共感脳の話(PART 1)
ニカイア攻囲戦
(Siege of Nicaea)
ニカイア攻囲戦は第1回十字軍の主要な戦闘の一つ。
1097年5月14日から6月19日にかけてルーム・セルジューク朝の首都ニカイアを十字軍および東ローマ帝国軍が包囲した。
ニカイアは十字軍ではなく東ローマの方に降伏した。
5月16日、テュルク人の守備兵が城外へ攻撃に出たが、戦闘の結果200名ほどを失い退却を強いられた。
彼らは東方のメリテネで戦っているクルチ・アルスラーン1世に応援を要請した。
ニカイアに戻ってきたクルチ・アルスラーン1世はやがて十字軍本隊の強さを思い知ることとなる。
先遣隊は5月20日にレーモンとロベール2世の部隊と衝突して敗北し、翌5月21日にはクルチ・アルスラーン1世の本隊が、夜中まで続いた激戦の末に敗北を喫した。
両軍とも被害は甚大だったが、ついにクルチ・アルスラーン1世はニカイア守備兵の嘆願にもかかわらず撤退を決めた。
この戦いの後、勝った十字軍側は投石機でセルジューク兵の首を城壁内の市街に投げ込み、立てこもる市民を脅かした。
獅子心王
(Richard the Lionheart)
捕虜2700人の首を斬る
第3回十字軍はフィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加しているが、フリードリヒ1世は一足先に出発し、既にキリキアで溺死している。
フィリップ2世とは途中まで同行し、シチリア島でも合流したが、フィリップ2世の異母姉アリスとの婚約を正式に取り消し、ナバラ王サンチョ6世の娘べレンガリアと婚約したことなどにより互いに反目し、その後別行動を取った。
以降、フィリップ2世はリチャードに対してあからさまに敵対するようになる。
1191年7月、フィリップ2世、オーストリア公レオポルト5世と共にアッコンを攻め落としたが、その際、レオポルト5世が自身の功績を誇示し旗を掲げたのをリチャードの側近が叩き落としたため、レオポルト5世は激怒し、帰路についた。
アッコン降伏時には停戦の条件として、イスラム教徒の市民(捕虜)の身代金の支払い、キリスト教旧司教座に安置されていた大十字架の返還およびキリスト教徒の捕虜の解放などが協約として結ばれていた。
だがイスラム側はこれを延期し続けた。
8月20日、リチャードはアイユーブ朝のスルタンサラーフ・アッディーン(サラディン)の弟との会合に赴くが、そこには誰の姿もなく、捕虜の食費と監視の費用の支出など我慢の限界に達したリチャードは、イスラム教徒の捕虜2700人あまりを処刑した。
略奪と暴行
第4回十字軍(1202年 - 1204年)は、インノケンティウス3世によって呼びかけられ、フランスの諸侯とヴェネツィアを中心として行われた十字軍。
結果的にキリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブル)を陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍とも呼ばれる。
東ローマ帝国を一旦滅亡させたために、十字軍の当初の目的とは逆にこの地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパの大部分の支配の伏線のひとつとなった。
通常は1453年のコンスタンティノープル陥落をもって東ローマ帝国が滅亡したとされるが、この第4回十字軍で東ローマは実質的に滅亡したと見る歴史家もいる。
1204年4月の攻撃では、東ローマ側も慣れてきており、十字軍側の苦戦が続いた。
しかしコンスタンティノープル城内にはヴェネツィアの居留民が大勢住んでおり、彼らが東ローマへの抵抗に回ったため、東ローマ側も防衛は苦しいものだった。
4月12日、十字軍側が城壁への侵入に成功し、これを見たアレクシオス5世は夜更けに逃亡し、代わった「一夜皇帝」ラスカリスも抵抗を断念し逃亡した。
東ローマ側は抵抗をやめたが、都市に侵入した十字軍はコンスタンティノープルで破壊と暴行の限りを尽くした。
アギア・ソフィア大聖堂に立てこもった者も含めた聖職者、修道士、修道女、市民たちは暴行・殺戮を受け、一般市民・修道女の別を問わず女性達は強姦された。
総主教座には娼婦が座り込んで卑猥な歌をわめきちらした。
市街のみならず聖堂や修道院でも略奪が行われ、貴重な品々は持ち去られるか、持ち帰れないものは破壊された。
こうしたコンスタンティノープルに対するヴェネチアと十字軍の暴行は、彼らが東ローマ帝国の信仰を自分達と同じキリスト教のものであるとは考えていなかった事を示している。
(注: 赤字はデンマンが強調)
出典: 「十字軍」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イラストはデンマン・ライブラリーより
デンマンさん。。。あんさんは『共感脳の話』というタイトルを書いておきながら全く関係ない十字軍の話を持ち出してますやん。。。一体どないなつもりやのォ~?
あのなァ~、全く関係ない話を持ち出すはずがないやろ!
そやったら、共感脳の話を始めにすればええやんかァ。
「共感脳」と言って話し始めても、ちっともおもろうないねん。
それで十字軍の残酷な話を持ち出してきやはったん?
そうなのや。 これならば、めれちゃんも『共感脳の話』が聞きとうなるやろう?
つまり、共感脳の話をするために残酷な話を持ち出してきやはったん?
そういうこっちゃ。 人間の良識が信じられなくなるほどの残酷の話なら十字軍を調べればすぐに見つけることができるねん。 上の3つのエピソードは、ほんの氷山の一角に過ぎんのやァ。
。。。で、共感脳のエピソードって、どないなものやねん?
この話もちょっと信じられんような話やねんけど、史実として歴史家も認めている事実やねん。 ちょっと読んでみィ~なァ。
アッシジのフランチェスコ
フランチェスコは、西欧中世の盛時、12世紀後半、ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ(Pietro di Bernardone)を父に、イタリアはローマの北に位置するウンブリア地方アッシジの町に生まれた。
織物商人であった父親が仕事上フランス語が非常に堪能だった(あるいはフランスびいきだった)ことから、母親のピカがすでにつけていた洗礼名(ジョヴァンニ)に満足せず、彼につけたという。
裕福な家庭に生まれたため放蕩生活を送っていた。
騎士になろうと思い立ち、対ペルージャ戦に参加するが、捕虜になり、病気にかかるなどした。
1206年頃から改心が始まる。
家を出て、ハンセン氏病患者に奉仕し、荒れ果てた聖ダミアノ聖堂の修復を行うなどした。
1208年に福音書の三節を自らの戒律とし、活動を始めた。
戒律は全ての財産を放棄して福音を説くことを求めるものであった。
弟子たちとともに各地を放浪し、説教を続けた。
1210年、当時のローマ教皇であるインノケンティウス3世に謁見し、修道会設立の認可を求める。
教皇は口頭で認可を与えたとされる。
当時、カタリ派などキリスト教内部の腐敗に対する批判として、多くの信仰復活の運動がローマによって弾圧された中で、フランシスコ会は例外的に教皇から承認されて発展した。
これに倣ってその他の修道会が次々に誕生し、それらの中から教皇が選ばれるようになっていく起点となった。
1219年にイスラムに対する福音宣教を行った。
サラセン人に捕えられるが、スルタンに面会を許され、キリスト教徒になるように求めたが、彼らは拒み、フランチェスコは去ることになった。
(注: 赤字はデンマンが強調
イラストはデンマン・ライブラリーより)
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
このフランチェスコさんがどうやと、あんさんは言わはるのォ~?
「あなたの心を平穏にするために神から遣(つか)わされたのです」と言うてイスラム教徒である敵の大将、つまり、スルタンに一人で会(お)うたのやァ。
それで、どうしたん?
「戦争を止めて平和な世の中にしましょう。 そのためにはあなたがイスラム教を捨ててキリスト教に改宗する必要があります」。。。このように言うたのやァ。
そないな事を言わはったん?
そうなのやァ。。。ちょっと常識では考えられんこっちゃ。 十字軍がイスラム教徒にした残虐な行為を考えれば、フランチェスコは殺されても文句を言えんでぇ~。。。むしろ、殺されてしまうのがこの当時ではあたりまえやんかァ。
それで、殺されてしまいはったん?
やだなあああァ~。。。殺されてしもうたら、ここで取り上げるようなエピソードにならんがなァ。んもお~~。。。殺されなかったからこそ、わてもこうして、このエピソードを取り上げることになったのや。
それで、どないなことになったん?
スルタンはフランチェスコの考え方に共感する心を持っていたのやァ。 その点で、やはりスルタンもフランチェスコのような、けったいな人物やったのやがなァ。 ところがスルタンの周りの人間は、このフランチェスコに呆れてしもうたのやァ。。。と言うよりも、ぬけぬけと「イスラム教を捨てて改宗しなさい」とスルタンに言うものだから、激怒してしもうた。 周りに居た他の誰もが殺すようにと喚(わめ)き散らしたのやァ。
それで、スルタンは心変わりをしてフランチェスコさんを殺してしまいはったん?
やだなあああァ~。。。めれちゃんは、何が何でもフランチェスコを殺したいんかア!?
あんさんが、そう言わせるように仕向けるのやないかいなァ。 はよう結末を話さんかいなア!
あのなァ~、スルタンは微笑して部下にキリスト教徒の陣営に無事に送り届けるように言うたのやァ。
マジで。。。?
もちろんやァ。。。そやから、わても、こうしてこのエピソードを取り上げたのやんかァ。 つまり、どのような人間も「共感脳」を持っていると言うことなのやァ。 ただし、その共感脳は戦場では「動物の心」に負けてしまうねん。 そやから、残虐なことができるねん。 その残虐な話がこのページの最初に取り上げた十字軍の仕業(しわざ)やねん。
。。。で、その「共感脳」ってぇ、どないなモノやのォ~?
わてが調べたさかいに、ここに書き出すから、めれちゃんも読んでみたらええやん。
心の場所
相手の悲しみや苦しみに共感できたとき、人は「それほど悲しいのなら」「そんなにも苦しいのなら」と自分の感情を抑えて相手に譲るのです。
「共感」とは、共に感じると書きますが、もっとかみ砕いて言えば、「読みとった相手の感情を自分も感じる」ということです。
感情を抑えるのは理性ですが、実はその理性を働かせるのは、共感という感情の一致なのです。
動物は感情を持っていますが、相手に共感することはめったにありません。 共感は人間だけに見られるものです。 ということは、共感の働きは人間脳(大脳皮質)にあるということです。
では、その働きは、人間脳の中のどの部分でしょう。
実はそれは、この章の最初の部分でお話した「心の場所」である前頭前野の中の、さらにその真ん中の部分「内側前頭前野」というところにあるのです。 このことから内側前頭前野は、別名「共感脳」ともいわれています。
「内側前頭前野」というのは、わかりやすく言うと、額のちょうど真ん中部分にあたります。 仏像を見ると額に小さな丸いものがついています。 あれは「白毫びょくごう」というのですが、ちょうど脳のあのあたりに位置する脳が「内側前頭前野」です。
人間が社会生活をする上で必要な、「がまんの心」や「共感」といった能力は、「内側前頭前野=共感脳」の働きによってつくり出されていたのです。
(注: 赤字はデンマンが強調
写真とイラストはデンマン・ライブラリーより)
72 - 73ページ
『脳からストレスを消す技術』
著者: 有田秀穂
2010年5月20日 第11刷発行
発行所: 株式会社 サンマーク出版
要するに共感は人間だけに見られるものやと、あんさんは言いたいん?
そうやァ。
そやけど、十字軍ではキリスト教徒がさんざ残虐な事をしたではおまへんか!
そやから、その当時の十字軍の兵士は人間よりも動物の心によって動かされていたのやがなァ。
つまり、スルタンとアッシジのフランチェスコのエピソードは、その当時としては極めて人間的な、つうかァ~、共感脳的なエピソードやと、あんさんは言わはるのォ~?
そうやァ。
でも、それってぇ、ずいぶん昔の話やおまへんかァ!
そんなら最近の話をここに紹介するよってに、めれちゃんも読んでみたらええやん。
志集
2008年12月のある晩、東京にある別のターミナル駅前で中年女性を見かけたのだが、慌しい人ごみの中、女性は歩道橋下の柱の前に静かに立ち、「私の志集を買ってください」と書いた、汚れた広告板を手にして、詩集を1冊300円で売っていた。 彼女を見てびっくりしたのは、東京でも路上で詩集を売る人が珍しいからではない。 四半世紀前に、私がその駅を使って日本語学校に通っていた時に、同じ女性が同じ広告板を持って同じ落ち着いた顔つきで詩集を売っていたからである。 当時、彼女の詩集を何回も買おうと思ったが、勇気は出なかった。 しかし、年をとるメリットの一つは、知らない人に話しかけようとすると怖じ気づく気持ちが減っていくことである。 今回は躊躇なく彼女の「志集」を買った。 謄写版のような簡易印刷で刷られ、手作業によりホッチキスで止めたようなその小冊子は、もう第40号に達していた。
その晩は帰りの電車で、また次の日以降は大学の研究室で何回も詩集を読み返して、その詩人のことを思い返した。 この25年間、その駅の周辺は再開発と再々開発ですっかり様子が変わったのに、彼女がそこで自分の言葉を都会人に提供し続けていることは感慨無量である。
(注: 写真はデンマン・ライブラリーより
赤字はデンマンが強調)
150ページ 『英語のあや』
著者: トム・ガリー(Tom Gally)
2010年10月25日 初版発行
発行所: 株式会社 研究社
う~ん。。。ええ話やなァ~。。。
めれちゃんも、そう思うか?
それで、どこが「共感脳」と関係してはるん?
年をとるメリットの一つは、
知らない人に話しかけようとすると
怖じ気づく気持ちが減っていくことである。
つまり、「共感脳」が大きくなっていることやがなァ。 人間は経験をつんでくると恥ずかしいとか、カッコが悪いとか、見栄を張るとか、外聞を気遣うとか。。。そういう事に拘(こだわ)らなくなる。 それで、共感する気持ちの方が大きくなるのやないかいなァ。 そやから、トムさんも素直な気持ちで「志集」を買うことができたのやァ。
。。。で、あんさんは、この事が言いたくて「共感脳」を取り上げる気になりはったん?
いや。。。そればかりではあらへん。
他に何が言いたいねん?
あのなァ、めれちゃんは、かつて次のようなエゲツナい事を書いたのやァ。
(すぐ下のページへ続く)