性と愛にまぎれ込ませて
これはかなり血なまぐさい絵ですよね。
実は、この絵は板蓋宮(いたぶきのみや)における蘇我入鹿(そがいるか)の暗殺の場です。
この暗殺によって、現代の日本の“基礎”ができあがった、
と言っても決して言い過ぎではない程の事件なのです。
太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)、
弓を手にしているのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。
上の絵をよく見れば、奥のほうに、知らぬ顔を決め込んだ女性が居るのが分かりますよね。
(まあぁ~、なんですよ。。。よく見なくても分かりますがね。うへへへへ。。。
念のために言ったまでです。)
この女性は、誰あろう、この中大兄皇子の母親です。つまり皇極女帝です。
息子が入鹿の首をはねるちょっと前までその場に居たのですよ。
この“おかあはん”はビックリこいて息子に尋ねたんです。
「これは一体何事ですか?!」
「母上、もういい加減に目を覚ましてください。
この入鹿は、自分の思うままに朝廷を動かそうとしているのですよ。
しかも、あわよくば、天皇になろうと考えている。
母上が、この男をあまりにも、えこひいきするからじゃありませんか!
母上は、実の息子よりも、この男のほうが大切だとでも言うのですか?」
こんな風に攻められては、皇極女帝も返す言葉がない。
それで、奥のほうへ引きこもってしまったというわけです。
実は、この当時の大臣(おおおみ【総理大臣】)は、入鹿ではありません。
彼の父親の蝦夷(えみし)です。
しかし入鹿の権威は、彼の父親を上回るほどになっていました。それはなぜか?
当然ですが、皇極女帝が入鹿を取り立てていたわけです。
かんぐって想像をたくましくすれば、二人の間には肉体関係があった事でしょう。
しかも、この当時の性関係というのは、大変おおらかでした。
それは古事記を読めばよく分かることです。
未亡人の皇極女帝はそのような意味でも、入鹿を可愛がっていたことでしょう。
上の絵で、入鹿の首が御簾(みす)に喰らいついている様子を見てください。
入鹿にしてみれば、皇極女帝が助けてくれるものと当てにしたことでしょう。
ところが、息子に、ちょっと痛い所を突かれたぐらいで、彼女は奥へ引っ込んでしまった。
「オイ!大年増のお姉さん!
俺をあんなに可愛がっておきながら、これは一体どういうこったい!
俺を見殺しにして、自分だけ引っ込んしまって平気なンかよ!
俺は恨むよ!よく見ていろ!このまま喰い付いて離れないゾォ~!」
そういう無念の気持ちが伝わってきませんか?
僕には、入鹿の気持ちがよく分かるような気がします。
この絵を見ると、とにかくすさまじい。
このような怨念の込められた場面というのは、長い日本史を見ても、あまりありません。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『藤原鎌足と六韜(りくとう)--藤原氏のバイブル』
つまり、皇極女帝から見れば、非情な事をする息子なんですよね。
それが中大兄皇子(後の天智天皇)です。
ところで、額田女王(ぬかだのおおきみ)と皇極女帝は気心が知れた仲の良い話し相手だったのです。
額田女王は皇極女帝の歌を代作したとまで言われる人です。
要するに、額田女王は個人的に中大兄皇子を良く知っていたばかりではなく、皇極女帝からも、この非情な息子の話を耳にタコが出来るくらいに聞かされていたのです。
しかも、強引な政治のやり方を見ている!
中大兄皇子は、暗殺されるほどのことをやってきた人です!
■ 『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』
■ 『天智天皇は暗殺された』
■ 『天智天皇暗殺の謎』
さらに、中大兄皇子が実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり孝徳天皇から引き離して連れて行くところなども充分に話に聞いて知っている!
こういう血なまぐさい時代を生きてきたのが額田女王です。
そして、万葉集に収められている次の有名な“恋の歌”を詠(うた)ったのがこの額田女王です。
茜(あかね)さす
紫野行き
標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや
君が袖振る
茜色の光に満ちている紫野(天智天皇の領地)で、あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわ。
後で、その番人が天智天皇に告げ口するかもしれませんわよ。
。。。という意味です。
「君」は後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのみこ)、標野(しめの)は上代、貴族の所有で、一般人の立ち入りを禁じた領地。
この歌は大海人と額田女王(ぬかだのおおきみ)との恋の歌とされています。
大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、万葉随一の女流歌人と言われた額田女王(額田王とも書く)は神に仕え、神祇を司る巫女であった。
彼女はまた絶世の美女とも言われていた。天智天皇・天武天皇に深く愛された。
彼女の生きた時代には、朝鮮半島への出兵があり、白村江(はくすきのえ)の戦いがあった。
飛鳥から近江への遷都、壬申の乱といった事件も起きた。
激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの想いに忠実に生きた。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性。
彼女は、巫女としての自分と、二人の天皇の愛の間で揺れ動く女としての自分、そして天武天皇との間にもうけた十市皇女(といちのひめみこ)の母としての自分という、複雑な立場からの葛藤の中で悩みながらも、自分を高く維持し、歴史の荒波に耐えて、鮮やかに生きぬいた。
その女性が、ただノー天気に “あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわよォ~おほほほほ。。。”なんて詠(うた)っているだけだとしたら、この女性は愚か者ですよね。
お笑いものですよね?そう思いませんか?
でも、どの歴史書を読んでも、彼女が愚か者だったとはどこにも書いてありません。
むしろ、“美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性”と書いてあることが多い!
しかも、彼女が詠(よ)んだ歌に出てくる男は、誰あろう、天智天皇と天武天皇なんですよね。
だから、上の歌を単なる“恋の歌”として読むのは、あまりにも単純すぎると僕は思うわけですよ。
万葉集は政治批判のために。。。?
僕がこの万葉集に奇異なものを感じたのは“防人(さきもり)の歌”が載っていることでした。
なぜ、無名の防人が読んだ歌をこれほど名前の通った“日本最古の歌集”に載せたのか?
たとえばですよ。。。
あなたが編集長になって、これから1000年先の人にも読んでもらえるような詩集を作ることになったとする。
そうなったら、おそらく、あなたは現在の有名な詩人に話を持ちかけて、すばらしい詩を作ってもらうか、その人がすでに作ったすばらしい詩を載せることだろうと思います。
その方が簡単だし、あなたの名前にも“ハク”がつく。
あの有名な詩人が作った詩が載るような詩集を出した。。。というように言われる。
現代であれば、さしずめ。。。天皇はもちろん、総理大臣、大蔵大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判事、検察庁長官、東京都知事。。。こういう人たちの詩が載るわけですよね。
そういう詩の中に、代々木公園のダンボールで作った小屋の中に住んでいる、どこの馬の骨とも分からない名もないホームレスの若者の詩を載せる。
そんなことをしたら、笑いものにされるかもしれない?
でしょう? うへへへへ。。。
無名の防人の歌を載せるということは、言ってみれば、そういうことですよね。
それなのに、なぜ?
必ず理由があるはずなんですよね。
動機があるはずです!
現代ならば“民主主義”のために下々の名もない国民の詩を載せるという大義名分が立つ。
しかし、奈良時代では、もちろん民主主義なんて考えている人は当時の“政治家”の中には居なかった。
1000年以上早い“思想”でした。
日本に民主主義が“輸入された”のは太平洋戦争後だった。
明治、大正、昭和の、それまでの日本人は天皇の“臣民”だった。“国民”でもなければ“人民”でもなかった。
天皇陛下のためだと言われれば、お国のために死ななければならなかった。
今の僕には、そんなことは馬鹿馬鹿しくてできませんよ。
やれと言われれば、国外に脱出しますよ。(。。。だからじゃないけれど、他の理由で現在、国外に居ますよ!)
江戸時代には武士と将軍を養うために働かされていた“百姓”だった。
その“百姓”たちは“生かさず殺さず”搾り取られていた。
人権なんてものはなかった。
まるで虫けらのように生かされていた!
万葉時代というのは、その江戸時代から数えても1000年以上も昔ですよ!
この万葉時代といわれた奈良時代の後に平安時代がありますよね。
“平安”時代なんて、いかにも平和で雅(みやび)やかな名前をつけていますが、それは貴族から見てのことであって、名もない庶民(被支配者)にとっては“地獄”時代だった。
詳しいことは次のリンクをクリックして読んでみてください。
■ 『平安時代は決して平安ではなかった!』
だからこそ、奈良時代に名もない防人の歌を載せるということは大きな意味がある事なんですよね。
一体、誰が名もない防人の歌を載せたのか?
いったい誰が万葉集の編集長だったのか?
実は、さまざまな説があるようですが、大伴家持の手によって二十巻にまとめられたとする説が有力のようです。
僕も歴史の時間にそのように習ったし、今調べなおして、ますますそうだと思うようになりました。
なぜか?
この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
大伴 家持 (おおとも やかもち)
養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)
奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。
この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。
宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。
延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。
SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大伴氏は古代日本の有力氏族の一つなんですよね。
天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされています。
軍事氏族として物部氏と共に軍事の管理を司っていた。
大伴氏は天皇の親衛隊的な機能を果たしていた。
それに対して物部氏は国防軍的な役目を持っていた。
雄略天皇の時代の5世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈天皇の代に孫の大伴金村(かなむら)が大連(おおむらじ)になった時に全盛期を迎えた。
金村は継体天皇を迎え入れた功績があり、また任那の運営を任されており、武烈、継体、安閑、宣化、欽明の5代にわたって大連を務めたが、欽明天皇の時代に百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚した。
これ以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入ります。
しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、大化の改新の後、649年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっています。
また、672年の壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てて、以後の政界で大納言・中納言・参議等が輩出しています。
つまり、大伴家持が生きていた時代には大伴氏は、どちらかと言えば“反主流派の名門”と言うような存在だったという事が読み取れます。
もはや政治的実権などは手中にはない。
しかし、当時実権を握っていた“新参者の藤原氏”に対して反骨精神を持って立ち向かっているという姿勢を僕は感じます。
武器を持って藤原氏に立ち向かうほどの勢力があるわけではない。
では、何で戦うのか?
歌です!
そのために大伴家持は万葉集を編纂したのではないのか!
僕はそう思っているわけです。
そのように考えると、防人の詠(よ)んだ歌を万葉集の中に入れてカムフラージュしながら“歴史の真相”を後世に伝えようとした大伴家持の意思を読むことができます。