芋虫に咆哮といふ姿あり➰白眉なり芋虫の咆哮~小林恭二
この句に最初に出合ったのは、兜太現代俳句新人賞での選考会だった。そのときの句は「芋虫にも咆哮といふ姿あり」だった。わたしは「芋虫にも」の「も」が要らないといった。この小文を書くにあたり、依頼をくださった高野ムツオさんにこの指摘をほめられた。その後、小田島さんからもやはり同様の感謝の手紙をいただいた。人の句を貶して感謝されるのは遠い昔、若気の至りで永田耕衣論を書き、どういうわけか御本人から長い礼文をいただいて以来だ。
今回、わたしの指摘通りに「芋虫にも」の「も」を抜いて句集に収録してあるものを眼にした。なんとなく嬉しいような、しかし責任重大なような、そんな気分にさせられた。今後のご健筆を心よりお祈りしている。
<青萄の仰天句抄15句>
荒東風に斧研がれ旅立つは今 小田島渚
みなかみに逝きし獣の骨芽吹く
やがて鳥の心臓が生む冬銀河
髪洗ふたび三月の雪が降る
あをぞらの果実捥ぐかに氷柱折る
エイプリルフール手を振り返す人は敵
遠泳や生まるる前の全能感
木の匙の先の見えざる葛湯吹く
雑踏は巨大な生簀冴返る
子猫から子猫分裂したやうな
束の間の悲しみなれば鶴を呼ぶ
囀れり壁に塗り込められし鳥
血だまりのごともつれ合ひ秋の蛇
型抜きに抜かれ白鳥つぎつぎと
芋虫に咆哮といふ姿あり
そもそも 芋虫に着目し 芋虫が葉を食べるのを中断し 首を持ち上げてふと虚空を観るような素振りを それは咆哮であるとイイエタことが 奇跡のような飛躍の発想であった
「も」云々は二次的な問題 確かにこの場合 必要か必要でないかといえば 必要ではなかったと思うが…
しかし…も、て、は使うなと一般的には言われているが その句に必要ならば積極的に使ってしかるべきであろう とわたしは考えている🦜