弘中先生と熊谷(PART 1 OF 3)
Subj:グルメの小百合さんが
ウハウハ喜んで読めるような
グルメな記事を書きましたよう。
\(*^_^*)/ キャハハハ。。。
Date: 25/08/2009 9:34:01 PM
Pacific Daylight Saving Time
(日本時間:8月26日 水曜日 午後1時34分)
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夏休みも残り少なくなりました。
小百合さんにとっては夏休みが長引けば、家での仕事が多くなり、うれしいような、うれしくないような、複雑な気持ちでしょうね。
ヽ(´ー`)ノ キャハハハ。。。
でも、軽井沢で夏休みが過ごせたのだから、プラスマイナスゼロでしょう。
いや。。。それだけやる事がたくさんあったのだから、思い出多い夏休みになったことでしょう。
■『セドリックのオナラの話』
【軽井沢タリアセン夫人と馬鹿犬】
(2009年9月2日)
ところで、しつこいようだけれど、セドリックのオナラのような面白い話でもある?
\(^▽^;)/ うしししし。。。
“デンマンさんも秋ですね。”
そうです。。。そうです。。。
バンクーバーは小百合さんが言うようにめっきり秋の気配に包まれていますよう。
もう夏は終わりました!
今日、8月25日の最高気温は21度です。
ラーメンが食べたくなるような涼しさです。
ところで、小百合さんの「麦わら帽子」から『人間の証明』のことでたくさん記事を書きました。
小百合さんからインスピレーションをたくさんもらいました。
ありがとね。
■『人間の証明 (2009年8月19日)』
■『女の証明 (2009年8月21日)』
■『母の証明 (2009年8月25日)』
森村誠一さんの経歴から熊谷生まれだと知り、
さらに、12歳のときに熊谷空襲を体験したということから。。。
僕の母校・熊谷高校をウィキペディアで調べることになったのでした。
旧制熊谷中学時代に19年間も教えた弘中又一先生が、なんと、『坊っちゃん』のモデルだったと知り、僕の興味も『人間の証明』から『坊っちゃん』に移って行ったのでした。
松山中学の生徒の間で歌われていたものに「教師数え歌」があるのです。
「一つ弘中シッポクさん」で始まっており、7番目に「七つ夏目の鬼がわら」とあるのですよう。
このシッポクとは、シッポクうどんのこと。
グルメの小百合さんのために、調べましたよう。
9月2日の記事の中で書きました、
題して『坊っちゃん再訪』
■『坊っちゃん再訪 (2009年9月2日)』
熊谷時代の弘中先生の好物がどじょう。
それで「柳川鍋」も調べました。
小百合さんは、多分、泥鰌(どじょう)が嫌いでしょうね?
でもねぇ~、「柳川鍋」はうまそうだよう。
うまそうな写真を載せてあるから、ぜひ読んでみてね。
子供の頃、お袋が「柳川鍋」風どじょうドンブリを作って食べさせてくれたけれど、
“うまい!”と思って食べたことはついに一度もありませんでした!
\(^▽^;)/ きゃはははは。。。
じゃあ、ゆっくりと読んでみてね。
小百合さんも、きっと、よだれが出てくると思うよう。
(\__/)
(+'.'+)
(")_(")
じゃあねぇ~
松山の町の雰囲気。。。、それに、松山中学校の雰囲気に。。。、『坊っちゃん』のモデルの弘中先生が堅苦しいものを感じた、とデンマンさんはおっしゃいましたわねぇ~!?
そうですよう。シッポクうどんを4杯食べただけで生徒の間で有名になってしまった。
しかも先生をからかう数え歌にまでなってしまう。これはやっぱり当時の松山の町が、いかに単調で狭い世界だったかと言う事を暗示しているような気がするのですよう。
弘中先生が滞在していた頃の熊谷の町は、そうではなかったのでござ~♪~ますか?
それわねぇ~、熊谷の町の歴史をちょっとばかり遡(さかのぼ)っただけでもすぐに分かりますよう。
どのように。。。?
再建された忍城
あのねぇ、隣の行田市は忍の城下町として発展したのですよう。松山市も松山城の城下町として発展してきた。やっぱり、どこか城下町特有の狭苦しくて堅苦しい雰囲気があるのだと思うのですよう。
。。。んで、熊谷は。。。?
熊谷は交通の要所として発展してきたのですよう。また、商業も盛んだった。昔、忍城主から木綿販売の許可をもらい、木綿産業が盛んになり、さらに商取引が発展した。江戸時代には、熊谷は中仙道の宿駅となった。秩父・東松山に通じる要地という事もあって、人が集まる場所だったのですよう。
つまり、人の往来が激しかったのでござ~♪~ますわね?
そうですよう。でも、それだけではなかった。江戸時代の主要な運搬は、水運によってなされていた。熊谷は、利根川には酒巻と葛和田、荒川には久下と新川という四つの河岸があり、運搬に恵まれていた。それを経由して米や材木や肥料の取り引きが盛んに行われた。
つまり、商売人もたくさん集まって来たのでござ~♪~ますわね?
そうなのですよう。宿場町としての熊谷は、本陣が2軒(竹井家と鯨井家)脇本陣が1軒あった。街並みは1665年には210軒だったのが、1730年には380軒と増えた。その内で旅籠屋は27軒、茶屋が26軒あった。
つまり、たくさんの人がやって来て泊まったのですわねぇ~?
そうですよう。1800年には937軒となり、めざましい増加ぶりが分かるのですよう。天保年間には浦和宿の2倍以上の人口が集まり、中仙道随一の宿場と言われた。熊谷には商家が今でも多いのですよう。明治6年から9年までの3年間には熊谷県が置かれたことでも、町の繁栄ぶりが分かるのですよう。この当時、埼玉県では、川越に次いで2番目に人口の多い町だった。明治の半ばには、養蚕と麦作が盛んになり、信州の資本などで製糸工場がつくられた。明治16年には高崎線の前身が引かれ、明治34年には上武鉄道(秩父鉄道の前身)が引かれた。つまり、弘中先生が居た頃は熊谷は最も栄えていた。
つまり、たくさんの人が集まるので自由と活気にあふれていたとデンマンさんはおっしゃりたいのでござ~♪~ますか?
そうですよう。たとえ弘中先生が「柳川鍋」を4人前食べたとしても、その程度の事ではニュースにならないほどに活気と覇気(はき)にあふれた町だったのですよう。
それで弘中先生はその自由な雰囲気がすっかり気に入ってしまったとデンマンさんはおっしゃりたいのでござ~♪~ますか?
そうですよう。でも、そればかりではなかった。学校の雰囲気も自由で弘中先生の性格にバッチシ合ったのですよう。
どのように。。。?
あのねぇ~、それを説明する前に、まずウィキペディアの「熊谷高校」の項を読んでみてくださいよう。
熊谷高校
1895年(明治28年)、埼玉県第二尋常中学校として創設された。
県下の公立校としては埼玉県第一尋常中学校(現埼玉県立浦和高等学校)に次ぐものである。
戦後、新制埼玉県立熊谷高等学校となった。
開学以来男子校である。
早くから私服での登校が認められており、校風は極めて自由である。
校訓
「質実剛健」
「文武両道」
「自由自治」
部活動への加入率は高く、また自由な校風を有している。
校風
自由な校風を有することが特徴である。
その中のひとつとして、「カクト」と呼ばれる制度がある。
これは、担当教員の出張などにより授業が休講となる場合に出される自習時間のことであり、「各自図書館自習」の略称である。
しかしながら、実質的には何をしても良い時間であり、自習時間の利用方法は生徒各々の自主性に任される。
また、カクトの時間を最終時限目と入れ替え、放課を早めることができる場合もある。
この行為は「トを上げる」と呼称される。
このため、同校においては生徒が授業時間中に校内を歩いていたり食堂で食事をしていたとしても、教員がそれをとがめることは通常ない。
このほかの同校の自由な校風を象徴するものとして以下のようなものがある。
例えば文化祭の出し物はクラス単位で行われることが一般的であるが、同校の熊高祭においては仲の良いグループを募って「サークル」を形成し、そのサークル単位で行うことが恒例となっている。
また、修学旅行に関してもほとんどがグループ単位での行動であり、宿泊地もグループ単位で異なる。
また、服装検査や頭髪検査、持ち物検査などの校規検査は一般的に行われない。
このほか、小規模な行事であろうと肩を組んで校歌を斉唱する習慣がある。
文化祭や体育祭、生徒集会や全校集会などの行事では必ず肩を組んで校歌が斉唱される。
生徒が自ら好んで校歌を歌うことが多い。
40キロハイク
毎年5月中旬から下旬ごろに行われる行事。
熊谷の荒川河川敷から秩父線上長瀞駅までのおよそ40キロを歩いたり、走ったりする。
服装は基本的に自由であるが、大半の生徒は仮装をして参加する。
仮装の内容は社会風刺や下ネタなどがある。
完歩率は高く、例年90パーセント以上を維持している。
臨海学校
1年次の7月中旬に行われる行事。
新潟県柏崎市の鯨波海岸で、主に遠泳が行われる。
県内では浦和高校と蕨高校と同校の3校のみでみられる行事である。
開始以来無事故。これまで毎年行われてきたが、2007年度は開始予定前日に発生した新潟県中越沖地震の影響で初めて中止となった。
熊高祭
毎年9月に行われる、文化祭と体育祭の総称である。
前者については、先述の通り仲の良い者同士や部活動単位で「サークル」を形成し、そのサークル単位で出し物を行うことが特徴である。
また、応援団による「勝利の伝統」や、「秩父支部劇」、女装してパフォーマンスなどを行う「ミス熊高」などが行われる。
体育祭に関しては、珍棒(ちんぼう)を用いる「珍百足」(ちんむかで)や、水泳やタイヤ引きなどを連続して行い体力と気力を試す個人競技「鉄の男」といった特徴的な種目がみられる。
修学旅行
2年次の11月頃に行われる。
例年の行き先は関西地方や九州地方、北海道などであるが、行き先は1年次に決定される。
このほか、先述の通り宿泊地をグループ毎に各自選択することができることが大きな特徴である。
例えば、行き先が関西地方の場合は、初日の広島が宿泊地として指定されているのみで、それ以降の宿泊地は岡山、神戸、高松、大阪などからグループごとに選択することができる。
初日が広島、2日目が岡山、3日目が大阪、4日目が京都というグループがある一方、初日が広島、2日目が神戸、3日目が高松、4日目が京都、というグループがあるなど、自由に選択できる幅が広い。
部活動
「文武両道」の精神にのっとり、部活動への加入率は高い傾向にある。
なお、2008年度における部活動への加入率は、運動部が63.8%、文化部が14.6%、愛好会(サークル)が15.6%であり、これらを合計するとのべ94%である。
2つ以上の部活動を兼部することもできる。
硬式野球部が1951年、1982年などに3回夏の甲子園に出場しており、うち1951年の大会においては準優勝した。
このほか、剣道部、陸上部、軟式野球部、ラグビー部、水泳部、弓道部、ソフトテニス部、バレーボール部、山岳部、将棋部なども県大会や全国大会へ出場を果たしている。
主な出身者・関係者
政治・行政 (略)
経済 (略)
(中略)
芸術・雑
弘中又一: 夏目漱石の小説「坊っちゃん」の主人公のモデルとなった第二中学の教員
小林秀三: 田山花袋『田舎教師』モデル
須田剋太: 日本画家
(後略)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『坊っちゃんと熊谷 (2009年8月29日)』に掲載
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