デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

桜屋敷

2024-01-15 06:18:19 | 日本人・日本文化・文学論・日本語
 

桜屋敷

 


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デンマンさん。。。、桜屋敷と言うのは、デンマンさんのご先祖が住んでいた屋敷の事ですか?


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いや。。。僕の先祖は、たどってゆくと百済からやって来た騎馬武者なのですよ。。。7世紀の白村江(はくすきのえ)の戦いで百済が 唐と新羅の連合軍に敗れて、当時の大和に避難民として逃げてきたのですよ。。。九州から当時の平城京まで下って行ったのだけれど、食ってゆくために必要な土地がもらえなかったので、ついに関東まで下ってゆき、武蔵の国の忍、現在の行田市に住み着いたのです。。。詳しい事は次の記事で書きました。

 




『デンマンの祖先は百済からやって来た』


 



そんな昔のことがデンマン家には家系図として残っていたのですか?



家系図など当てになりませんよ。。。 昔は家系図を買ったり、新しく作らせたりしたものです。。。僕の実家には遠い祖先が書き残した土地を分けていただきたいという漢字の請願書が残っており、結局その請願書は突き返され、それが家宝のように伝来してきたのです。。。

。。。で、現在はどうなっているのですか?

僕が第132代の当主として持ってますよ。。。デンマン家は、日本の皇室よりも古い歴史を持っているのです。。。

。。。マジで。。。?

いや。。。冗談です。。。でも、百済からやって来たという事は本当です。。。

つまり、この事を言うために、わざわざ 桜屋敷 を持ち出してたのですか?

いや。。。そういうわけではありません。。。確かに、避難民として関東に下って、当時の忍藩の騎馬武者として小田原の合戦に はせ参じたのだけれど、豊臣秀吉の軍に敗れて武士を捨てた頃には、屋敷は手を入れることもなく、やがて廃屋(はいおく)のようになってしまった。

 


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つまり、デンマンさんが子供の頃は、こんなあばら家に住んでいたのですか?



上の写真は江戸が明治に変わる頃のものですよ。。。もちろん、実物のものではありません。。。

つまり、デンマンさんの江戸時代の祖先は落ちぶれて、このようなあばら家に住んでいたと言うために 桜屋敷 を持ち出してきたのですか?

違います。。。

じゃあ、どういうわけで桜屋敷を取り上げたのですか?

実は、ユーチューブで古今亭志ん朝さんの落語を探していたら次の噺に出くわしたのですよ。。。

 


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本所 桜屋敷

鬼平犯科帳


 

天明8年(1788)の正月のある朝、「火付け盗賊改め役所」の長官である長谷川平蔵は昨年末逮捕し、処刑した凶盗・野槌(のづち)の弥平(やへい)一味のうち、取り逃した小川や梅吉を本所で見たという密告を受けた。
密告したのは、越中・高岡で生まれ育った元盗賊で、今は佐嶋与力の密偵をしている岩五郎である。

平蔵はすぐ一人で本所へ向かった。
本所は父の屋敷が三ツ目にあり、17歳から父が町奉行となった京へ赴くまでの10年間、過ごした町である。

最初、平蔵は梅吉が姿を見せ、消えたという南割下水みなみわりげすいの近辺を巡回したが、何の手掛りもなかった。
そこで三ツ目の昔の屋敷を訪ねてみたが、屋敷も周りの情景も17年前と変わらず、懐しかった。
さらに昔剣術を学んだ法恩寺横の一刀流・高杉銀平道場を訪ねてみると、道場は廃屋となっている。

また道場の北側には「桜屋敷」と呼ばれる、この辺りの名主・田坂直右衛門の屋敷があった。
そこの山桜の老樹の花片が道場の窓から吹き込んできたし、名主の孫で両親のいないおふささんが蕎麦切と冷酒を下女に運ばせ、門人に差入れをしてくれた。
それが今や武家屋敷に変わっており、平蔵は茫然とたたずんでいた。

 


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この時、背後からわざと斬りかかった者がいる。
うまくかわした平蔵は高杉道場で猛稽古をした剣友・岸井左馬之助と20余年振りに再会した。
そして2人は法恩寺門前の茶店へ入り、湯豆腐と熱い酒で、積もる話を語り合った。

実は桜屋敷のおふささんは2人の初恋の女性であった
だが2人が22歳の春、彼女は花嫁姿で舟に乗り、横川よこかわを下って日本橋の呉服問屋・近江屋へ嫁いでしまった。

 


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その頃、幕府は本所、深川の土地に目を付け、名主の土地・百姓を他へ移していたため、名主の力が弱体化しており、祖父は孫娘の幸せを願い、思い切って日本橋の大店へ嫁がせたのである。

平蔵は翌年父の跡を継ぐことになり、将軍・家治に拝謁(はいえつ)し、市井の無頼者(ぶらいもの)との付き合いも止めた。

一方岸井は今も十月とつきに1回の割合で桜屋敷を訪ね、独身を貫いている。
おふささんが今は御家人の御新造となり、本所で暮しているからでもあるらしい。

岸井と別れた後、平蔵は南割下水の御家人・服部角之助の家を探してみた。
家は見つからなかったが、今度は本所の無頼者で親しくしていた相模さがみの彦十と20余年振りに出会った。

二ツ目の軍鶏(しゃも)鍋屋・五鉄に誘うと、彦十は、先程は御家人・服部の家から出てきたが、そこでは毎日賭場(とば)が立っている、御新造もばくちを打っているという。
それで平蔵は今の役職を打ち明け、梅吉の人相書を渡し、服部の家にいないか調べるよう頼んだ。

さらに役宅へ戻った平蔵は、日本橋に住む改め方の御用聞・文治郎を呼び、近江屋のおふささんのことを聞くと、彼女は幸せに暮らしていたが、子供を死産してから数日後に夫が馬に蹴られ、1ヶ月後に亡くなってしまった、後取りはもめたが、結局夫の弟に決まり、その弟が桜屋敷を御公儀へ売り払い、いくらかのお金を渡し、彼女を追い出したということであった。

ところで彦十は別れてから4日後の夕、役宅へ来て、服部の家に梅吉がいると報告してくれた。
さらに翌々夜、駆け込んで来て、無頼仲間の蓑虫(みのむし)の久(きゅう)が服部の家に呼ばれ、日本橋の近江屋の押し込みに一枚乗れと言われた、服部の旦那が糸を引き、梅吉と浪人くずれ7人が中心となり、数日中に押し込む様子と急報してくれた。

平蔵はすぐに改め方20余名に出動命令を出し、午後11時には服部の家を取り巻いた。
そして彦十の連れてきた蓑虫(みのむし)の久を使って門を開けさせると、先頭に立って中に入り、服部夫妻を含め梅吉達を一網打尽にした。

取り調べはおふさ以外の者を平蔵が担当し、梅吉は、蓑虫の久を誘い込んだのが運のつきであった。
梅吉は、旦那のお目を逃れて服部の賭場へ転がり込んだ。
そして、御新造と仲良くなった。
近江屋への押し込みは御新造が勧めたものであったと白状した。

 


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最後のおふさは村松与力が取り調べた。
その日平蔵は岸井を役宅に招き、詮議場の横の部屋の障子のすき間から一緒に白洲の彼女を見た。

村松与力がびしびしと調べを進めると、おふさは、近江屋にはうらみがある、それ故梅吉をそそのかせ、近江屋夫婦を殺害させるつもりであった。
お金を盗むことよりもそのことの方が、私には大事であった、とはきはきと答えた。
どういううらみがあったのかと聞かれると、おふさは、日本橋の御用聞が平蔵にいった通りの内容をはっきりと述べた。

おふさが白洲から引き立てられる時、2人はたまりかねて詮議場へ出ると、おふさは2人を見たが、表情は少しも変わらない。
まったく、おふさは2人を忘れ切ってしまっていたのだ。

そのことを平蔵が思わずささやくと、岸井の両眼から泪が湧きこぼれた。
左馬はこれ程までにおふささんを思いつめていたのか。
平蔵は深い感動を覚える。

春になり、梅吉、服部、浪人くずれは死罪、おふさは服部家の小者その他と遠島となった。

数日後平蔵は神田川の船宿で小舟をやとい、本所の横川よこかわへ向かった。
大川から竪川たてかわへ入ると一ツ目橋、二ツ目橋、三ツ目橋とあり、そこに屋敷があった。
三ツ目橋をくぐり、新辻橋の手前から左へ曲ると横川。

横川を北へ進むと右手に法恩寺の屋根が見え、舟は出村町にさしかかり、横川町沿いに止まる。
対岸の桜屋敷の山桜は今が満開である。
そして対岸の草地にたたずむ男がひとり見える。
おふさを想い独身を貫き通した岸井左馬之助だった。
舟は静かに去った。



 



殺伐とした捕り物帖のエピソードの中に、おふさと言う美しい女性を登場させ、若い頃の平蔵と、彼の親友の岸井左馬之助のロマンが語られるのですわねぇ~。。。



そうなのですよ。。。映画では、岸井左馬之助とおふさが寺の土塀が続く道で軽く会釈をして擦れ違うシーンがある。。。この場面は京都の妙心寺でロケされたのだけれど、実に美しいシーンなのですよ。。。このシーンが岸井左馬之助の胸の内にあるから、いつまでもおふさを想い続けられたのだと思うのです。。。

 


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岸井左馬之助がおふさと寺の土塀が続く道で軽く会釈をして擦れ違うだけのことで’、一人の女性を想い続け、男は独身をとおすことができるのでしょうか?



あのねぇ~、江戸時代は儒教と武士道が若者の行動を支配していたのですよ。。。「男女7歳にして席を同じくせず」。。。戦前までは、小学校でも小学5年生、6年生になると教室は男女別々になったほどです。。。

 


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デンマンさんも小学生の頃は男女別々の教室で勉強したのですかァ~?



あのねぇ~。。。僕は戦後生まれですよ。。。だから、小学校でも、中学校でもずっと共学でした。。。戦前は、普通の男女にとって、男女関係は まるで別世界だったのですよ。。。

 


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当時、千代田女子専門学校国文科の1年生だった、戦後、歴史小説家になる杉本苑子さんも、この学徒額出陣式に参列していたのです。。。彼女が話したように、当時そんな事をしたら不謹慎であるにもかかわらず、女学生の中には心の中で恋い焦がれていた男子学生が行進の中にいて、最後の別れをしようと手の届くほどまで近寄ったのです。。。



それに刺激を受けて、もう世間体も気にならずに本能的に行進している男子学生に雪崩(なだれ)を打つように他の女学生も手の届くほどに近づいたのですわねぇ~。。。

そういうことですよ。。。その女学生の一団の中に杉本苑子さんもいたというわけです。。。この出陣式に出席した9か月後に、兄をサイパン島の激戦で亡くした妹の戸田聰子(としこ)さんが言っているように、希望が持てる時代ではなかった。。。だから、ほとんどの女学生は、この男子学生の多くが戦地で戦死すると思ったに違いない。

それで、できれば恋焦がれている男子学生の手を取って、最後の別れをしたいと思ったのでしょうねぇ~。。。

でも、そうすることは当時の慣習では、許されることではなかったのですよ。。。

デンマンさんが、その女子学生だったら、どうしますか? 恋焦がれている男子学生に近づいて手を取り、最後のお別れをしますか?

多分、タブーを犯して手を取って最後の別れをするでしょうねぇ~。。。

でも、憲兵がやってきたらどうしますか?

その時は、逮捕される前に、貨物船に忍び込んで海外に密航します。。。

デンマンさんは口では、そういう勇まし事を言ってますけれど、当時に生きていたら絶対に、そういう事はできなかったと思いますわァ~。。。

たぶん、そうでしょう。。。でもねぇ、僕は戦後生まれだから、そういう古臭い慣習にはとらわれません。。。あのねぇ~、岸井左馬之助とおふさが寺の土塀が続く道で軽く会釈をして擦れ違うシーンがある。。。この場面は京都の妙心寺でロケされたのだけれど、実に美しいシーンです。。。このシーンが岸井左馬之助の胸の内にあるから、いつまでもおふさを想い続けながら独身でいられた。。。しかし、今の時代では、そういう事はまず無理ですねぇ~。。。

あらっ。。。無理ですか?

無理です。。。じゃあ、僕の思い出の話を聞いてください。。。

 


ん? クラシックで片思い?


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そうなんですよね。
僕は多分、恵美子さんに片思いしていたと思うんですよ。


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中学校に入学して間もなくだった頃だと思いますが、
全校生徒が体育館に集まった時に
同学年の恵美子さんが“乙女の祈り”をピアノで独奏したのです。



僕はその時初めてこの曲を聴いたのですが、すばらしいと思いました。
感動しました。

曲も良かったけれど、あの恵美子さんが弾いたのだという事も感動的でした。
この恵美子さんは小学校のとき6年間隣のクラスに居た可愛い女の子だったのです。

よく目にした事はあっても口をきいたことが一度もなかったのです。
初恋の人ではなかったのですが、僕の気に入った女の子でした。
遠くから見ていて、可愛い女の子だなぁ~と思っていたのです。

小学校ではクラス替えがなくて6年間同じメンバーだったのですが、
中学校では学年毎にクラス替えがあったので、この恵美子さんと同じクラスになる事を期待していたのです。

しかし、とうとう同じクラスになる事はありませんでした。
(こういう思い通りにならない事って、人生にはずいぶんとあるものですよね?)

とにかく、僕が気に入っていた“乙女”が弾いた“乙女の祈り”が忘れられなくて、僕はどうしてもこの曲が弾きたくなった。
大学に入学して下宿から通うようになった頃、下宿にピアノがあったので楽譜を買ってきて、独習で弾き始めたのです。

とにかく、一生懸命に独習したので、何とか全曲を弾けるようになったのです。
自分では結構マシに弾けると思ったので、ぜひ恵美子さんに聞いてもらいたいなぁ~と思い始めたんですよ。


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そう思ったら、何が何でも恵美子さんに聞いてもらいたいと思うようになった。
それで、夏休みに帰省した時に思いきって恵美子さんに電話したのです。

当時、恵美子さんは音楽大学に通っていました。
恵美子さんはビックリするだろうと思ったのですが、極めて落ち着いて冷静に受け答えしていたので僕のほうがその落ち着き方に内心ビックリしたほどでした。


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これまでに一度も言葉を交わしたことのない女性に初めて電話して僕のピアノの演奏を聞いて欲しいと言ったのですからね。
もちろん、どうしてそういう気持ちになったのか、かいつまんで説明しましたが、
今から思うと“すっご~い心臓”を持っていたものだと、自分ながら呆れる思いです。

その後、恵美子さんがコンサートピアニストになったのかどうか、僕は、もうぷっつり連絡していないから全く分からないのです。
僕は社会人になると間もなく海外へ出てゆきましたから。。。

当時、彼女の家にはグランドピアノがあって、その頃でもピアノ教室が別棟にあって、そこで子供たちに教えていました。
とにかく、恵美子さんに会ったのは前にも後にもそれっきりなんですよね。
電話した事もなければ、手紙を書いたこともない。
本当にその時会ったのが初めで最後!

まず、このように書いても誰も信用してくれないと思いますが、これは実話です。
恵美子さんの名前は本名です。
僕の生まれは行田市です。

もしかして、この記事を恵美子さんが読む事があれば、すぐに僕が誰かと言う事が分かるはずです。
もちろん、僕は恵美子さんにまた会いたくなったから、と言うのでこの記事を書いているわけではありませんよ。

小学生のときに芽生えた“乙女”に対する思いが僕の“乙女の祈り”の演奏を聴いてもらう事によって完結した。
言ってみれば、そのような儚(はかな)くも淡い“恋”ではなかったのか?

もちろん、それは“片思い”にすぎなかったのだけれども、僕はその片思いをあのような形で完結したのだと。。。
今から思い返すと、そう思えるのです。

しかし、ずいぶんと下手くそで間違った演奏を聞かせたものだと、気恥ずかしくなりますよ。
この記事を恵美子さんがもし読む事があったら、夢のような馬鹿ばかしい思い出として、苦笑しながら思い出すことでしょう?

お恥ずかしい事ですが、クラシックだと言われている“乙女の祈り”を誰が作曲したのか?
この記事を書くまで知らなかったという“おまけ”までがついていますよ。うへへへへ。。。。
ついさっき調べたら次のような事が分かりました。

 



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1856年作曲

乙女の祈り (La prière d'une vierge)

テクラ・バダルジェフスカ (Tekla Badarzewska)

(1834年1月1日~1861年9月29日)

生誕地:ワルシャワ、 ポーランド


 

なんと、この人物は27歳で亡くなっているんですよね。
冥福を祈りたいですね。

とにかく、この人物が“乙女の祈り”を作らなかったら、僕は恵美子さんに会うことはなかったんですよ。

小学生の時に、恵美子さんのことを可愛い女の子だなぁ~と思っていただけで、一生会って言葉を交わす事はなかったはずです。

クラシックの“威力”なのでしょうか???

実は、この片思いの事は6月13日に書いた記事の一部です。全文はもっと長いのですよ。
興味があったら次のリンクをクリックして読んでみてくださいね。
クラシックに限らず音楽好きの人なら面白く読めると思います。

『ん? クラシック興味ある?』

Realogで書いた、この記事に対してRealogのメンバーの藤守美愛さんから次のようなコメントをもらいました。
ありがとね。 (デンマン注: 残念ながら、Realogは閉鎖・消滅しました。)

 



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初です☆
クラシック好きなので、
タイトルに釣られて来てしまいました。
コントラバスしてたんですか?
私はペットとパーカッション&ドラムしてました(^O^)

乙女の祈りはエレクトーンで弾いたので懐かしい~
独学でピアノは大変ですよね。
とても素敵な想い出だと思います=^▽^=

 

by 藤守美愛 2006/06/14 03:45





『ん? クラシックで片思い?』より
(2006年6月19日)


 



あらっ。。。これってぇ~、デンマンさんが夢を見たのではありませんか?



いや。。。夢の話ではありません。。。現実に起こったことです。。。

。。。で、もしデンマンさんが岸井左馬之助だったら、どうしますか? 桜屋敷を1週間に1度外から眺め、おふささんを想い出しながら、一生を独身で過ごせますかァ~?

いや。。。僕なら、おふささんを追って遠島で流された八丈島まで舟をこいで会いにゆきます。。。

でも、その当時に生まれていたら、絶対にできませんわァ~。。。

いや。。。できます。。。なぜなら、江戸時代に生まれ育った、上杉鷹山が次のように言いました。。。

 




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為せば成る為さねば成らぬ何事も

成らぬは人の為さぬなりけり



 



そういうわけで、デンマンさんは危険を冒して密航してカナダまでジューンさんに会いにいったのですか?



そうです。。。為せば成るのです。。。



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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

言っておきますが、デンマンさんは、わたしに会いにカナダにやって来たわけではありません。。。

日本が嫌になったからやって来たのですわ。。。 うふふふふふふ。。。

日本が嫌になっても海外に出てゆく勇気がないと

その不満がたまって神武君のようにセクハラコメントを書いたり、

白衣を着て女の子のお尻にクサビを打ち込んだりするのですわァ。

 


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『セクハラ止めない神武君』


 

ええっ。。。 「そんなことは どうでもいいから、他に何か面白いことを話せ!」

あなたは、そのように わたしにご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわ。。。

じゃあ、ホログラムを使った面白い動画をお見せしますわァ〜。。。

 



 

「面白いけれど、それだけじゃつまらん。他に何か面白いことを話せ!」

貴方が 更に そう言うのでしたら、ワンワンちゃんの面白い動画をお目にかけますわ。。。

ワンワンちゃんが人間の言葉をしゃべります!

 


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ええっ。。。? 「そんな馬鹿バカしい動画など、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

あなたなは、また そのような命令口調で わたしに強要するのですか?

わかりましたわァ。。。

では、たまには日本の歴史の話も読んでみてくださいなァ。

日本の古代史にも、興味深い不思議な、面白いお話がありますわァ。

次の記事から興味があるものをお読みくださいねぇ~。。。


天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。


天智天皇は暗殺された

定慧出生の秘密

藤原鎌足と長男・定慧

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?



ところで、他にも面白い記事がたくさんあります。

興味のある方は次の記事も読んでみてくださいね。

 


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『後家殺し』

『奇想天外』

『下女のまめは納豆』

『オペラミニ』

『三角パンツ』

『サリーの快楽』

『ラーメン@ゲブゼ市』

『安心できない@病院』

『ブルマー姿@自転車』

『女性の性欲研究』

『頭のいい馬』


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『トランプ@マラウイ』

『きれじ』

『コッペパン』

『くだらない話』

『大蛇が破裂』

『グルーヴ』

『タスマニアデビル』

『女と反戦』

『裸女に魅せられ』

『素敵な人を探して』

『カクセンケイ』

『博士の異常な愛情』


(teacher9.jpg)

『パレートの法則』

『こんにちわ@ブリュッセル』

『いないいないばあ』

『食べないご馳走』

『10分間に900件を越すアクセス』

『5分間に340件のアクセス』

『縦横社会』

『村上春樹を読む』

『パクリボット』

『露出狂時代』

『露出狂と反戦』

『オナラとサヴァン症候群』

『検疫の語源』

『共産党ウィルス』

『馬が合う』


(ken203h.jpg)

『オックスフォードの奇人』

『風馬牛』

『未亡人の苦悶』

『群青の石deロマン』

『露出で検索』

『テレポーテーション』

『露出狂』

『第6感』

『大邱の読者』

『無重力の性生活』

『パパは何でも知っている』

『音の力』

『ソフタ』

『くだらない』

『くだらない』

『アルゴー船』

『無重力』

『集団行動』

『ブラック・ダリア猟奇事件』

『殺し屋火山の謎』

『彗星に着陸』

『日本の貧困親子』

『ホログラム』

『ホログラム』

『めでたい動物たち』

『初笑い@動物』



とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


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(spacer.gif+betty5de.gif)
(hiroy2.png+betty5d.gif)
『スパマー HIRO 中野 悪徳業者』

 


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ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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(himiko92.jpg)

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(bagel702.jpg)

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(byebye.gif)

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古代紫

2024-01-15 03:39:57 | 歴史四方山話
 

古代紫

Tyrian purple


 




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岩波の理化学辞典には、 Tyrian Purple は「古代紫」の名称で取り上げられています。
この項には次のように書かれています。



【古代紫】
地中海産の貝
purpura、Murex、Thais 属の
鰓下腺(サイカセン)から分泌される黄色液で、
主な色素成分は、
6.6’-ジブロモインディゴ C16 H8 O2 N2 Br2。

これで繊維を染めて空気にさらすと、
紫に近い深紅色に変わる。
ギリシャ・ローマ時代における
貴重な紫色素で高価であった。

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ところで僕が日常使っている三省堂の国語辞典には次のように出ています。





【古代紫】

多少灰色がかった紫。

江戸紫よりも黒味を帯びている。 


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僕の頭の中では「古代紫」というのはTyrian purpleのことなんですが、国語辞典の定義にある「古代紫」とは全く違っているようですよね。
Tyrian purpleと言う色は理化学辞典で説明されているように「紫に近い深紅色」なんですね。
国語辞典で定義されているような「多少灰色がかった紫。江戸紫よりも黒味を帯びている」色ではありません。


では、Tyrian purpleとはどのような色をしているのかと調べたら、右の絵に書かれている人物が身にまとっている帽子と上着の色がその色なのです。古代紫とも江戸紫とも違い、かなり赤みを帯びています。
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古代紫には人によってかなりの受け止め方に違いがあるようです。
むしろ「貝紫」と言ったほうが的確かもしれません。
貝紫とは磯に住むイボニシやレイシ、アカニシ、センジュガイといったアクキガイ(悪鬼貝)科の巻貝(murex)から取れる染料のことです。

この貝が持つ鰓下腺(通称パープル腺)から分泌される乳白色~淡黄色の液は、太陽の光にあたると酸化されて紫色に変化する性質があります。
この分泌液は6.6ジブロムインディゴと呼ばれる色素の1種が還元された状態で貯蔵されているもので、神経を麻痺させる作用があるため、他の魚貝類を攻撃する武器になると共に産卵期には卵殻の中に注入して、卵が他の生物に食われないようにする役目も果たしています。

アクキガイ科の貝の中には食用になるものもあり、大昔から海辺の人々によって採捕されて来ましたが、殻を割って料理する際、内臓が手や衣服に付着して紫色に変化するのを見て、染色に利用することを思いついたのでしょう。

この貝から取れる染料に基づいた染色法は地中海沿岸の古代フェニキアで行われ、それがギリシャ・ローマ時代に受け継がれていったものです。
これで染めた衣服を着られるのは王候貴族に限られていました。
歴史書によると、貝紫は1gの染料を取るために二千個もの貝を必要としたとあります。
ちょっとオーバーじゃないかと思うのですが、とにかく希少価値であったことには違いないようです。
そのようなわけで極めて高価な色として珍重されました。

ちなみに1万個の貝から1gと書いてあるウェブページがありました。
二千個でもオーバーだと思ったのですが、1万個はさらにオーバーじゃないかと思いますね。
でも、それ程わずかしか取れないということは、このような記述から確かなようです。

Tyrian purpleとは“Tyre(ティルス)で貝から取れた紫”ということです。
このTyreというのは古代のフェニキアの都市です。
現在は es-Sur と呼ばれるレバノンにある小さな村です。


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このフェニキア人は、紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃にティルス、シドン、ビュブロスなどの都市国家を形成して海上交易に乗り出し、のちにはカルタゴなどの海外植民地を建設して地中海沿岸の広い地域に渡って活躍しました。

フェニキア人は系統的には様々な民族と混ざって形成された民族です。
彼らはアフロ・アジア語族セム語派に属するフェニキア語を話し、言語的に見ればカナン人の系統に属する民族です。

彼らが自分たちの言葉を書き表すために発明したフェニキア文字は、ギリシャ文字・アラム文字・アラビア文字・ヘブライ文字など、ヨーロッパ・西アジアの多くの言語で用いられる文字の起源になりました。
もちろん、英語のアルファベットもこの系統です。

貝紫はこの古代フェニキア人が最初に染料として用いたことになっていますが、歴史研究者の中には、その起源はもっと古くクレタ文明(ミノス文明とも呼ばれます)でも使われていたとする人たちも居ます。
レウケー(Leuke)と呼ばれる小さな島が、上の地図で示したようにクレタ本島の南東にありますが、この小島には初期のクレタ文明(紀元前3000-2200年)の頃に貝紫が取引されていたという記録が残っています。紀元4世紀までは人が住んでいましたが、現在は無人島です。

個人的には僕は貝紫の起源はクレタ文明だと思いますね。
なぜなら、この文明は男も女も身だしなみに、ことのほか気を使ったのです。
考古学者のアーサー・エヴァンズはクノッソスで発掘調査した時に次に示すフレスコ画を見つけました。
これを見た彼は“可愛いパリジェンヌ”と言って驚いたという話が伝わっていますが、確かにナウい感じがしませんか?


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“Ladies in Blue” fresco from Knossos, 16th century BC.

この3人のクレタ女性はお祭りでなにやら愉快に話しをしています。
当時上流社会で流行していた胸を見せる短い胴着(bolero)を身に着けています。
当時も細いウエストが好まれたそうです。この胴着の肩当を見てください。
これは貝紫で染めてあると思いませんか?ちょっと色が茶色っぽく変色していますが、これが描かれた時にはもっと赤みを帯びていたのではないでしょうか?


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ヘアスタイルといい現代風なスカートといいセックスアピールする胴着といい、もしクレタ島の“パリジェンヌ”と19世紀のパリジェンヌが次に示すように町の通りを歩いていたら、19世紀の女性はダサいと思われてしまうのではないでしょうか?
我々の眼にはフープ・スカートは明らかに時代遅れと映りますよね。

 
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“どちらの女性と喫茶店に入って話がしたいですか?”と問われれば、僕はおそらくクレタ島の女性に声をかけるでしょう。
バルキーなスカートをはいた女性は、やはりダサいですよ。クレタ島の女性の方がモダンな感じがしませんか?19世紀の女性のように、こんな幅広のスカートをはいて喫茶店に入ったら、周りの人が迷惑するでしょうね。(笑)

19世紀の女性と比較するのでは、時代が違いすぎるので、同じ時代のエジプトの女性と比べてみたいと思います。
次の絵の中の女性たちは今から3500年から3000年前の服装をしています。
上のクレタ島の“パリジェンヌ”とほぼ同じ時代です。


(egyptgals.jpg)

一目見ただけでも、エジプトの女性の方がシンプルですよね。というか、言葉は悪いですが“土人スタイル”ですよね。
パリジェンヌよりも原始的な感じがします。我々の眼には、どう見てもクレタ島の女性の方が現代的な印象を与えます。
そう思いませんか?

いづれにしても、クレタ文明では5000年も前から貝紫が使われていたんです。
その貝紫を抽出していたのがレウケー(Leuke)と呼ばれる小さな島だったわけです。
恐らく、この島からフェニキア商人によって抽出技術がティルスに伝わったのでしょう。

ところで、日本にも古代地中海から伝わったものがあります。
それは古代に中国の絹織物がヨーロッパへと運ばれてた道、シルクロードを通じて運ばれてきました。
奈良の正倉院に収められている楽器を彩る紫の色は古代の日本でも最も高貴な色とされていました。
でも、それは日本独自の考えで紫を選んだわけではありません。
紫を最高級の色とする考えは、地中海でとれる貝紫という染料から始まっているのです。

ところが、貝で染める紫の染料は弥生時代の日本でも使われていたのです。
佐賀県の吉野ヶ里遺跡は弥生時代先期から中期(B.C.3世紀~A.D.1世紀)の古代人の遺跡です。

吉野ヶ里遺跡では弥生中期頃の甕棺墓が多数発掘されています。
その甕棺に葬られていた人骨に付着している織物を分析した結果が報告されています。
その報告によると、布は絹織物で蚕の種類は違っているようですが、日本国内の蚕から得られたものです。またその絹織物の一部に貝紫で染められたと見られるものが残されているのです。

当時、絹織物を身につけることのできた人物は、集落の中でも高い身分の人であったと考えられます。
貝紫染めの織物を身につけることのできた人物は極く限られた人であったでしょう。

ここで問題です。貝紫染めは地中海沿岸だけで行われていたと考えている人が多いようです。
吉野ヶ里遺跡で国産の絹が貝紫染めされていたということは意外な感じがします。
日本でも弥生時代にすでに貝紫染めが行われていたという事実をどのように解釈すればよいのか?
極めて難しい染色がなぜ地中海と、遠く離れた有明海で行われていたのか?
現在のように通信手段の発達した世界ならば、情報はあっと云う間に地球の端から端まで伝えられます。
しかし、今から2000年以上も昔に地球の表と裏で、なぜ同じような染色が行われていたのか?

ところで、この問題に答える前に貝紫染めの染色法をさらに詳しく見てみたいと思います。
貝紫染めの染色法には、直接染色法と還元染色法の2つの方法があります。
ここでは直接染色法を取り上げてみたいと思います。

ビーカー染めの場合だと、染料をそのまま水に溶かすか水に溶かした溶液を使います。
貝紫染めでは、まずビーカー染めの染料となるものを貝から取り出す作業があります。
色素となるのは貝の組織の一部鰓下腺から分泌される液です。鰓下腺は長さ5㎜程度の組織です。
貝を金床の上に置いて金づちで貝を割ります。貝を割って貝の組織をピンセットで取り出し、鰓下腺を探し取り出します。金づちで打つ位置が悪いと鰓下腺をつぶしてしまいます。

慣れて割にうまく取り出せるまでにかなりの時間がかかります。
馴れないと、貝を無駄にすることになります。上で1gの染料を作り出すのに、ある文献では2000個と書いてあり、別の文献では1万個と書いてあるのは、恐らくこの熟練の度合いに関係してくるのだと思います。

黄緑色をした鰓下腺をピンセットで組織から分離して、金網の目をくぐらせて手早くすりつぶします。
それに貝の分泌液や水を加えてペースト状に伸ばします。この液が目的の色素を含む液です。
この時の色は黄色から黄緑色でまだ完全な色素ではなく、色素前駆体と呼ばれるものです。
この液体を布か糸に浸して染色するのですが、この液体は作業を手早くしないと、空気中で酸化して良い色になりません。つまり、ここでも熟練が要求されます。

もう1つの問題は臭いです。鰓下腺をすりつぶして行くと強烈な臭いを発します。
染色のためには臭いも我慢しなければなりません。発色は日光に当てて行います。
発色は色相が、黄味―緑味―青味―紫(赤紫)へと段階的に変化して行きます。
発色が進んで行くにしたがって悪臭が徐々に消えて行きます。

ここで、手際が悪かったりペースト状に延ばすやり方がまずかったりすると、発色が不均一で緑のまま残った個所が出来たり、完全な赤紫にならない個所ができたりします。
ここでも熟練が要求されます。つまり、この染色法では工芸的な染色はできても、工場規模での大量生産は到底できません。要するに染料そのものが希少価値な上に、染色法がきわめて難しいわけです。

このように手の込んだ、しかも熟練を要する染色法が、地球の裏と表で偶然に発見されると言うことは考えにくいのです。もし“Tyrian purple”と言う流行がなかったら、悪臭を我慢し、面倒で手数のかかる貝紫を採る理由がどこにもありません。もっと簡単な方法で作れる染料で代用することができます。
でも、代用することが出来なかった。なぜなら、貝紫は、その染料が希少価値であるがゆえに“Royal Purple”と呼ばれていたからです。この貝紫で染めた衣服を身に着けることがステータスシンボルだったわけです。
だから、何が何でも貝紫でなければならなかった。

しかし、地中海と有明海の距離をどのように説明すればよいのか?あまりにも隔たりすぎていますよね。
でも、なにも“Tyrian purple”がTyreから伝わって来ると考える必要はありません。
紀元前3世紀までの間に、すぐお隣の朝鮮半島までその“流行”は何百年と言う年月を通して伝わっていたのです。


(silkrd5.jpg)

『なぜ厩戸王子なの?』と題する記事で紺瑠璃杯が遠くペルシャから伝わってきた様子を僕は説明しましたが、ちょうどそれと同じようにしてシルクロードを通して地中海から有明海に伝わってきたのです。そのように考えれば、地中海と有明海の隔たりは説明がつきます。

飛行機もない電話もない、ましてやネットもなかった時代ですが、人間はいつの時代でも情報を交換していたのです。
ただ、現在なら30分もすれば情報が世界を駆け巡りますが、昔はそれが何百年もかかる場合があったというだけの違いです。




この記事は次のページをコピーして編集したものです。

http://www.geocities.jp/barclay705/crete/purple.html




初出: 2005年8月31日


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