シルヴィーとケネディ夫人(PART 1 OF 4)


ケネディ夫人

政治の街、ワシントンには、二種類の人間がいる。 ジャンピエールを知っている人と彼の存在を知らない人だ。
まだほんの一握りの選ばれし者たち、エスタブリッシュメントと呼ばれる一群が、この政治・情報都市を支配していた時代、仲間内でこう囁(ささや)かれていたのである。 彼らパワー・エリートたちは、首都の地下水脈から滲み出てくる情報を一手に握り、それゆえに権力を支配することができたのだった。 情報と人脈が毛細血管のように張り巡らされたこの街の結節点に位置していたのが、高級フレンチ・レストラン「リヨン・ドール(黄金の獅子)」だった。 そして、オーナー・シェフのジャン・ピエール・ゴイエンバーレこそ、権力という名の交響楽をともに奏でる指揮者であった。
(中略)
「思い出の賓客のなかで、たったひとりだけ、忘れえぬ人を挙げるとすれば誰でしょうか」
伝説に包まれたオーナー・シェフに、こう水を向けてみた。
ジャン・ピエールの答えは、映画『ローマの休日』で記者会見に臨んだオードリー・ヘップバーン扮する王女のようだった。

「そりゃどのお客様も、それぞれにじつに印象深い方々ばかりでした。 どなたか、ひとりだけと言われましてもね。 とてもお答えできるものでは……」
そう言いかけて、ジャン・ピエールは言葉を呑みこんだ。
「いや、やはり、ジャクリーヌ・ブーヴィエ・ケネディ夫人でしょう」
彼はきっぱりと言い切った。 フランス姓のミドル・ネームまで丁寧に言い添えて。
「なんと申し上げても、あの方を措いて他にはありますまい」
「リヨン・ドール」の入り口に現れたその瞬間から、店内はぱっと明かりが灯ったようだったという。

「なんとも華がおありでした」
オーナー・シェフは、往時を懐かしんだ。
「私には時々フランス語で話しかけてくださることもございました。 なんとも典雅な所作は、そりゃ、今でも隅々まで思い起こすことができます」
ほっそりと伸びた指で操る、そのフォークさばきは、上品このうえなかったという。
(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)
26 - 32ページ
『葡萄酒か、さもなくば銃弾を』
著者: 手嶋龍一
2008年6月4日 第3刷発行
発行所: 株式会社 講談社

ケイトー...どうして私とケネディ夫人の写真を並べて貼り出したの?

あのねぇ~、シルヴィーがまだインドネシアに居る頃にアメリカが当時のスカルノ大統領に接近していたのですよ。
どうして。。。?
当時はアメリカとソ連が冷戦の真っ最中だった。 インドネシアには次のような問題があった。 シルヴィーも知っているでしょう?
1949年のハーグ協定によってオランダがインドネシア独立を認めた際に、最後まで難航したのはオランダ植民地であったニューギニアの帰属であった。
オランダはニューギニアの住民はマレー系民族のインドネシアとは異なる別民族であると主張していた。
1910年にオランダは蘭領東インドからニューギニアを切り離して別個の植民地にしたこともありインドネシア領土の対象外であるとした。
インドネシアの民族主義者たちは全オランダ領がインドネシアとして独立することを望んでいた。
結局、ニューギニア問題は棚上げにしてハーグ協定は締結されたが、その間にオランダはジャワ島、スマトラ島からニューギニアへのオランダ人の入植者を募った。
1961年12月1日、オランダ領は国連暫定統治に置かれたが、オランダは新たに国旗、国歌を制定しパプア国としてニューギニアを独立させる準備をすすめた。

スカルノ大統領と周恩来首相と
デヴィ夫人 ムルデカ宮殿(1964年)
(Merdeka Palace in Jakarta)
オランダの対応に業を煮やしたスカルノ大統領は総力をあげてトリコラといわれるイリアン奪回を宣言した。
そして1961年12月、マンダラ作戦と称する軍事行動を開始した。
海戦で砲火を交え、落下傘部隊の降下作戦を指揮したのは後に大統領になるスハルト将軍であった。

スハルト将軍
さらにインドネシアは強硬策を講じ国内のオランダ資産を没収した。
事態の進展に憂慮したアメリカの支援をえて外交交渉の結果、1962年のニューヨーク協定でニューギニアのオランダ領の暫定統治はインドネシアに委任され、数年後に住民の意志を確認した後にインドネシアに
併合されることになった。

デヴィ夫人が写真に写っている1964年当時、私はまだ小さかったのよ。 上に書いてあるような事件は全く知らなかったわ。。。で、アメリカのケネディ大統領がインドネシアに好意的だったの?

あのねぇ、当時のケネディ大統領がインドネシアに好意的だったのは、ニューギニア帰属問題でスカルノ大統領を怒らせるとインドネシアがアメリカから離れて中国とソ連側の共産党陣営につくことを恐れたからですよ。
。。。で、ケネディ夫人がニューギニア帰属問題にからんでいるの?
いや、直接絡んでなかったけれど、この当時、ケネディ家にもいろいろと問題があってねぇ。。。
どのような。。。?
ちょっと読んでみてくださいよ。
(ケネディ夫人の実家)ブーヴィエ家の高貴な血は偽りだった。 フランスのドフィーネ地方の名家ブーヴィエと何のつながりもなかったのである。 ジャクリーヌの祖父に当たるジョン・ブーヴィエ・ジュニアが、大枚をはたいて「虚構の家系図」を買い取ったのだった。 後に歴史家がその事実を詳しく考証している。
(中略)
作家スコット・フィッツジェラルドが『華麗なるギャツビー』で描いた、あの豪勢な世界に住みたければ、富と権力を兼ね備えた男をつかまえることよ。 これが、実の母、ジャネット・リーが身を以って娘に教えた人生訓だった。 ミス・ポーターズ校の学費にさえ、事欠いてしまう。 実の父が投機で失敗し、仕送りも滞りがちになったからだ。 母の再婚によってオーチンクロス家の片隅に加えられはしたが、その目くるめくような資産の相続には与(あずか)れなかった。 ジャクリーヌもまた自力で富のある男を探さねばならなかった。 その標的こそ、ケネディ財閥の独裁者、ジョセフ・P・ケネディ・シニアだった。
華やかなパーティの席上で、ある日、ジョセフの次男ジョン・フィッツジェラルド・ケネディに出会う。

彼はすべての人を虜(とりこ)にしてしまう魅力に溢れていた。 自分の内面を怜悧に見つめる内省的な知性、自らを貶(おとし)めて相手を笑わせる独特のユーモア。 ジャクリーヌ・ブーヴィエもたちまち彼に魅せられてしまった。
(中略)
ジョンの父ジョセフは、女優グロリア・スワンソンを公然の愛人にしていただけではない。

この親子は、寝室を共にした女の数を競い合い、同じ女性を融通することまでしていたのだった。
ジョンはジャクリーヌを娶(めと)った後も、合衆国大統領の座を目指しながら、一方で、女優、人妻、客室乗務員、秘書、ジャーナリスト、コールガールと、おびただしい数の女性と関係を持ち続けていた。
ジャクリーヌは、次第にそうした一族の秘密を知るようになる。
33 - 37ページ
『葡萄酒か、さもなくば銃弾を』
著者: 手嶋龍一
2008年6月4日 第3刷発行
発行所: 株式会社 講談社

でも、これはJFKが大統領になる前のことでしょう?

いや、前にも話したとおり女性問題はJFKが大統領になってからもホワイトハウスに持ち込まれたのですよ。
。。。で、ケネディ大統領とインドネシア動乱(9.30事件)が関係あるの?
インドネシア動乱(9.30事件)が起こったのでシルヴィーは家族と一緒にオランダに逃げ出したのだけれど、もしケネディ大統領が暗殺されなかったら、CIAが裏で動いたインドネシア動乱(9.30事件)は起こらなかったかもしれない。 つまり、動乱が起こらなかったらシルヴィーと僕はカナダで出会うことはなかったかもしれない。。。
ケイトーは、どうしてそう思うの?
ちょっと次の文章を読んでみてね。
(すぐ下のページへ続く)