のマスクも俳句においての用い方次第といえようか。

 こうした言葉の意味の変遷は、何も季語に限ったことではない。電話と言えば、かては玄関あたりの電話であったが、今では、固定電話とか黒電話とか呼ぶ。俳句世界ではどうなのか。車はかつては自動車以外も指す言葉だったが、誰もが自動車以外を想像することがなくなった。例えば苺やバナナは現実的には季節感を喪失している。だが、俳句の中では、まだわずかに季節感を残している。無季と断定できない。懐炉は今や紙懐炉が主流だが、これも表現の仕方で現代的なシーンを演出できる季語となっている。この句のマスクはコロナウイルス禍の時代を踏まえて、無季の題材として表現したものだ。誰もがマスクをして生きねばならない現代のあり方が中七、下五の表現に象徴的に切り取られている。



     聖樹の灯何も抱かず犬眠る    松岡百恵

 この句の鑑賞にも、そうした言葉のイメージの変遷がうかがえる。かつて犬は外で飼われていた。「犬眠る」といえば、犬小屋の犬と相場が決まっていた。〈凍るばらの木犬は鎖のなかで寝る 鬼房〉の世界である。野良犬の遠吠えも聞こえた頃だ。この句も街角の聖樹の下の犬の姿と受け取ることは可能。だが、やはり屋内の愛玩犬の寝姿と解するのが自然だろう。それでも、いろいろ想像を巡らせながらどちらに読んでも、この句の世界にはゆらぎがない。肝要なのは中七である。

 昨年の十二月、福島県飯舘の山津見神社に出かけた。四度目の訪問である。さまざまな伝説が残るが他の狼や犬を祀る神社同様、犬は安産の神である。多産で子を大切にするのは、神社の狼の絵からも、すぐ想像できる。群れをなし、互いに寄り添い抱き合い眠るのが犬本来の姿なのだ。この句の「何も抱かず」には飼われて生きねばならない犬の孤独が込められている。それは、どこで飼われていようが関わりのない飼育される動物の根源的な悲しみの姿なのである。

 

〈高野ムツオ主宰の好句鑑賞〉

 

 

 

 

サザンカ

 

 

 

 

 

 

 

 


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