30数年前に、斎藤茂太(しげた)氏に仕事でお会いしたことがあった。
そのことを書こうとして調べると、彼はすでに2006年11月に亡くなっておられたのである。
本屋へ行けば、いつも数冊の著書が並べられていたので、まだお元気でご活躍なのだ、と漠然と思っていたのだ。
葬儀も派手なことはなく、ひっそりと営まれたのかもしれない。よく考えれば、私の親たちと同世代の方なのだ・・。享年90歳とのこと。遅ればせながら、ここに謹んでご冥福をお祈りしたいと思う(合掌)
春先のある日、月刊誌の特集に関する記事で、精神科医で作家の氏にお話を聞いてくるようにと、上司から言われた。
斎藤茂太氏といえば、有名な歌人である斎藤茂吉の長男であり、当時の人気作家・北杜夫のお兄さんであった。
私は北杜夫氏が大好きで、船医として同乗した船中のドタバタを描いた名作、抱腹絶倒&七転八倒シリーズ物、「航海記」の大ファンだった。なので、あ、これが北杜夫だったら良かったのになぁ、惜しいなぁ~残念~!という感じだった。
確か病院は、府中辺りだったかと思う。親切な上司に懇切丁寧な地図を描いてもらった上で、方向音痴な私は電車で出かけた。
斎藤氏の家は、病院に隣接していた。電話で確認したところ、病院の看板を左に見て、右の玄関を入るように言われていた。左に入ると、病院になりますからね。自宅は右ですから間違えないように、と。
古式ゆかしい家だったが、見事に掃除が行き届いていて、廊下の板はピカピカと光っていた。
小さな応接室に通され、白いカバーのかかったソファーに恐る恐る腰掛けて周囲を眺めると、骨董品のような置物や飾り物が散見された。見る目がないので分からないが、かなりの年代物ばかりのようだった。
応接テーブルの上には葉巻セットがあった。葉巻というものなどには、初めてお目にかかる田舎者である。
これらは茂吉さんも愛用したのだろうか。北杜夫氏も幼い頃に眺めた景色に違いない、などと空想に浸っていると、恰幅の良い紳士が「やぁやぁ、お待たせしましたね」と言いながら、入ってこられた。
話を訊きにきた記者というのが、なんとまぁ年若い女の子なので、少し意外そうな表情だったが、さすが「モタさん♪」と周囲に愛称で呼ばれるお方、如才が無い。いきなり、ざっくばらん。
恰幅は良いが、フットワークは軽い。趣味の飛行機の話では、少年のように瞳を輝かせていた。ものの言い方にも、厳(いかめ)しさとか格式とか年齢差とかの区分けは、ほとんど無いようであった。
名門の秀才、高名な精神科医で作家であっても、偉い人というのは案外こういうものかもしれない、と思えた。
彼の話の中で印象に深かったのは、ところどころに「茂吉は・・」とか「茂吉の歌にこんなのがあるよ」という、話の逸れ方だった。この人は、父親を父とは呼ばない人なのだ。
「茂吉だったらこんな時・・」「茂吉だったらこう言うだろうね」、あるいは「茂吉ならこう考える」と。
茂吉さんは、今もって、たぶん永久に斎藤家の生活や心情の中心に、ドッカりと座り続けているのだろう。
父親として見ることより、吾が祖先の偉人を物語っているように思えたほど、そこには”尊敬と憧憬”の目線があったような気がした。私の知らない、別世界の親子関係を垣間見た思いだった。
時々宙に止る視線には、私に聞かせているのではなく、ご自身の世界に存在する茂吉さんを眼前に置いて、話しかけている風があった。”尊敬と心服”というのは、こういうことをいうのかと感じ入ってしまった。
話の合間に、やや強引に北杜夫氏のことを聞いてみたものである。「ああ、北のファンなの?同じ敷地内に住んでいるけれどね。めったに会わないから。。」とそっけない。弟のことは”北”と呼んでいるようだった。
仕事が終わって、丁寧に挨拶をして部屋を出た時、玄関までの廊下を途中から、「モタさん♪」がツツツーと私を追い越していった。あっ!と思っていると、玄関先の洋服掛けにかけられた私のコートを、素早く手に取ったのだった。
ニコリとしながら、さぁ、という風に私を向こう向かせて、コートを着せ掛けてくださった。これが噂に聞く、レディ・ファーストというものだろうか。まるで、”英国紳士”のようではないか。
私は初めてのことだったので、大いに驚き照れてしまって、細身のコートだったため腕がなかなか入れられず、心の中はもう身の置き場がないほどの慌てぶりだった。・・情けない”淑女”である。
「じゃ、僕はまた仕事場に戻るので」と仰って、横のドアを開けて出て行かれた。仕事場と繋がっているドアなのだろう。
私は少々ハイヒールの足元をふらつかせながら、まったく、こんな安物のコートで恥ずかしかった~、とそればかりが頭の中でリフレインしていた。
外に出ると、古い木は大きく生い茂り、あたりは昼なお暗い感じであった。しばし、奥の庭の方を眺めてみた。
もしや北杜夫が、何かの因縁でヒョッコリと現れないものかしら・・と微かに期待したのである。あくまでもミーハーの私であった。
一呼吸佇んだが、何ひとつ生き物の気配など無い。諦めて歩き始めて門を出る時に、私はまた未練たらしく、後ろを振り返ってみたのだった。
ただ茂る木々が、光と風の中に揺れ続けていることを、記憶のなかにしかと留めてから、やっと前を向き歩き出した。 (次回に続く)
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そのことを書こうとして調べると、彼はすでに2006年11月に亡くなっておられたのである。
本屋へ行けば、いつも数冊の著書が並べられていたので、まだお元気でご活躍なのだ、と漠然と思っていたのだ。
葬儀も派手なことはなく、ひっそりと営まれたのかもしれない。よく考えれば、私の親たちと同世代の方なのだ・・。享年90歳とのこと。遅ればせながら、ここに謹んでご冥福をお祈りしたいと思う(合掌)
春先のある日、月刊誌の特集に関する記事で、精神科医で作家の氏にお話を聞いてくるようにと、上司から言われた。
斎藤茂太氏といえば、有名な歌人である斎藤茂吉の長男であり、当時の人気作家・北杜夫のお兄さんであった。
私は北杜夫氏が大好きで、船医として同乗した船中のドタバタを描いた名作、抱腹絶倒&七転八倒シリーズ物、「航海記」の大ファンだった。なので、あ、これが北杜夫だったら良かったのになぁ、惜しいなぁ~残念~!という感じだった。
確か病院は、府中辺りだったかと思う。親切な上司に懇切丁寧な地図を描いてもらった上で、方向音痴な私は電車で出かけた。
斎藤氏の家は、病院に隣接していた。電話で確認したところ、病院の看板を左に見て、右の玄関を入るように言われていた。左に入ると、病院になりますからね。自宅は右ですから間違えないように、と。
古式ゆかしい家だったが、見事に掃除が行き届いていて、廊下の板はピカピカと光っていた。
小さな応接室に通され、白いカバーのかかったソファーに恐る恐る腰掛けて周囲を眺めると、骨董品のような置物や飾り物が散見された。見る目がないので分からないが、かなりの年代物ばかりのようだった。
応接テーブルの上には葉巻セットがあった。葉巻というものなどには、初めてお目にかかる田舎者である。
これらは茂吉さんも愛用したのだろうか。北杜夫氏も幼い頃に眺めた景色に違いない、などと空想に浸っていると、恰幅の良い紳士が「やぁやぁ、お待たせしましたね」と言いながら、入ってこられた。
話を訊きにきた記者というのが、なんとまぁ年若い女の子なので、少し意外そうな表情だったが、さすが「モタさん♪」と周囲に愛称で呼ばれるお方、如才が無い。いきなり、ざっくばらん。
恰幅は良いが、フットワークは軽い。趣味の飛行機の話では、少年のように瞳を輝かせていた。ものの言い方にも、厳(いかめ)しさとか格式とか年齢差とかの区分けは、ほとんど無いようであった。
名門の秀才、高名な精神科医で作家であっても、偉い人というのは案外こういうものかもしれない、と思えた。
彼の話の中で印象に深かったのは、ところどころに「茂吉は・・」とか「茂吉の歌にこんなのがあるよ」という、話の逸れ方だった。この人は、父親を父とは呼ばない人なのだ。
「茂吉だったらこんな時・・」「茂吉だったらこう言うだろうね」、あるいは「茂吉ならこう考える」と。
茂吉さんは、今もって、たぶん永久に斎藤家の生活や心情の中心に、ドッカりと座り続けているのだろう。
父親として見ることより、吾が祖先の偉人を物語っているように思えたほど、そこには”尊敬と憧憬”の目線があったような気がした。私の知らない、別世界の親子関係を垣間見た思いだった。
時々宙に止る視線には、私に聞かせているのではなく、ご自身の世界に存在する茂吉さんを眼前に置いて、話しかけている風があった。”尊敬と心服”というのは、こういうことをいうのかと感じ入ってしまった。
話の合間に、やや強引に北杜夫氏のことを聞いてみたものである。「ああ、北のファンなの?同じ敷地内に住んでいるけれどね。めったに会わないから。。」とそっけない。弟のことは”北”と呼んでいるようだった。
仕事が終わって、丁寧に挨拶をして部屋を出た時、玄関までの廊下を途中から、「モタさん♪」がツツツーと私を追い越していった。あっ!と思っていると、玄関先の洋服掛けにかけられた私のコートを、素早く手に取ったのだった。
ニコリとしながら、さぁ、という風に私を向こう向かせて、コートを着せ掛けてくださった。これが噂に聞く、レディ・ファーストというものだろうか。まるで、”英国紳士”のようではないか。
私は初めてのことだったので、大いに驚き照れてしまって、細身のコートだったため腕がなかなか入れられず、心の中はもう身の置き場がないほどの慌てぶりだった。・・情けない”淑女”である。
「じゃ、僕はまた仕事場に戻るので」と仰って、横のドアを開けて出て行かれた。仕事場と繋がっているドアなのだろう。
私は少々ハイヒールの足元をふらつかせながら、まったく、こんな安物のコートで恥ずかしかった~、とそればかりが頭の中でリフレインしていた。
外に出ると、古い木は大きく生い茂り、あたりは昼なお暗い感じであった。しばし、奥の庭の方を眺めてみた。
もしや北杜夫が、何かの因縁でヒョッコリと現れないものかしら・・と微かに期待したのである。あくまでもミーハーの私であった。
一呼吸佇んだが、何ひとつ生き物の気配など無い。諦めて歩き始めて門を出る時に、私はまた未練たらしく、後ろを振り返ってみたのだった。
ただ茂る木々が、光と風の中に揺れ続けていることを、記憶のなかにしかと留めてから、やっと前を向き歩き出した。 (次回に続く)
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写真一枚で何とか表現できませんか?
しばらく難しい?話を続けます(笑)
欠伸しながらでも、シブシブでも、是非ついてきてくださいね。
・・写真一枚で表現、、、それこそ難しいです
ヒメサユリのような可憐な彩りが無いのに、コメントをありがとうございました
いやーー、斉藤茂太さんにお会いになってたんですねぇ
私も北杜夫氏の「楡家の人々」は読みました。
ああ、こんなご家庭だったのかぁと想像したり。
「空見たワールド」炸裂! 小説読んでる見たいです
次回楽しみにしてますーーー
このお話には続きがあるようなので、もしかしたらまんぼう先生が出てくるかもしれませんね。
お二人とも齋藤茂吉の息子だったとは・・・。
次回に期待!☆
私も若いときに北杜夫氏のファンで随分読みました。
斎藤茂太氏は紳士ですね、
お会い出来るなら
今の私なら北さんより茂太氏にお会いしたいですね。
トーコさんは雑誌記者でしたのね、文章から知性があふれ出てますもの才能ですね、いいなー。
もちろん茂太先生の著書は幾冊が読んでおります。
生き方の下手な私にとって、茂太先生の本は興味がありました。
書いていることはまさにその通りなのですが、
実行は難しい。
しかし、救いのロープを投げかけてくれる本でしたね。
私も斉藤先生には少し興味があります。
ポッキー先生がこの方の本を貸してくださると、
いうので借りて読んでみようかな?
トーコさんが斉藤先生とお話をしていられたとは
すばらしいですね!
いやぁ、貴女はいつも褒めてくださるから、嬉しい限り、アリガタイ限りです~
こういうのを書いて反応が少ないと、果てしなくスベッテいる気がしますが、ま、ね、それも良しということで・・(笑)
斎藤茂太先生は、当時50代後半だったと思いますが、お洒落な紳士でした。ロマンスグレーに仕立ての良いスーツ姿、ポケットチーフを覗かせてね^^
コメント☆、ありがとうございました
残念ながら、マンボウ先生にはお会いできませんでした。縁が無かったのでしょうね
最近はボケた、などと泣き言を言っているようですが、元々そういうことを仰る方ですからね(笑)
なんですか?アメリカン・ユーモアですか
コメント☆、ありがとうございました
そうですね、今となっては茂太氏の方がカッコイイですね
北氏のアメリカン・ユーモアには、笑わせてもらいました。真面目な小説を書く時は、鬱だったようです。
北氏の友人だった遠藤周作氏、普段は面白い狐狸庵先生も、たまに真面目な小説を書いていましたね。神は居るのか居ないのかを問うた「沈黙」。感動しました
これからもちょくちょく遊びに来てくださいね。コメント☆、ありがとうございました