デンマンのブログ

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女帝の怨念

2024-01-13 03:42:39 | 歴史四方山話
 
女帝の怨念






雲場池(スワンレイク)の小百合さん



投稿日時: 2008/09/22 03:58 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午前11時58分
バンクーバー時間: 9月21日 午後7時58分



防人の歌碑のところまで行って、
新しい道を探して 見つかった時の 新鮮さ。
長男や次男のこと、デンマンさんのことも
忘れて 自分だけのことで 走り回ってました。




■ 『ビバ! 白鳥の湖 (2008年6月15日)』
(防人の歌碑については上の記事を読んでみてね。)



“防人の歌”。。。懐かしいですねぇ~。

そうです。そうです。
あの防人の歌の歌碑も、小百合さんと一緒に見たいものですね。




 

日の暮れに

うすひの山を

越ゆる日は

背なのが袖も

さやに振らしつ


 


(巻第十四 東歌 三四〇二

詠み人知らず)

現代語訳:

日の暮れ時に、碓氷の山の峠を越える日に、我が夫が、別れの時に目につくほどはっきりと袖を振っていたわ。

(峠を越えて去ってゆく夫を慕う妻の心情を詠んでいる。)





ひなぐもり

うすひの坂を

越えしだに

妹が恋しく

忘らえぬかも


 


(巻第二十 四四〇七

他田部子磐前 [おさたべの子いわさき])

現代語訳:

ひなくもり(碓氷を導く枕詞)碓氷の坂を越える時は、国へ置いてきた妻のことが恋しくて忘れられない。

(碓氷峠越えの別れの恋歌。)





■ 『夢のホテル (2008年5月8日)』より


 




昭和25年ごろの手書きのマップを見つけ
コピーして 今大切に見てます。
大きくして額に入れようかな~ 

本当に 雲場池のところに ニュー グランドホテルと書いてあった。

 


(lodge25.jpg)


(lodge24.jpg)

&nbsp

1度見てみたい 竈岩(かまどいわ)
白人はジャイアントチェアー と呼んでいたらしい。
南のプリンススキー場の裏側なので 見たこと無いです
ごめん ごめん 私の事ばかり


うん、うん、うん。。。

小百合さんの事を、もっともっと書いてくれてもいいよう。




お母さんは 封筒の宛先は どうやって 書いてるの?

封筒だけ デンマンさんが たくさん書いて おいてきたりするの?





弟が書いてやっているようですよう。
僕は書いた事が無い。




 



私 今月末と思ったら 10月末 よね。
ネットカフェ・コンコルドであわてて デンマンさんの旅程表を見たから勘違いしてました。

あと1ヶ月ですね。




まだ1ヶ月以上ありますよう。
でも、1ヶ月なんてすぐに経ってしまいますからね。

僕は1ヶ月分の記事を用意しなければならないので、
この1ヶ月間は大変です。




これ SUBMIT できるかな
何だか お気に入りが減ってるし、マウスはどっか
無くなってるし やりずらいなー

これが 現実の世界ですよ、今日も次男坊と喧嘩がはじまりそうー。

では 今日も洗たく 掃除...
今から始めます。

では、また。。。

小百合より

 




 



そうですよう。そうですよう。
軽井沢は、小百合さんにとって“今一つの世界”なのですよう。

日常茶飯事から開放されて、小百合さんの“夢とロマンの生活”を軽井沢に求めているのですよう。
つまり、それこそ小百合さんの“女の世界”です。
デンマンの“ロマンポルノ天国”と重なると思うのですよう!
うしししし。。。

行田で元気に再会しましょうね。
“恍惚のハグ”を楽しみにしていますよう!
じゃあね。








投稿日時: 2008/09/22 07:16 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午後3時16分
バンクーバー時間: 9月21日 午後11時16分

『帰省スレッド』より
ロンドンの“ビーバーランド e-XOOPS”






防人の歌が多少、持統天皇と関係あるので、デンマンさんは、また小百合さんのメールを持ち出してきたのでござ~♪~ますか?



そうですよう。やっぱり話題と無関係なものを書くわけにはゆきませんからね。それに、万葉集に防人の歌を取り上げたのは、まず間違いなく万葉集の編者と考えられている大伴家持ですよう。

どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?

大伴家持は仕事で防人の世話をする役目についていた事があるのです。かつて僕は次のような記事を書きました。関連箇所を抜き書きしました。ちょっと読んでみてください。

 


万葉集で政治批判?

 



 

天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。

 (中略)

天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年(西暦775年)に、東国の国々から防人の歌を集めさせたのです。
集まった歌は166首でしたが、家持が選んで84首を万葉集に残しました。
この時は、すでに防人の制度が始まってから、100年近くが経過していました。

歌のほとんどは、家族と離れ離れになる悲しさや、夫が遠くに行ってしまう悲しさ・不安・無事を祈る気持ちで詠(よ)んだものです。
なぜ大伴家持は、防人の歌を集めさせたのか?
上に引用した彼の経歴を見れば明らかです。
家持はこの制度に批判的だったんですよね。

大伴家持は当時の政府の役人を務めてはいますが、心の中は反政府的なんですよね。
彼自身も反政府運動に加担していた。
少なくともそのような嫌疑をかけられて罰を受けたことがある。
反骨精神のある人だったことが分かります。

武器を持って反政府運動を繰り広げて政府を転覆したいと思っていたかもしれませんが、それが現実的でないので万葉集という歌集を編纂して、その中に反政府的歌をあつめて歴史の真相を後世に伝えようとしたわけです。




『性と愛と批判 - 万葉集の中の政治批判?』より
(2006年5月8日)


 



大伴家持が防人の歌を万葉集に載せたのも当時の藤原政権に対する批判だったのでござ~♪~ますか?



日本社会特有の“本音と建前”は、おそらく大伴家持あたりが持ち込んだのでしょうね。

つまり、建前では、身分にとらわれずに広く大和の民衆から歌を集めると言いながら、防人の歌を集めて本音で藤原政権を批判するつもりだったのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。それ以外に批判の道は残されてなかった。

。。。んで、その事が柿本人麻呂とどのように関わっているのでござ~♪~ますか?

 




紀貫之は柿本人麻呂が「正三位」であったと『古今和歌集』の仮名序に書いているのですよ。ちょうど、明治政府が明治37年に紀貫之に「従二位」を追贈したように。。。



なぜですの。。。?

だから、僕は紀貫之は真相を知っていると思っているのですよ。

どのような真相ですか?

持統三年(689)草壁皇子(持統天皇の皇子、軽皇子の父)の挽歌に始まり、翌四年の吉野行幸や六年三月の行幸に関する歌を柿本人麻呂は多数残しているのですよ。しかも六年冬に行われた軽皇子(後の文武天皇)の安騎野行きにも御付きとして従っている。十年七月には高市皇子(天武天皇の皇子)の死去にあたって「渾身の傑作」と後世評価される挽歌も捧げている。それなのに、柿本人麻呂の「死」に対し「妻」以外、誰一人として哀悼の意を表し、歌を捧げた人がいなかった。しかも、正史に、この人のことが1行も書かれていない。この事は歴史の謎になっているのですよ。

つまり、柿本人麻呂が正三位であった事は正史に書かれていないのですか?

正史に書かれてないのですよ。

それなのに紀貫之は柿本人麻呂が「正三位」だったと『新古今集』の序文に書いたのですか?

そうです。出鱈目(でたらめ)ではないのですよ。

どうしてですの?

だから、このような形で政治批判をしているのです。現在にまで謎が残る形で奈良朝の政治の暗黒部分を我々に伝えようとしている。ちょうど大伴家持が、持統天皇の平凡な歌を載せたように。。。でもその歌の裏には政治の混乱が隠されていたのですよ。

つまり、『伊勢物語』もそのようにして紀貫之が本音では“政治批判の書”として編集した、とデンマンさんはおっしゃるのですか?

そうですよ。

。。。で、具体的には。。。?




『愛と怨霊 (2006年7月5日)』より


 



デンマンさんの古い記事を持ち出してきて何を言おうとなさるのでござ~♪~ますか?



これまで読んでくれば卑弥子さんにも僕が何を言おうとしているか分かるでしょう?

デンマンさんのお話は、あちらに飛んだり、こちらに飛んだりするので、何がなんだか良く分からなくなってしまうのでござ~♪~ますわ。今度は紀貫之までが登場していますわ。

大伴家持も紀貫之も日本の古典や日本史を知っている人であれば誰もが記憶している名前だと思うのですよ。卑弥子さんだって知っているでしょう?

もちろんですわ。これでも、あたくしは古典文学を専攻している者でござ~♪~ますから。。。

ちょっと考えてみてください。大伴家持も紀貫之も歌人としてしか知られていない。

だってぇ~、歌人ですものォ~。。。あたりまえでござ~♪~ますわア~

確かにその通りですよ。でも見方を変えれば、藤原氏以外の人物にとって政治に関わりたくても関わることができなかった。有能であれば有能であるほど藤原氏によって政界から蹴り落とされていったのです。菅原道真などがその良い例ですよ。

菅原道真以外にも居るのですか?

たくさん居ますよ。

デンマンさんは記事にも書いているのでござ~♪~ますか?

もちろんです。藤原氏内部でも主流派と反主流派があって、反主流派の人たちは追い落とされてしまったほどです。

 




 

この世をば

わが世とぞ思ふ

望月の

欠けたることも

なしと思へば


 

藤原道長


 



藤原道長は“氏の長者”になって権勢を欲しいままにして、このような歌を詠んだのです。でも、それまでには、すさまじい権力闘争があった。

 


当子(まさこ)内親王と

藤原道雅(みちまさ)の悲恋


 



 



簡単に言ってしまえば、藤原氏内部の主導権争いだったわけです。道長は道隆の四男だった。道隆の長男が道雅の父親である藤原伊周(これちか)だった。道長に野望が無く、何事も起こらなかったならば、藤原氏の実権は黙っていても道雅の手に入ってくるところだった。分かるでしょう。当子内親王と藤原道雅の恋物語の裏には、このような藤原氏の陰謀が渦をまいていた。



この悲恋にも道長の手が伸びていたのだと。。。デンマンさんはそうおっしゃるのですか?

そうです。このようなやり方は藤原鎌足から受け継いでいる藤原氏の伝統的なやり方ですよ。自分の主導権を正当化するためならば何でも利用するのです。前にも書いたことだけれどね、次の2つの記事を読めばよく分かりますよ。

 



 

■ 『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』

『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』

 



でも。。。でも。。。なんだか飛躍しすぎているような説明ですわぁ~。



今から千年前の悲恋ですからね、真相は謎ですよ。でも、藤原氏の長い歴史を見ると見えてくるモノがあります。




『愛と性と不良娘 (2007年2月8日)』
『愛と性に萌えて (2007年2月6日)』より


 



このように、藤原氏であっても反主流派は追い落とされてしまうのですよ。



つまり、大伴家持や紀貫之は政治の世界で身を立てようとしても、それが叶(かな)わぬ事と知り抜いていたので歌の世界で藤原政権に対して批判しようと思ったのでござ~♪~ますか?

その通りです。事実そのようにして大伴家持は万葉集で藤原政権批判をしているのです。紀貫之も柿本人麻呂が事実上三位の人であるという事を後世の人に伝えるために、わざわざ『古今和歌集』の仮名序に書いたのですよ。

そうやって、史実を後世の人たちに知らせるためでござ~♪~ますか?

その通りです。大伴家持が属している大伴氏も紀貫之が属している紀氏も藤原氏によって、すでに政治の世界から追い落とされていたのです。

それで、柿本人麻呂は、一体どのような悲劇に遭遇(そうぐう)したのでござ~♪~ますか?

上の引用の中で赤字にした部分があったでしょう?もう一度ここに書き出します。

 




 

持統十(696)年七月には

高市皇子(天武天皇の皇子)の死去にあたって

「渾身の傑作」と後世評価される挽歌も捧げている。

それなのに、柿本人麻呂の「死」に対し「妻」以外、

誰一人として哀悼の意を表し、

歌を捧げた人がいなかった。

しかも、正史に、この人のことが1行も書かれていない。


 



これが柿本人麻呂の悲劇なのでござ~♪~ますか?



その通りです。

高市皇子の殯宮(もがりのみや)で人麻呂が詠った挽歌は最高傑作とも言われているのです。つまり、この挽歌こそ、人麻呂と高市皇子の結び付きの強さを暗示しているのです。

その挽歌に何か隠されている秘密があるのでござ~♪~ますか?

いや、特に秘密があるわけではありません。ただ、その挽歌を読むと柿本人麻呂が高市皇子の死をとりわけ惜しんでいる事が実に良く分かる。

それで、何が隠された秘密なのでござ~♪~ますか?

実は、『万葉集』巻一に「藤原宮御宇天皇代」の歌として載っている長歌があるのですよ。

どなたがお作りになったのでござ~♪~ますか?

「藤原宮の役民の作れる歌」である、と書いてあるのです。

どのような歌なのでござ~♪~ますか?

ちょっと読んでみてください。

 




 

やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子

あらたへの 藤原が上に 食国を 見し給はむと

都宮は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに

天地も 寄りてありこそ 磐走り 淡路の国の

衣手の 田上山の 真木さく 檜のつまでを

もののふの 八十氏川に 玉藻なす

浮べ流せれ そを取ると 騒く御民も 家忘れ

身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きゐて わが作る

日の御門に 知らぬ国 寄り巨勢道より わが国は

常世にならむ 図負へる 神しき亀も 新代と

いづみの河に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず

いかだに作り のぼすらむ 勤はく見れば 神ながらならし




万葉集 巻第一・50


 



持統八(694)年12月6日に都を藤原宮に移したのです。高市皇子が死去する2年前です。この長歌は、この藤原宮で働いている役人が詠んだ歌だと書いてある。



名前は書いてないのでござ~♪~ますか?

書いてないのです。でも、多くの古典研究者や歴史研究者がこの長歌は人麻呂が詠んだ長歌に違いないと考えているのですよ。

デンマンさんも、そう思っているのですか?

もちろんです。

なぜでござ~♪~ますか?

万葉集の中には、上の長歌のように名前が伏せてあるものや“読み人知らず”になっている歌がたくさんあるけれど、すでに見てきたように1073番の歌も僕は柿本人麻呂が詠んだに違いないと見ているのです。

 




 

玉垂(たまだれ)の

小簾(をす)の間(ま)通し

ひとり居て

見る験(しるし)なき

夕月夜かも


詠み人知らず

万葉集 巻第七・1073



このような素晴しい月夜の晩に、

一人で簾の隙間から月を見ているが

ああ~、愛(いと)しいあの人は、

もうこの世の人ではない。

あのように儚(はかな)く

逝(い)ってしまうのであれば、

もう少し足しげく通って、

優しい言葉をかけてあげたかった。

でも、そうできない事情が

あったのだ。


今更嘆いたとて、

どうなるものでもないが。。。

それでも、あの人を思い出すと

慟哭せずには居られない。

 




『万葉集の謎 (2008年9月23日)』より


 



分かりましたわ。。。んで、上の長歌が柿本人麻呂の歌としてですわねぇ~、それは人麻呂が時の天皇・持統女帝に献呈した歌なのでござ~♪~ますわね?



当然、そのように考えられているのです。

デンマンさんは、そうではないと思って居るのでござ~♪~ますか?

もちろんん、人麻呂が作った長歌なんだけれど、もし、人麻呂が持統天皇のために詠(うた)ったのであれば、名前を出しても良いのですよ。

なぜ、人麻呂の名前を出さなかったのでござ~♪~ますか?

なぜなら、人麻呂は持統天皇ではなく高市天皇のために詠(よ)んだからですよ。

しかし、高市天皇なんて日本史では認められていませんわ。

その通りです。持統天皇に暗殺されてしまったのだから。。。

まさか。。。?

それが僕の言う悲劇なのですよ。

しかし。。。しかし。。。そのような事は、あたくし、日本史で勉強しませんでしたわ。

だから、この史的事実は隠されてきたのです。それで、上の長歌も人麻呂が詠んだのだけれど、“藤原宮で働いている役人が詠んだ”と万葉集に書いたのです。

なぜでござ~♪~ますか。。。?

そのようにすれば、本当の真実を後世の人が分かってくれるだろうと考えて大伴家持は、そのように書いたのです。真実を書いたら、大伴家持の首が飛んでしまうから。。。

そうでしょうか?

だって、そうでしょう?上のような長歌を藤原宮で働いている役人が詠んだのです。本当に持統天皇のために詠んだのであれば、詠んだ人の名前を伏せる必要はないのです。しかし、その人の名前が書かれてない。不自然ですよ。これは臭い!。。。何か隠されているに違いない。。。僕はそう思いました。

でも、ただそれだけでは、あたくし、納得できませんわ。

だったら、卑弥子さんが納得できるように、もっと詳しく説明します。

分かりましたわ。さっそく分かり易いように説明してくださいましな。

うん。。。でも、この記事が、かな~♪~り長くなってしまったので、また明日 話します


また、お預けでござ~♪~ますかア?

このまま続けたら、収拾が付かないほど長くなってしまいますからね。。。




初出: 2008年9月27日



【卑弥子の独り言】



 

ですってぇ~。。。
また、お預けですわ。
デンマンさんの記事は、特に、出だしが長いのですわよう。
あなただって、そう思うでしょう?

とにかく、明日 面白くなりそうでござ~♪~ますわ。
なぜ、持統女帝は天皇である高市皇子を暗殺する必要があったのでござ~♪~ましょうか?
そして柿本人麻呂は、なぜ史書から抹殺されなければならなかったのでしょうか?

あなたも、どうか、読みに戻って来てくださいましね。
じゃあ、また。。。






ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

“本音と建前”

よく聞きますよね。

さて、英語で何と言うのでしょうか?

考えてみた事がありますか?

いろいろと言い方があると思います。

appearance and reality

見かけと実物そのまま


これも本音と建前と言い換えることができますよね。

form and substance

外観と実体


これも本音と建前と同じですよね。

one's real intention and

what one says on the surface


本音と建前を説明しているのですよね。

real motive and stated reason

これも間違いなく本音と建前ですよね。

what one says and what one means

本音と建前をこのように言うこともできますよね。

では、「本音と建前を使い分ける」を

英語でどのように言うのでしょうか?

ちょっと考えてみてください。



次のように言うことができます。

You should be tactful as to

when to tell real intention

and when to show form.


ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。








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