ネットのロマン (PART 1 OF 4)
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今一つの世界
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ここにもし、それらのものとは全く違った、また目新しい、「今一つの世界」があって、魔法使いの呪文か何かで、パッと、それがわれわれの目の前に現れたなら、そして、たとえば竜宮へ行った浦島太郎のように、その世界で生活することができたなら、われわれはまあどんなに楽しく生甲斐のあることでしょう。
でも、われわれは浦島太郎にはなれっこない。そんな「今一つの世界」なんてあるはずもなく、そこへ住むなんて思いもよらぬことだ。われわれはやっぱり、このきまりきった、面白くもない日常茶飯事を繰り返して行くほかに生き方はないのだ、とおっしゃるのですか。だって「今一つの世界」を求めるわれわれの欲望の烈しさは、どうして、そんなことをいってあきらめていられるものではないのですよ。
ご覧なさい。子供がどんなにお伽話をすくか、青年がどんなに冒険談をすくか、それから大人のお伽話、冒険談は、たとえばお茶屋の二階、歌い女、幇間(ほうかん)。それぞれ種類は違っても、われわれは一生涯、何か日常茶飯事以上のもの、「今一つの世界」を求めないではいられぬのです。お芝居にしろ、音楽にしろ、絵画にしろ、小説にしろ、それらはみな見方によっては、人間の「今一つの世界」への憧憬から生まれたものではありませんか。
暑中には避暑をする。それは何も暑さを避けるためばかりではないのです。われわれはここでも「今一つの世界」を求めている。飽き果てた家庭を離れて、別の世界へ行きたがっているのです。
もろもろの科学にしても、やっぱり人間のこの欲望の現われではないでしょうか。例えば天文学者は星の世界に憧れているのです。歴史家は遠い昔の別世界に思いを寄せているのです。動物や植物の学問はもちろん、生命のない鉱物にだって、薬品にだって、やっぱり「今一つの世界」を見出すことができないでしょうか。
古来のユートピア作者達が、それを夢見ていたことは申すまでもありません。さらにまた宗教ですらも、天上の楽園と言う「今一つの世界」に憧れているではありませんか。
ある型に属する小説家は、誰しも同じ思いでしょうが、わたしもまた、わたしの拙い文字によって、わたし自身の「今一つの世界」を創造することを、一生の願いとするものでございます。
(130 - 132ページ)
江戸川乱歩全集 第30巻 「わが夢と真実」
光文社文庫 2005年6月20日 初版1刷発行
『江戸川乱歩の今一つの世界 (2008年8月31日)』に掲載。
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デンマンさん。。。今日は、去年の記事から乱歩先生の小文を引用したのですわね。
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そうですよう。。。レンゲさんも覚えているでしょう?
覚えていますわ。。。つまり、乱歩先生の言う「今一つの世界」が、デンマンさんにとって「ネットのロマン」なのですわねぇ~。
うししししし。。。やっぱり、分かりますか?
分かりますわよう。
■ 『愛の緊張 (2009年6月17日)
上の記事でも書いたけれど、“芸術”と人生は、緊張関係にあるのが、それぞれのあるべき姿であるならば、“愛”と人生も緊張関係にあるべきだと僕は思うのですよう。
。。。で、具体的に、“愛の緊張”とはどのようなことを言うのですか?
次のようなことですよう。。。
愛情の上にアグラをかいてはいけません。
相手の愛情があるつもりになって怠惰になってはダメです。
お互いに相手のナンバーワンを意識しながら
自分を磨(みが)くことです。
常に愛を新鮮なものに保つ努力が必要です。
惰性で愛して居るつもりになってはダメです。
愛されていると妄信してはいけません。
新鮮な気持ちでお互いに愛を感じあう努力が必要です。
僕はねぇ、太田さんの次の言葉に引っかかったのですよう。
芸術至上主義も同じ。
人生は芸術を演出する時空ではない。
どう言う所に引っかかったのですか?
人生は芸術を演出する時空ではない、と言い切っている。でもねぇ、“芸術”と人生は、緊張関係にあるのが、それぞれのあるべき姿であるのであれば、人生は芸術を演出する時空であってもいいと僕は思いますよう。
たとえば。。。?
次の乱歩先生の小文を読むと“文学少女”が芸術を人生の中で演出しようとしている姿がありありと見えるのですよう。
私は骨の髄まで
文学少女なのです
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「文学少女」は普通の小説である。
探偵小説壇には普通の小説に似たものを書く人も多いけれど、その気迫において「文学少女」までいたっている作品は非常に少ないのではないかと思う。
短い短編の中に類型ではあるが、しかし決して通常人ではない一人の文学少女の生涯が、簡潔に、しかし溢れる「情熱」と「自尊心」とをもって描かれている。
。。。
僕はかつて、「日本探偵小説傑作集」の序文で、探偵作家諸君の作風を紹介したことがあるが、その中で木々高太郎君だけは、少し見誤っていたことを告白しなければならない。
彼の文学執心には医学者の余技以上のものがある。単なる精神分析作家ではない。
文学心に燃ゆること、探偵小説界彼の右に出(い)ずるものもないほどであることが、だんだん分かってきた。
僕は彼の作品に、スリルまでに高められた「情熱」と「自尊心」とを感じる。
それが人を打たぬはずはない。
「文学少女」でいえば、わざと学校の答案を間違って書くというくだり、
「恋愛は二人のことだけれど文学は孤独の業である」というくだり、
大心池(おおころち)博士が具体的表現ということから女主人公の文学素質を看破するくだり、
有名な小説家に自作を剽窃(ひょうせつ)されて怒るよりも喜ぶという心理、
その謝礼金の小切手を夫が費消(ひしょう)したことを知って、突如としてメチルアルコールを買いに行くあたりの描写、
そして、女主人公が獄中で一躍流行作家となる運命。
「先生、痛みなどは何でもありません。私は始めて人生を生きたいという希望に燃えて来ました。
(中略)
文学というものは、なんという、人を苦しめ、引きちぎり、それでも深く生命の中へと入って消すことのできないものでしょう。
でも、私はもう七度(たび)も生まれてきて、文学の悩みを味わいたいのです。
私は骨の隋まで文学少女なのです」
これは女主人公が普通の人には堪えられぬ程の骨の痛みに堪えながら、大心池先生に叫ぶ言葉であるが、僕はそれを作者木々高太郎の絶叫ででもあるように錯覚して、快い戦慄を禁じえなかったのである。
そして...
「お願いが一つあるのです。。。それは私はもう一度生まれてきて、文学をいたします。そしたら、やっぱり先生が見出してくださいますわね」
「。。。ミヤが心の内で、先生に接吻しているのを許してください」
…とやせ細った手を上げたが、それは先生を身近く招くためではなくて、近づこうとする先生を、近づかぬように制するためであった。
…という幕切れの、パッと消えてゆく情熱の花火が、消え行く刹那、たちまちその色彩を一変して見せるかのごとき、すっきりしたあの味。
僕は木々高太郎君が、「情熱」の作家であることを知っていた。
しかし彼のより以上の特徴が自尊心の作家であるということをハッキリ認識したのはつい三四ヶ月以来である。
僕は以前からも、それを漠然と感じて、「気迫」という言葉で言い表わしていたが、「自尊心」というのがもっと適切である。
pp.511-513 「文学少女」より
『江戸川乱歩全集 第25巻 鬼の言葉』
監修: 新保博久・山前譲
2005年2月20日 初版1刷発行
発行所: 株式会社 光文社
『虚構の中の真実 (2009年6月1日)』に掲載。
全集第25巻の中では、上の小文を読んだとき、僕は最も感動したのですよう。
どのように感動したのですか?
初めて読んだとき、乱歩先生の感動と戦慄が生々しく伝ってきたのです。。。ヒロインの激痛とか、文学にハマってしまったとか。。。、その情熱や、苦しみ。。。そして、ヒロインと大心池先生との会話。。。乱歩先生が味わった感動が、僕にもマジで伝わってきたのですよう。
分かりましたわ。。。それで、“文学少女”が芸術を人生の中で演出しようとしているとは、具体的にどう言う事ですか?
たとえば、めれんげさんはマジで文学少女なのですよう。めれんげさんがヒロインになって、僕が大心池先生になれば、僕は二人の関係を人生の中で次のように演出しますよう。
「お願いが一つあるのです。。。
それは私はもう一度生まれてきて、
文学をいたします。
そしたら、やっぱりデンマンさんが
見出してくださいますわね」
「。。。めれんげが心の内で、
デンマンさんに接吻しているのを
許してください」
…とやせ細った手を上げたが、
それはデンマンを身近く招くためではなくて、
近づこうとするデンマンを、
近づかぬように制するためであった。
これが人生の中で演出した、めれんげさんとデンマンさんの芸術のドラマですか?
そうですよう。これを読んで、僕は涙がにじみ出てくるほどに感動したのです。うしししし。。。
でも、デンマンさんが自分の都合の良いように書き換えただけですわ。
だから、それが演出するという事でしょう!?
そうでしょうか?
あのねぇ~。。。文学というものは、自分と自分が愛している人をその状況に置くから、しみじみと感動するのですよう。。。この場合には、めれげさんがヒロインになって、僕が大心池先生になるのですよう。。。そうやって上の文章を読むと、急に涙がにじんでくるのです。。。
マジで。。。?
マジですよう。。。このようなところで僕は悪い冗談を飛ばしませんよう。んも~~
でも、あたしが感動するにはイマイチですわ。
分かりますよう。レンゲさんは、多分、白けて居ると思うのですよう。
分かりますか!?うふふふふふ。。。
分かりますよう。。。なぜなら、芸術を演出する人生の時空がレンゲさんと僕では違っているからですよう。
どう言う事ですか?
つまり、めれんげさんとレンゲさんが共有している人生の時空は、めれんげさんと僕が共有している人生の時空とはまったく違っている。
たとえば。。。?
めれんげさんは次のような詩を書いたのですよう。
わたしが愛しているあなたは誰?
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2006.11.05 09:17
現実から逃げ出したわたしは
今でもあなたを愛しつづけている
もうどこにもいないあなたが
今でも存在していると信じている
わたしを悲しませるのは誰?
わたしが愛しているのは誰?
わたしは誰と傷つけあっているの?
あなたではない誰かだと
わかっているのに
どうしてもあきらめられずに
いつまでも現実へ戻れない
誰かをあなただと思いこんだまま
愛される時を待ち続けるわたしの
おろかな心もすでに
死をむかえてしまった
by めれんげ
『わたしが愛しているあなたは誰?』より
『即興の詩 by めれんげ』
『本気で結婚を考えていますか?』に掲載。
(2008年3月28日)
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