とんかつとピアノ (PART 1 OF 4)

とんかつの聖地へ

あともどりがきかない味がある。 いったん思い出すと困り果てる。 たとえば、とんかつ、焼き鳥、鮨。
この三つばかりはいったんスイッチがはいってしまうと代替えがきかず、軌道修正がむずかしい。
きょうはとんかつのスイッチがはいった。 いや、予感はあった。
(中略)
空腹のとき電車に乗っていると、おなじような現象に襲われることがある。
(とんかつ、食べたい……)
三つ四つさきの駅に、好みのとんかつ屋がある。 その味が舌のうえに飛来する。 ぐーっと耐えたのち、辛抱たまらん。
電車が止まった瞬間に腰が浮き、開きかけたドアのあいだをすり抜けて息も荒くホームに降りたつ。
ひとまず動悸をしずめると、つぎつぎやってくる味の記憶。 まず喉の奥のほうに香ばしい匂い、はげしい熱、ちくちく舌を刺す感触。 喉の奥、舌のつけ根、まんなか、舌の先。 歯ぐき、歯の裏側。 いじわるに滲み広がっていき、ひたひた、ひたひた伝染してゆく。 こんがり金いろの衣。 ピンク色の肉。 揚げたてのふくよかな香り……
身をよじりながら責め苦に悦ぶわたしは、巨大な蛸に吸いつかれた北斎漫画の主人公だろうか。

とはいえ、そんな歓喜の渦に巻きこんでくれる味にはおいそれと出合えない。 だからこそ、掃除機片手に喉をかきむしったり、電車からホームに飛び出してみたりする。
(中略)

「燕楽(えんらく)」のとんかつはラードで揚げる。 それも、内臓のまわり、腸間膜から抽出されたふわふわまっしろの新鮮なラード。 それを鍋いっぱいに溶かしてつくった揚げ油なのだ。
豚肉は山形の三元豚(さんげんぶた)の霜降り。 パン粉は、ホテル仕様の食パンでつくる生パン粉。卵は宮城県栗駒高原の自然卵……
いや、「燕楽」のとんかつにこんなうんちくなどかえって失礼というものだ。 たとえおなじ素材を使っていたとしても、この店のこの揚げかたでなければ、あの味になるはずもない。

カウンターの外から、一部始終を眺める。 ふわりと生パン粉をまぶされた厚い肉が、てらてら光って揺れるラード油のなけへ滑りこむ。 ずん、と爆(は)ぜる重い音。 しかし、あわてず低めの低温のなかでそのまんま。
触らずいじらず、こちらが心配するほど放置する。 3分は経ったろうか、ようやくひっくり返されたその片面は、うっすら優しげなきつね色に染まっている。

(注: 写真はデンマン・ライブラリーより
赤字はデンマンが強調)
57 - 60ページ 『焼き餃子と名画座』
著者: 平松洋子
2009年10月13日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社 アスペクト

デンマンさん...とんかつが大の好物の人は上の文章を読んだだけで、もう堪(たま)りませんわよ。

小百合さんも堪りませんか!?
なんだか無性にとんかつが食べたくなりましたわ。
一緒に食べましょうか?
でも、最近太ってきたのでダイエット中なのですわ。
時には好きなものを思いっきり食べた方が精神衛生上いいのですよ。
デンマンさんも、とんかつが好物なのですか?
いや。。。僕はめったにとんかつを食べないのですよ。
とんかつが嫌いなのですか?
いや。。。嫌いじゃないけれど、とんかつよりも牛のステーキの方が僕は好きなのですよ。
とんかつを注文することは、めったにないのですか?
めったにありません。
それなのに、どうしてとんかつの事など取り上げたのですか?
僕も上の文章を読んだら無性にとんかつが食べたくなってきたのですよ。 僕は豚肉の匂いが駄目なんですよ。 でもねぇ、旨いとんかつには、あの豚肉の嫌な匂いがないですよね。 良い豚肉と良い油を使って揚げるからなんでしょうね。
熱いうちに召し上がればよいのですわ。。。それで、今日はデンマンさんがとんかつを食べた時の思い出話ですか?
そうです。。。小百合さんも興味があるでしょう。
食べることは好きですから政治の話よりはずっと関心がありますわ。
あのねぇ~、“黒豚”のトンカツを家族で食べたことが数少ない僕のとんかつの思い出なのですよ。
黒豚のトンカツがそれほど珍しかったのですか?
いや。。。珍しかったと言うより、実家でテレビを見ていたらワイドショーで“黒豚”のことを取り上げていたのですよ。
それで黒豚のトンカツを食べさせることで有名なお店をメモしておいたのですか?
そうなのですよ。 両親と一緒に家族で水上温泉だったか伊香保温泉に車で出かけた帰りに前橋に差し掛かった頃が、ちょうどお昼時だったのですよ。 でも、目当ての店がなかなか見つからなかった。 20分ぐらい探しても見つからなかったのですよ。
それで、どうしたのですか?
しかたがないから、前橋警察署に訊きに行ったのですよ。
マジで。。。? 黒豚のトンカツ屋さんの場所を見つけるために、わざわざ警察にまで出むいたのですか?
そうなのですよ。 それが最も確実な方法だと思ったのでね。
それにしても、黒豚のトンカツ屋を探しに警察署に行くなんて聞いたことがありませんわ。
警察ならば間違いなく知っていると思ってね。 (微笑)
それで教えてくれたのですか?
ところが最初に尋ねた受付の婦人警官は分からないのですよ。
。。。で、どうなさったのですか?
カナダから10年ぶりに帰省したので、ぜひ黒豚のトンカツが食べたい、と大げさに話したら近くで昼飯の弁当を食べていた男の警官が “。。。ん? わざわざカナダから黒豚のトンカツを食べにやって来たのォ~。。。う~ん。。。 黒豚のトンカツねぇ~。。。この近くには黒豚のトンカツを食べさせる所なんて無いと思うけど。。。”
デンマンさん。。。黒豚のトンカツで有名なのは群馬県では無くて鹿児島県ですわよ。
(すぐ下のページへ続く)