デンマンのブログ

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女帝の業(ごう)

2024-01-14 04:01:55 | 歴史四方山話

女帝の業(ごう)

 






防人の歌碑の前に立つ小百合さん

 



投稿日時: 2008/09/22 03:58 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午前11時58分
バンクーバー時間: 9月21日 午後7時58分



防人の歌碑のところまで行って、
新しい道を探して 見つかった時の 新鮮さ。
長男や次男のこと、デンマンさんのことも
忘れて 自分だけのことで 走り回ってました。





■ 『ビバ! 白鳥の湖 (2008年6月15日)』
(防人の歌碑については上の記事を読んでみてね。)



“防人の歌”。。。懐かしいですねぇ~。

そうです。そうです。
あの防人の歌の歌碑も、小百合さんと一緒に見たいものですね。




 

日の暮れに

うすひの山を

越ゆる日は

背なのが袖も

さやに振らしつ


 


(巻第十四 東歌 三四〇二

詠み人知らず)

現代語訳:

日の暮れ時に、碓氷の山の峠を越える日に、我が夫が、別れの時に目につくほどはっきりと袖を振っていたわ。

(峠を越えて去ってゆく夫を慕う妻の心情を詠んでいる。)







 

ひなぐもり

うすひの坂を

越えしだに

妹が恋しく

忘らえぬかも


 


(巻第二十 四四〇七

他田部子磐前 [おさたべの子いわさき])

現代語訳:

ひなくもり(碓氷を導く枕詞)碓氷の坂を越える時は、国へ置いてきた妻のことが恋しくて忘れられない。

(碓氷峠越えの別れの恋歌。)





■ 『夢のホテル (2008年5月8日)』より


 




昭和25年ごろの手書きのマップを見つけ
コピーして 今大切に見てます。
大きくして額に入れようかな~ 

本当に 雲場池のところに ニュー グランドホテル
と書いてあった。 

 


(lodge25.jpg)


(lodge24.jpg)

&nbsp

1度見てみたい 竈岩(かまどいわ)
白人はジャイアントチェアー と呼んでいたらしい。
南のプリンススキー場の裏側なので 見たこと無いです
ごめん ごめん 私の事ばかり


うん、うん、うん。。。

小百合さんの事を、もっともっと書いてくれてもいいよう。




 



私 今月末と思ったら 10月末 よね。
ネットカフェ・コンコルドであわてて デンマンさんの旅程表を見たから勘違いしてました。

あと1ヶ月ですね。





まだ1ヶ月以上ありますよう。
でも、1ヶ月なんてすぐに経ってしまいますからね。

僕は1ヶ月分の記事を用意しなければならないので、
この1ヶ月間は大変です。

 




これ SUBMIT できるかな
何だか お気に入りが減ってるし、マウスはどっか
無くなってるし やりずらいなー

これが 現実の世界ですよ、今日も次男坊と喧嘩がはじまりそうー。

では 今日も洗たく 掃除...
今から始めます。

では、また。。。

小百合より




 



そうですよう。そうですよう。
軽井沢は、小百合さんにとって“今一つの世界”なのですよう。

日常茶飯事から開放されて、小百合さんの“夢とロマンの生活”を軽井沢に求めているのですよう。

つまり、それこそ小百合さんの“女の世界”です。
デンマンの“ロマンポルノ天国”と重なると思うのですよう!
うしししし。。。

行田で元気に再会しましょうね。
“恍惚のハグ”を楽しみにしていますよう!
じゃあね。

 








投稿日時: 2008/09/22 07:16 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午後3時16分
バンクーバー時間: 9月21日 午後11時16分

『帰省スレッド』より
ロンドンの“ビーバーランド e-XOOPS”


 





また、防人の歌でござ~♪~ますか?



そうですよう。防人に狩り出された人たちは苦労したのですよう。苦労どころか、3年こき使われて九州から関東平野まで歩いて帰ってくる途中で、追いはぎや山賊に襲われて亡くなってしまった人もたくさん居たのですよう。

つまり、上の歌は今生(こんじょう)のお別れの歌なのですか?

そうですよう。もう2度と会えないかもしれないと思いながら防人は九州に出かけて行ったのですよう。

。。。んで、大伴家持のおじ様は防人の世話をする役目についていた事があるのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。だから、防人の悲劇をたくさん見たのですよう。

。。。んで、万葉集にも防人の歌をたくさん載せて、大伴のおじ様は当時の政府の非情なやり方を後世に伝えようとしたのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

。。。んで、さらに、持統天皇の陰謀、柿本人麻呂の悲劇までも大伴のおじ様は万葉集の中に書き残そうとしたのでご~♪~ざますか?

そうなのですよう。万葉集をしっかりと読めば、そのような史実がちゃんと書いてあるのですよう。

でも、そのような事をあたくしは学校で教わりませんでしたわ。

それはそうでしょう。万葉集を歴史書だと教える先生は居ないでしょうからね。万葉集は「日本最古の歌集」だと先生は教えますよう。

でも、実は歴史書なのでござ~♪~ますか?

ちょっと次の書評を読んでみてください。クイズを持ち出してきて、全く関係ないじゃないか!。。。そう思わずに面白いから最後まで読んでみてくださいね。

 


欺瞞の根本原理

 



 

上の図を見てください。
O は円の中心、 AB の長さ 14センチ、 BC の長さ33センチという事だけ分かっている。この円の半径は何センチですか。
別にむつかしい計算は要りません。
30秒で答えてください。
もし30秒で答えられなかったら、考えるのをやめて、この小文を終わりまで読んでください。

 (中略)

手元にあったロースン (Clayton Rawson) の長編は Death from a Top Hat (1938)というので、この題名は手品師のシルクハットから兎や鳩が飛び出すように、「死」が飛び出したという意味。ディクスン・カーが褒めるはず、この作はカーの手品趣味をさらにいっそう極端にした徹底的な手品文学である。

 (中略)

その他、この小説にはオカルティズムと手品趣味が充満していて、手品小説愛好者をヘトヘトに堪能させてくれる。結末の種明かしそのものには非常な創意があるとは云えないが、そこまでの道程が面白いのである。カーですら極端だと思っていたのに、そのカーに輪をかけて極端な手品作家に接して、上には上があるものと、ほとんど呆れた次第である。

冒頭に記した謎の図も、マリーニー(主人公探偵)がこの図を描いて警部ともう一人の人物に示し、探偵学の一助とするのである。この図を示されると、誰でも一応は、図の半径 AO の内の AB の長さが分かっているのだから、残りの BO の長さを求めればよいと考える。 ところで、BOC という不等辺直角三角形の底辺 BC の長さは分かっているが、その他に何もデータがないのだから、これだけではどうしても BO の長さを算出する事ができない。これは不可能だ。とてもむつかしいと考える。そう考えたらおしまいである。まんまと手品師の術中に陥ったのである。

そんな考え方をしないで、BC を対角線とする矩形(くけい)を良く見ればよいのである。そして O から発して BC と相交わるもう一つの対角線を描いてみる。すると矩形に置ける二つの対角線の長さは相等しいのだから、O から円周に達する対角線の長さは即ちこの円の半径で、それは BC と同じく33センチなのである。

マリーニー名探偵は云う。
どうだい、答えはちゃんと君の目の前にさらけ出されていたじゃないか。君はそれを見なかったのだ。なぜかというと、AB という余計な太線があり、その長さを14センチと、何か意味ありげに示してあったので、その残りの細線の長ささえ算出すれば半径が分かると、ついその方に気をとられてしまうからだ。この「目くらまし」にかかって、君の論理は脇道にそれ、袋小路(ふくろこうじ)に突き当たってしまった。手品師がハンカチや時計を消して見せるトリックも全くこれと同じなんだよ。左手で何か細工をしようという時には、見物の注意を右手の方に集めるのだ。右手にその品を握っていると思わせるのだ。そして、見物の目が右手に集中されているひまに、易々(やすやす)と左手で物を隠してしまう。見物は全然左手なんか見てやしないんだからね。つまりこの図のAB線は手品師の右手に当たるわけだよ」

名探偵はさらに言う。
「観察力がうまく間違った方向に導かれると、どんな利巧な見物でもごまかされてしまう。これが欺瞞の根本原理だ。この原理は手品師ばかりではなく、賢い犯罪者と、それから探偵作家が常に用いている。だから、これさえ飲み込んでいれば、君は手品や犯罪や探偵小説に欺かれる心配はないわけだよ」




785-789ページ
江戸川乱歩全集 第30巻 「わが夢と真実」
光文社文庫 2005年6月20日 初版1刷発行




『愛と心の構造 (2008年9月28日)』より


 



このクイズが万葉集と大伴家持おじ様に関係あるのでござ~♪~ますか?



そうですよう。日本人の多くは万葉集が日本最古の歌集だと長い間、思い込まされてきたから、重要な歴史的事実を見逃してきたのですよう。

つまり、万葉集が“歌集”だと言うのは「目くらまし」なのでござ~♪~ますか?

そうですよう。そのようにしない限り、つまり、歌集として世に出さない限り、後世の我々に持統天皇の陰謀や柿本人麻呂の悲劇を伝える事ができなかったのですよう。

要するに、当時の藤原政権は、大伴家持のおじ様にまんまと騙されてしまったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。“愛の歌、恋の歌がたくさん集められている女・子供が読むための歌集でございます”。。。このように言って、時の政府の文書検閲官を騙して出版したのですよう。

でも、実は歌で綴られた歴史書なのでござ~♪~ますか?

大伴家持は、そのつもりで編集したのですよう。万葉集の中には、名前が伏せてあるものや“読み人知らず”になっている歌がたくさんあるけれど、すでに見てきたように1073番の歌も柿本人麻呂が詠んだに違いない、と僕は見ているのですよう。

 




 

玉垂(たまだれ)の

小簾(をす)の間(ま)通し

ひとり居て

見る験(しるし)なき

夕月夜かも





詠み人知らず

万葉集 巻第七・1073


 



このような素晴しい月夜の晩に、

一人で簾の隙間から月を見ているが

ああ~、愛(いと)しいあの人は、

もうこの世の人ではない。

あのように儚(はかな)く

逝(い)ってしまうのであれば、

もう少し足しげく通って、

優しい言葉をかけてあげたかった。

でも、そうできない事情が

あったのだ。


今更嘆いたとて、どうなるものでもないが。。。

それでも、あの人を思い出すと

慟哭せずには居られない。

 







『万葉集の謎 (2008年9月23日)』より


 



分かりましたわ。。。んで、まだ他にも柿本人麻呂のおじ様が詠んだ歌で“名無し”として載せられている歌があるのでござ~♪~ますか?



ありますよう。次の長歌も柿本人麻呂が詠んだのですよう。『万葉集』の第一巻に「藤原宮御宇天皇代」の歌として載っているのですよう。

でも、それは「藤原宮の役民の作れる歌」と書いてありますわ。

それで、多くの人は騙されてしまったのですよう。

これも「目くらまし」でござ~♪~ますか?

そうですよう。とにかく、その長歌を読んでみてください。

 




 

やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子

あらたへの 藤原が上に 食国を 見し給はむと

都宮は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに

天地も 寄りてありこそ 磐走り 淡路の国の

衣手の 田上山の 真木さく 檜のつまでを

もののふの 八十氏川に 玉藻なす

浮べ流せれ そを取ると 騒く御民も 家忘れ

身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きゐて わが作る

日の御門に 知らぬ国 寄り巨勢道より わが国は

常世にならむ 図負へる 神しき亀も 新代と

いづみの河に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず

いかだに作り のぼすらむ 勤はく見れば 神ながらならし




万葉集 巻第一・50


 



持統八(694)年12月6日に都を藤原宮に移したのですよう。高市皇子が死去する2年前です。この長歌は、この藤原宮で働いている役人が詠んだ歌だと書いてある。



でも、柿本のおじ様が詠んだのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。僕一人だけが、そう信じているわけじゃないのですよう。多くの古典研究者や歴史研究者がこの長歌は人麻呂が詠んだ長歌に違いないと考えているのですよう。

この長歌は、当時の天皇・持統女帝に献呈された歌だと、あたくしは教わりましたわ。

学校の教科書には、そのように書いてあるのですよう。

でも、違うのでござ~♪~ますか?

もし、人麻呂が持統天皇のために詠(うた)ったのであれば、名前を出しても良いのですよう。

なぜ、柿本のおじ様の名前を出さなかったのでござ~♪~ますか?

なぜなら、人麻呂は持統天皇ではなく高市天皇のために詠(よ)んだからですよう。

しかし、高市天皇なんて日本史では認められていませんわ。

その通りですよう。持統天皇に暗殺されてしまったのだから。。。

まさか。。。?

それが僕の言う悲劇なのですよう。

しかし。。。しかし。。。そのような事は、あたくし、日本史で勉強しませんでしたわ。

だから、この史的事実は隠されてきたのですよう。それで、上の長歌も人麻呂が詠んだのだけれど、“藤原宮で働いている役人が詠んだ”と万葉集に書いたのですよう。

なぜでござ~♪~ますか。。。?

そのようにすれば、本当の真実を後世の人が分かってくれるだろうと考えて大伴家持は、そのように書いたのですよう。真実を書いたら、大伴家持の首が飛んでしまうから。。。

そうでしょうか?

だって、そうでしょう?上のような長歌を藤原宮で働いている役人が詠んだのですよう。本当に持統天皇のために詠んだものであれば、詠んだ人の名前を伏せる必要はないのですよう。しかし、その人の名前が書かれていない。不自然ですよう。これは臭い!。。。何か隠されているに違いない。。。僕はそう思いましたよう。

でも、ただそれだけでは、あたくし、納得できませんわ。

だったら、卑弥子さんが納得できるように、もっと詳しく説明しますよう。まず、ジューンさんが書いた次の文章を読んでみてください。

 


ある少女の悲劇

 



 

こんにちは。ジューンです。

今日は興味深い歴史のお話をします。

乙巳の変(いっしのへん)から

4年後の649年3月の事です。

当時、右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂が

謀反を企てていると、石川麻呂の弟の日向が

中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりでした。

石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして

助けを求めたのですけれど、

聞き入れてもらえなかったのです。

中大兄皇子と石川麻呂は

政治的に意見が対立していたので

中大兄皇子はさっそく兵を

石川麻呂の邸宅に向かわせたのです。

危険を察した石川麻呂は

飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていました。

しかし、その山田寺もやがて包囲され、

石川麻呂は観念して妻と共に自害したのです。

しかし、事件はそれだけではすみませんでした。

やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った

遠智娘(おちのいらつめ)は

半狂乱の状態になってしまったのです。

無実の罪を着せられて、夫に父親を殺された。

そう思い込んでいる遠智娘は、

身重な体を抱えながら

心が晴れないままに日を送ったのでした。

“父親殺害者”の子を宿していたのです。

その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”

そう言って満4才の女児に言い残して

20代半ばの短い人生に終わりを告げて

遠智娘は命を絶ってしまったのでした。

後に、中大兄皇子は

義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、

死に追いやった事を後悔したそうです。

ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。

男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べば

それが結婚となり夫婦になるわけです。

男はその家にとどまることなく

自由に女の家を出て自分の家に帰り、

女は男のまたの訪問を待ちます。

子供が生まれればその子は妻の家で養育し、

父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。

その子供の養育費はすべて女性任せで、

子供は女性の実家で養育される事になります。

当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、

母方の祖父母への愛着が深くなります。

優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、

そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。

満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、

やがて自分の父親が祖父母と母の三人を

“殺した”と知ることになります。

可愛がってくれていた3人が死んでしまった。

しかも、父親の陰謀がその背景にあったのです。

その衝撃はトラウマになって、

その後の童女の人格形成に大きな影響を与えた事は

想像に難(かた)くありません。

その時の4才の女児こそ、後の持統天皇になる

讚良(さらら)皇女だったのです。

ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。


 








『女帝の憎悪 (2008年9月25日)』より


 



つまり、持統天皇は少女の頃に大変つらい思いをしてきたと。。。その事をデンマンさんは強調したいのでござ~♪~ますわね?



そうですよう。“血塗られた家系”という言葉があるけれど、この言葉は、まさに持統天皇のためにあるような言葉なのですよう。

それ程、血塗られているのでしょうか?

だって、そうでしょう?持統女帝の父親である中大兄皇子は乙巳の変(いっしのへん)では蘇我入鹿を殺しているのですよう.

 



 


板蓋宮(いたぶきのみや)における

暗殺の場


 

太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)、弓を手にしているのが中臣鎌足。
蘇我入鹿の首が飛んで御簾(みす)に喰らい付いている。

何食わぬ顔で、かぐや姫のように奥で澄まし込んでいるのが中大兄皇子の実の母親である、当時の皇極天皇(女帝)です。

蘇我入鹿と女帝は、男女の関係で結ばれていたのではないかと信じている歴史家もかなり居ます。
蘇我入鹿は女帝が助けてくれると思っていたのに助けてくれないので、
“この尼!”と追いかけるようにして首だけが御簾に喰らいついている、という怨念の込められた絵です。
ただし、これは江戸時代に描かれたもの。




■ 『藤原鎌足と六韜 (2003年7月17日)』より


 



確かにこれは、すごい事でござ~♪~ますわね。。。これだけでござ~♪~ますか?



まだありますよう。大津皇子を死に追いやったのも持統天皇ですよう。それで、持統天皇は次のような歌を詠んでいるのですよう。

 




 

春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山


 



あの有名な歌でござ~♪~ますわね。



そうですよ。これを文字通りに解釈したら全く平凡で、つまらない歌ですよ。“もうすぐ夏になるのだなあああぁ~、香具山のふもとで農民が白妙を干しているから。。。” 初めてこの歌を読んだ時、僕はこの歌の素晴しさが全く分かりませんでしたよ。一体、何のために大伴家持は、この歌を『万葉集』に載せたのか?

今のデンマンさんには、大伴家持が上の持統天皇の歌を『万葉集』に載せた理由が分かるのですか?

分かります。上の歌は次のように解釈する事ができるのですよ。

 


春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が

干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。

 



 

大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、

共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって私を憎んで

いるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。




『愛と陰謀 (2008年2月27日)』より


 



上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだのです。

 



 



この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるのですよ。この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。



デンマンさんも、そう考えているのでござ~♪~ますか?

そうです。持統天皇は自分の子供、草壁皇子を天皇にしたかった。血のつながりがある甥の大津皇子が邪魔だったのですよう。結果として大津皇子の妻、持統天皇にとっては腹違いの妹も死に追いやったわけですよう。

それで、なぜ、持統天皇は上のような歌を詠んだのでござ~♪~ますか?

この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。“怨霊の崇り”ということが現在で言えば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖い事として考えられていた。持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので大津皇子の怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだのですよう。

つまり、持統天皇は自分の血がつながったものだけを天皇にしたかったのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。それは持統天皇にとって、悲劇的に死んでしまった亡き母親や、おじいちゃんや、おばちゃんの供養のためだったのでしょうね。

それ程、持統天皇は自分の血筋に、こだわっていたのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。持統天皇が藤原不比等と組んでやった事を見ると、その事が実に良く分かるのですよう。すでに、その事を僕は記事に書いたので、ここに引用します。

 


女の意地と執念

 



 

天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依しました。
いわば、現代流に言うならば、極めて人間的な人だったと僕は思いますよ。
つまり、藤原4兄弟などの策謀が渦巻く中で、政治に嫌気がさしていたと思いますね。
“長屋王の崇り”も、“藤原氏の一員”として充分に感じていたでしょうね。

聖武天皇は741年には国分寺建立の詔を出します。
743年10月には、東大寺大仏の建立の詔を出しています。
また、度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。
このような聖武天皇の行動を見ると、意志の弱さが見えますよね。優柔不断です。

また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切りました。
結局、聖武天皇は政治に見切りを付けていたのですよね。
それで、出家したのでしょう。
その気持ちが分かるような気がします。

それに引き換え女性たちの意志の強さは驚くばかりです。
特に持統天皇の強烈な執着と執念が目を見張らせます。

 



 

持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。
この人のもとの名は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
三千代は持統天皇がまだ天皇になる以前に彼女の女官として仕えていたのです。
持統天皇の孫の軽皇子(かるのみこ)の乳母(めのと)だった人です。
三千代は皇族の美努王(みのおう)と結婚して3人の子供をもうけています。
早くから女官として内裏に仕え、持統天皇の信頼を得ています。

藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。
この関係で橘三千代と知り合い、持統天皇の皇統を守る同志として二人の絆が生まれたのです。
三千代は美努王(みのおう)と離婚していますが、すでに二人は三千代の離婚以前から深い関係になっていたようです。

 



 

美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。
この年の暮れには藤原京への遷都があり、新都の華やいだ雰囲気の中で藤原不比等と三千代の不倫関係が深まってゆきました。

藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。
ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足です。つまり、五百重娘は不比等の異母妹でした。

『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。
石上乙麻呂(おとまろ)は土佐国に流され、久米連若売は下総国に流刑になります。

藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。
ところが、何の罰も受けていません。

橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。
持統天皇のそばに仕えて厚い信任を得ていたので、その立場を利用して不比等の出世のために持統天皇へのとりなしに動いたようです。
このようなことを考えても、橘三千代が只者ではないと言うことが分かります。

感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。
深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ、橘三千代は三つ巴で持統皇統を継続させてゆきます。
女の意地と執念を感じさせますよね。




『日本女性の愛と情念の原点』より
 (2006年5月30日)


 



これだけ女帝がたくさん出てきたのは、なぜだと思いますか?



持統天皇の血を分けたものだけを天皇にするためでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

。。。んで、天皇になった高市皇子を暗殺したのですか?

そうですよう。

でも、高市皇子は、持統女帝の夫である天武天皇の子供ですわ。

しかし、持統女帝の産んだ子供ではないのですよう。彼女の血は一滴も高市皇子には流れていないのです。

要するに、高市皇子は持統天皇の意地と執念にとって邪魔者でしかなかったのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。上の系図を見れば、その事が実に良く分かるのですよう。

しかし。。。、しかし。。。、証拠が。。。?

その証拠が出てきたのですよう。

まさか。。。?

マジで出て来たのですよう。
 
どのような証拠でござ~♪~ますか?

1988(昭和63)年8月下旬、北宮、通称「長屋王邸宅」と呼ばれていた場所の地下2メートルのところで1条の溝が発掘されたのですよう。

何が出てきたのでござ~♪~ますか?

合計4万点にものぼる木簡が出て来たのですよう。その中に高市皇子の長男である長屋王の名が「長屋親王」と書かれた木簡があった。

「親王」というのは、確か天皇の男の子か孫でござ~♪~ますよね。

そうですよう。つまり、この木簡に従えば長屋王は“高市天皇”の長男だったのですよう。上の柿本人麻呂が詠んだ長歌は持統天皇のために詠んだものではないのです。高市天皇のために詠んだのです。だから、“日の皇子”になっている。つまり、皇子とは男です。

それが正しいとして、柿本人麻呂はどのように関わっていたのでござ~♪~ますか?

持統天皇があれほど目をかけてやって出世できたというのに、事もあろうに柿本人麻呂は高市天皇になびいてしまったのですよう。それで、持統天皇の手が伸びて高市天皇が暗殺されたあと、人麻呂は石見国に左遷された。そこで、失意のうちに人麻呂は亡くなったのですよう。

どうして失意のうちに亡くなったと分かるのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、卑弥子さんも天神様を知っているでしょう?

もちろん知っておりますわ。菅原道真を祭(まつ)った神社でござ~♪~ますわ。

どうして菅原道真は祭られたのですか?

だってぇ~、道真は何も悪い事をしていないのに、告げ口によって。。。つまり、陰謀によって左遷されてしまったからですわ。

人麻呂も同じ事ですよう。「人麻呂」は転じて「人丸」とも言われるようになったけれど、そこから「火止ル」になったり「人生マル」になったりして、火難防除や安産、疫病防除のための語呂合わせともなり、その後「人麻呂信仰」になったのですよう。つまり、その当時、知っている人は知っていたのです。柿本人麻呂が持統天皇に睨(にら)まれて不遇な身になった事を。。。

つまり、人麻呂さんは何も悪い事をしていないのに、高市皇子になびいてしまったので、持統天皇に恨まれたのでござ~♪~ますか?

そうですよう。持統天皇は執念深いのですよう。“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”。。。それで、人麻呂は持統天皇にトコトン疎(うと)まれた。でも、知っている人は知っていたのです。だから、人麻呂の人徳をたたえて、石見には柿本神社や人丸神社がたくさん建っているのですよう。その事を考えれば、人麻呂が悲劇の死を迎えたのも実に良く分かるのですよう。



【卑弥子の独り言】



 

ですってぇ~。。。
いつものように、デンマンさんは、あちらから、こちらから、いろいろな資料を持ち出してきましたけれど、
なんとなく理屈に丸め込まれてしまったような気がするのでござ~♪~ますわ。
あなたは、どう思いましたか?

とにかく、あさって、まだ面白いお話が続くと思います。
あなたも、どうか、読みに戻って来てくださいましね。
じゃあ、また。。。






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こんにちは。ジューンです。

神社を英語に訳すと

“shrine”ですよね。

でも、英語と日本語の大きな違いがあります。

日本では、神社がやたらに多いのですよね。

デンマンさんの上の記事にも出てきましたけれど、

天神様

柿本神社

でも、まだまだたくさんあります。

東郷神社

乃木神社

秋葉神社

浅間神社

小国神社

。。。

アメリカでもカナダでも、shrineを探そうと思うと、

まず身近にはありません。

ところが、日本に行くと、神社は一つの町だけでも

10以上簡単に見つけることができます。

日本って、本当に神社の多い国だと思いました。



ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。







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超古代文明

2024-01-14 02:56:04 | ミステリー


 

超古代文明

 


(chobunmei10.jpg)


(chobunmei11.jpg)


(atlantis3pg)


(sylvie500.jpg)




(sylviex.jpg)

ケイトー。。。どういうわけで ずい分前に起こった 超古代文明 を取り上げるのォ~?


(kato3.gif)

実は、ネットサーフィンしながら 調べることがあって YouTube のクリップを観ていたら 次のビデオに出くわしたのですよ。。。

 


(chobunmei15.jpg)



 



こういうクリップって、視聴者を増やすために衝撃的なタイトルを貼り出して興味をそそるのよ。。。たいてい根拠も証拠もないマヤカシが多いのよ。。。ウィキペディアにも、こういう話はそのほとんどが論拠が無い、信憑性が浅薄、贋作や捏造などの理由で検証の対象となり得ていない、と書いてあるわァ~。。。

 



超古代文明

 


(atlantis3pg)

 

超古代文明とは、先史時代に存在したとされる、高度に発達した文明のこと。

「超古代文明」は、文字による記録が残されている有史以来の文明(四大文明など)が成立したとされる紀元前4000年頃よりも前(先史時代)に存在したとされる、現代文明よりも高度な文明や、不明な点が多い文明を指す呼称である。

ムーやアトランティスなどの伝承や創作文学などを発端とするものが多い。
これらは20世紀に入ってもなお注目を集めたが、20世紀後半になると航空機・人工衛星や放射年代測定などの各種調査が本格化し、プレートテクトニクス理論や遺伝子研究も登場したことから、学術的に否定され一般的にはオカルトの類と認識されている

これらの文明には、現代文明をしのぐ卓越した技術によって繁栄したが、自らの超技術に溺れて自滅したり、驚異的な天変地異によって消滅したという伝説が付随し、様々な都市伝説や噂が広がり考古学でも議論が続くテーマでもある。

これらはしばしばファンタジーや創作の世界におけるテーマとされ、さらにはその根源を現代の人智を超越する心霊や宇宙人に基づく神秘主義に求めることもある。

物証として遺構や遺物が提示されることもあり、このうち一部はオーパーツなど学術的な検証研究の途上の遺物を含むことがあるものの、そのほとんどが論拠が無い、信憑性が浅薄、贋作や捏造などの理由で検証の対象となり得ていない

にも関わらず、こうした失われた超技術の復活や、未知なものへの憧憬や畏敬は盲信を生じやすいため、しばしばカルトが引用するなどして利用することがある。

 

主な超古代文明

アトランティス
ムー大陸
レムリア
パシフィス大陸
メガラニカ
アガルタ
与那国島海底遺跡




出典: 「超古代文明」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



確かに、論拠が無い、信憑性が浅薄、贋作や捏造などの理由で検証の対象となり得ていないクリップもありますよ。。。でもねぇ~、上のクリップをじっくりと観てゆくと、ちゃんと科学的な根拠があって、超古代文明が5500万年に存在した可能性があることを説明しているのですよ。。。



マジで。。。?

シルヴィーも上のクリップを観たんでしょう?

5500万年に古代文明があったなんて、馬鹿らしくって観なかったわよう。。。

そういう喰わず嫌いはいけませんよ。。。クリップを作った人だって一生懸命に作ったのだから。。。

。。。で、科学的な証拠ってどういうものなのォ~?

ちょっと次のグラフを見てください。。。

 


(chobunmei14.jpg)

 



あのねぇ~。。。5500年前に、グラフで見るように急激に地球の温度が上昇したのですよ。。。これは、二酸化炭素による温室効果が働いたとされているのです。。。

 



暁新世-始新世温暖化極大

PETM (Paleocene–Eocene Thermal Maximum)

 

暁新世-始新世温暖化極大は、数千年あるいはそれ以下の短期間で進行したと推定されている、約5500万年前に起きた急速な全球的温暖化現象
新生代に発生した温暖化現象では史上最大規模のものである。

全地球の平均気温が5℃から9℃上昇したほか、炭素同位体比(δ13C)が大きく低下し、海洋の炭酸塩の溶解による海洋酸性化も発生した。
また、この出来事は霊長類の進化史にも大きく影響したと見られている。

 

原因

原因は、重い13Cに乏しい軽い炭素が大気・海洋に莫大に付加され、二酸化炭素による温室効果が働いたとされている
この二酸化炭素の起源としては以下が考えられている。

1) 海底の表層付近に蓄積していたメタンやエタンの包接水和物の融解

2) 北大西洋の火山活動に伴う有機物の熱分解

3) 海底有機物の酸化

4) 陸上有機物の酸化

5) 彗星の衝突

 

進行

温暖化極大の初期について、二酸化炭素が海水に溶けて海洋の酸性化を起こし、炭酸塩補償深度(CCD)と溶解躍層(リソクライン)が上昇、海底に堆積していた炭酸塩が溶解してさらに温暖化を促進するという、正のフィードバックが生じて温暖化が強化されたと提唱されている。

CCDの上昇は全球的に深海底堆積物の炭酸塩含有量の低下をもたらした。
太平洋や南極海での炭酸塩減少は部分的な程度に留まったが、大西洋やカリブ海ではほぼ完全に堆積が停止した。
CCDは温暖化開始から数千年で上昇し、その後数万年をかけて元の深さに戻ったと推測される。

この炭酸塩の融解により、温暖化極大初期や直前の海底炭酸塩は溶解してしまっており、当時の記録は深海コアに保存されていない。
掘削や生物擾乱の影響も考慮すると、当時の炭酸塩が保存されているのはCCD以浅の浅い遠洋や陸棚堆積盆などのコアに限られる。

南半球高緯度のCCD以浅のコアからは三段階のδ13C値の負シフトが見られ、初期の負シフトほど顕著であることが示された。
この解釈として、大気・海洋への炭素供給が複数回に及んでいる、炭酸塩の主な起源となったナノプランクトンの種の構成比率が変化している、再堆積・生物擾乱・溶解などによる二次的なノイズが入っているなどの主張が提唱されており、2008年時点では最後の仮説が有力視されている。

ニュージャージー州の陸棚堆積物などから得られた単一固体の浮遊性有孔虫から得られたδ13C値は最初期に唯一最大かつ急激な負シフトを示しており、地質学的にはごく短期間の変動があったことが示唆されている。

 

影響

海洋底掘削で得られた浮遊性有孔虫の殻より得られたホウ素の同位体比から、当時の海洋のpHひいては大気二酸化炭素濃度を推定できる。
それに基づくと、暁新世から始新世の大気二酸化炭素濃度は2000ppmvで、新第三紀中新世以降の濃度である約300ppmvの約6倍であった。

テトラエーテル脂質温度計での測定によると、南極で約4℃、南半球中緯度で約1℃から4℃、北半球中緯度で約5℃から8℃、北極で約5℃の温度上昇が見られている

後期暁新世末には、白亜紀から支配的であったベラスコ型底生有孔虫群集の20 - 40%が絶滅した。
これは陸上の温暖化により降水量が増大し、表層水の塩濃度が低下して密度差が小さくなり、海洋の熱塩循環が停滞したことによるとされる。

なお、地表の温暖化から有孔虫の絶滅までは3000年のタイムラグがあったと指摘されており、これは循環停滞までの時間として合理的である。
温暖化極大後の底生有孔虫は、安定的であったそれまでの環境ではなく、新生代の不安定な海底環境に適応した。

暁新世においてユーラシア大陸と北アメリカ大陸はベーリング陸橋で繋がっていたが、現在よりも7°程度高緯度に位置していたため極めて寒冷な気候であり、ベーリング陸橋を介した動植物の移動は困難であった。

しかし温暖化極大によって全球的に熱帯気候や亜熱帯気候が拡大し、ベーリング陸橋にも亜熱帯の樹木が生育するようになると、陸橋を介した動物の移動が可能となった。この時代にアジアから北アメリカへ進出した動物では、肉歯目や齧歯目の哺乳類が代表的である。

サウスダコタ鉱物技術大学のジョナサン・ブロックによると、繁殖力に長けた齧歯目は霊長目に近縁であるプレシアダピス目と生存競争を繰り広げ、その結果プレシアダピス目は果実や枝を掴みやすい母指対向性の獲得を促進された。




出典: 「超古代文明」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



でも、上のウィキペディアの説明によると、その原因は超古代文明によって化石燃料が燃やされて、それによって二酸化炭素が急激に増えたというようなことは書いてないじゃない。。。。



そういうことを書くと、証拠がないと言われてウィキペディアの編集者から削除されてしまうので書けないのですよ。。。でもねぇ~、上のクリップで見れば分かるように2人の科学者が「国際宇宙生物学雑誌(International Journal of Astrobiology)」に5500万年前に超古代文明があった可能性を示唆する論文を発表したのですよ。。。一人は、NASAゴダード宇宙研究所の気象学者・グイヴィン・シュミット博士。。。もうひとりはアメリカのローチェスター大学の天文学者・アダム・フランク教授なのです。。。

。。。で、その証拠というのは。。。?

地質を調べると、5500万年前の地層に、はっきりと二酸化炭素が急激に増えたことが記録として残っている。。。二酸化炭素の起源として、上のウィキペディアでは5件の原因が考えられると書いてあるけれど、どれもイマイチで確証がない。。。そうであるならば、現在、二酸化炭素の温室効果で地球温暖化を迎えている我々人類と同じような原因も考えられるのではないか?!。。。つまり、超古代文明があったに違いない。。。こういう論文なのですよ。。。

でも、やっぱり確証はないのでしょう?

ない。。。でもねぇ~、我々人類の文明と言っても、せいぜい誇れるのは2000年から3000年というところですよ。。。マジで誇れるのは、産業革命から月に人類が一歩を踏みしめ、インターネットが世界を結んだ最後の200年ですよ。。。ところが、2000年以上前にも、現代の文明の産物か? あるいは、それ以上の文明の利器と思われるようなものが見つかっているのですよ。。。

あらっ。。。そうなのォ~?

ちょっと次のクリップを観てください。。。

 


(chobunmei13.jpg)



 



この上のクリップに出てきた最古のアナログ計算機は、紀元前3世紀から紀元前1世紀中頃の間に製作されたと考えられているのです。。。未開人にはとても作れないものですよ。。。

 




アンティキティラ島の機械

 


(chobunmei13.jpg)

 

アンティキティラ島の機械(アンティキティラとうのきかい、希: Μηχανισμός των Αντικυθήρων, Mechanismos ton Antikythiron)は、アンティキティラ島近海の沈没船から発見された古代ギリシア時代の遺物で、天体運行を計算するため作られた歯車式機械であると推定されている。

 
沈没船の引き揚げ

この機械は1901年に考古学者ヴァレリオス・スタイスによってアンティキティラの沈没船から回収された。
ただし、その複雑さや重要性は何十年もの間気づかれることがなかった。
紀元前3世紀ー紀元前1世紀中ごろの間に製作されたと考えられており、同様な複雑さを持った技術工芸品は、その1000年後まで現れることはなかった。

フランスの海洋学者ジャック=イヴ・クストーは1978年に最後に沈没船を訪れている。
しかし、「アンティキティラ島の機械」の残りの部分を発見するには至らなかった。
アンティキティラ島の機械に関する最新の研究を指導しているカーディフ大学のマイケル・エドマンド教授は「この装置はこの種のものとしては抜きん出ている。
デザインは美しく、天文学から見ても非常に正確に出来ている。

機械の作りにはただ驚嘆させられるばかりだ。これを作った者は恐ろしく丁寧な仕事をした。
歴史的にまた希少価値から見て、私はこの機械はモナ・リザよりも価値があると言わねばならない」としている。

実物はアテネ国立考古学博物館の青銅器時代区画にデレク・デ・ソーラ・プライスによる復元品と共に展示されている。
その他の復元品は米国モンタナ州ボーズマンのアメリカ計算機博物館、マンハッタン子供博物館に収められている。

 
起源

発見場所やすべての使用説明がコイネーで書かれていることなどからギリシャで作られたことはほぼ間違いなく、製作時期は紀元前3世紀ー紀元前1世紀中ごろの間に入るとされる。

構造が非常に精巧であるので、古代の著名な科学者が作成にかかわった可能性がある。
例えば、本機械の製作を、天文学と数学の中心として知られたロドス島と結びつける仮説がある。
当地では天文学者ヒッパルコスが活躍し、またストア哲学者ポセイドニオスにより設立されたアカデミーがあった。

ただし、歯車に書かれた日付から年代が紀元前205年以前(すなわちこれらの人物以前)に遡るともいわれる。
また、2008年6月30日発行の『ネイチャー』で発表されたアンティキティラ島の機械研究プロジェクトの最新の報告では、機械の概念は古代コリントスの植民地に起源をたどることができるとし、アルキメデスとの関係も示唆されている。

この機械が沈没船に載せられた経緯は不明である。
研究者たちによると、沈没した船は当時この機械をユリウス・カエサルによる凱旋式で称えるため、この島から略奪されたその他の財宝と共にローマに運ぶ途中だったのではないかと考えている。

機械の作りが完璧なため、発見されていない試作品や類似の機械の存在が予想される。
多くの歯車が組み合わさっており、最古のアナログ計算機と呼ぶ人もいる。

 
使用目的に関する推測

設計者は天体の位置を計算するために天体運行の理論まで知っている必要はなかった。
バビロンの天体計算式「システムB」が紀元前260年までには考案され、ギリシャに受け継がれていたのである。
当時ごく少数の、太陽と月とその他の天体の運行の基礎が理解できる教育された知識人と、教養のない庶民との間には科学と文化において大きな隔たりがあった。

 
アンティキティラ島の

機械研究プロジェクト


この機械の研究は現在、アンティキティラ島の機械研究プロジェクトにより進められている。
このプロジェクトは、カーディフ大学(M. Edmunds, T. Freeth)、アテネ大学(X. Moussas, Y. Bitsakis)、テッサロニキ大学(J.H. Seiradakis)、アテネ国立考古学博物館、英X-Tek、および米ヒューレット・パッカードが、リバーハルム財団からの資金とギリシャナショナル銀行の支援による共同プログラムである。

海底から引き上げられたオリジナルは壊れやすく、博物館から移動することは出来ないので、ヒューレット・パッカードの研究チームとX-Tekは、測定装置をギリシャまで輸送しなければならなかった。

ヒューレット・パッカードは「PTMドーム」と呼ばれる三次元表面撮影装置を、測定のために機械の周囲に組み上げた。
X-Tekは12トン、450kVのコンピュータ制御微小焦点断層撮影装置を、この研究のために特別開発した。

2005年10月21日にアテネにおいて、アンティキティラ島の機械の新たな部品が発見されたとの発表があった。
現在82個の断片が存在する。

新たな部品のほとんどは静置され、保存処理を待っている状態である。
2006年5月30日、撮影システムにより更なるギリシャ文字の解読が進んだことが発表された。

判読可能な文字は約1,000文字から2,610文字に増えた。
これは現在までに発見された文字の約95%に相当する。

研究チームの発見は、アンティキティラ島の機械の機能と目的に関する疑問に対して、新たな光を投げかけるものとなった。
研究は継続中である。
最初の結果は2006年11月30日と12月1日のアテネでの国際学会で発表された。

 
最近の発見

2006年11月30日学術雑誌ネイチャーは、アンティキティラ島の機械研究プロジェクトによる新たな復元模型の完成を報じた。
この復元は上述した高分解能X線断層撮影に基づいたものである。

この研究により判読可能な文字数は倍増し、以前の解釈は修正され、新たな解読がなされた。
それにより機械は紀元前100年頃のものであるとされた。
機械に刻まれた文には天文学、機械学、地理学の項目に分かれたマニュアルが含まれていることが明白となった。

文中の「ヒスパニア(ギリシア語: ΙΣΠΑΝΙΑ)」はこの呼び名でのイベリア(スペイン)に対する最古の引用文である。
新たな発見により、この機械が天体の位置を予測するためのアナログ天文計算機もしくは太陽系儀であることが裏づけられた。

調査の結果から、この機械は37個の歯車を持ち(30個が現存)、太陽と月の位置を予測するために用いられた、と推測された。
惑星の静止する点(留)に言及している文章があることから、研究者らは惑星運動も表していたかもしれないと考えている。

前面には、太陽と黄道十二星座のための目盛りがあり、太陽と月の位置、月相、そしておそらく惑星の運行を示す針があった。
背面には(2つの中心を持ち半円で構成されている)2つの表示盤があり、さらに2つの重要な天文学上の周期の状態を示していた。

その1つは太陽、月、地球が同じ相対的位置関係になる18年周期、もう1つはより正確な3サロス周期、54年と1日(日食の予測に必須)である。

また別の目盛りがあり、メトン周期(19年、235朔望月)とより正確な約76年の940朔望月の周期であるカリポス周期を示していた。

わずかにずれた軸と溝に入ったピンとで連結された二つの歯車を含む、画期的な歯車群により月の位置と月相が示される。
ヒッパルコスの理論と、角速度に関するケプラーの第二法則の良好な近似に従って月の移動速度は変化し、近地点近くでは速く、遠地点は遅くなる(ケプラーの法則の項を参照)。

2008年7月31日、「ネイチャー」に機械に関する更なる詳細を報告する論文が掲載された。
この論文において、他の様々な発見と共に、この機械には、4分割され、1区画が1年で、全体として4年周期を示す表示盤がある事実が提示された。
この表示盤はそれぞれの年に開催される、2年もしくは4年周期の(古代オリンピックのような)競技祭典を表していると考えられている。

月の名称が読み取れ、それらはコリントスの植民地(また結果的にコリントスと、直接的な証拠があまり残っていないシラクサと以前より推定されている)で使われていたものであった。
研究者たちはこの装置はシラクサ人によりデザインされ、アルキメデスの功績に由来しているのかも知れない、と示唆している。




出典: 「アンティキティラ島の機械」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



つまり、上のクリップで空白の10万年ということを語っていたけれど、確かに9000年前からの人類の発展の歴史を考えると、それ以前の9万年の間、人類が狩猟と食材採集生活だけをしていたというのは、どう見ても不自然に思える。。。

 


(10mannen.jpg)

 



つまり、その9万年の間に古代文明が立ち上がって、核戦争でもして滅びたとでも言うのォ~?



そういう可能性が決してないわけではないのですよ。。。紀元前3世紀から紀元前1世紀中頃の間に最古のアナログ計算機が作られた。。。現在の我々のほとんどは、その計算機を作れと言われても、ごく一部の科学者やエンジニア以外は作れないでしょう!?

つまり、空白の10万年の間に、文明が起こって滅びたとでも言うのォ~?

そうですよ。。。

 


(10mannen2.jpg)

 



実際、それを思わせるような証拠が見つかっているのですよ。。。



つまり、実際に原爆が使われたかもしれないという証拠があるのォ~?

そうなのです。。。ずいぶん前のことだけれど、その当時は無視されたようです。。。読んでみてください。。。

 



Our own culture, if we assume a starting point of 4000 b.c., has progressed from primitive agriculture and herding to nuclear fission in only 6,000 years.

Considering the age of mankind, there has been ample time for other cultures to have arrived at a level roughly corresponding to ours.

A re-examination of some of the ancient records that have come down to us might give some indication of mankind having previously attained our present aptitude for destruction.

While there are hints of great blastings of the earth’s surface in the Bible (Sodom and Gomorrah), the Greek myths, and many of the legends of the Indians of North and South America, it is in the ancient records of India, copied and recopied from prehistoric antiquity, that we find, described in considerable detail, the use and effect of what closely resembles atomic explosions in warfare.

(pp. 223-224)

In the course of an exploratory digging in southern Iraq in 1947, layers of culture were successively cored into what one might call an archaeological mine shaft.

Starting from the present ground level, the excavation passed the ancient city culture levels of Babylonia, Chaldea, and Sumeria, with flood levels between different ages of city culture, then the first village levels, then a level corresponding to that of primitive farmers at a time era of 6000 to 7000 B.C., and below that, indications of a herdsman culture, and finally a time era was reached corresponding to the Magdalenian or cave culture of about 16,000 years ago.

Still farther down, at the bottom of all levels, a floor of fused glass was revealed, similar to nothing else except the desert floor in New Mexico after the blasts which inaugurated our present atomic era.

(pp. 229-230)

 


(bermuda01.jpg)

 

SOURCE:"Bermuda Triangle" By Charles Berlitz
published by Avon Books in 1974




私たちの現在の文明は、紀元前4000年に原始農業から発展したとすれば、わずか6,000年で核分裂を引き起こすまでに進化した。

人類が誕生してからの長い歴史(600万年前~700万年)を考えると、他の(失われた)文明が我々の文明のレベルまで達するのに十分な時間があったわけです。

古代の記録を調べ直してみると、これまでに失われた文明が、我々と同じレベルの科学文明を持ち、自らの文明を破壊するような原爆をもつレベルまで進化したということもあり得るだろうと推測できる。

聖書を読むと、例えば、ソドムとゴモラのエピソードに見るように、地球上に悲惨な破壊をもたらす説話や、ギリシャ神話や南北アメリカの原住民の伝説にも同様な破壊をもたらすエピソードがたくさんあるが、

古代インドの記録にも、それ以前の文明から何度もコピーされた伝説の中に、原爆を伴うような戦争が詳細に語られている。

(229-230ページ)




1947年のイラク南部での地層調査で、地面からかなりの深さまで掘り下げた地層を見ると、文化の層が積み重なっているのがよく見える。

現在の地上レベルから見てゆくと、バビロニア、カルデア、およびシュメリアの古代都市文化の地層が現れる。

都市文化を示す地層の間には、明らかに洪水の跡も見られる。

やがて、最初の村落文化のレベルに達し、その下の層に紀元前6000年から7000年までの原始農民レベルの地層が現れる。

さらに、その下の地層には遊牧民の文化の兆候が見られ、やがて約16,000年前のマグダレニアン文化という洞窟文化に対応する地層に到達する。

その下の地層は最下部の地層となり、溶融ガラスの床が現れる。

その溶融ガラスの床というのは、現在の原子爆弾時代をもたらしたニューメキシコ砂漠での原爆実験場の床と同じものだ。


 



 

(229-230ぺージ)




(デンマン訳: 赤字はデンマンが強調)
SOURCE:"Bermuda Triangle" By Charles Berlitz
published by Avon Books in 1974

『未開人と文明人』にも掲載。
(2020年2月19日)


 



つまり、大昔のイラク南部で核爆発が起こったというわけぇ~?



そういうことです。。。 アトランティス文明とか同世代の古代イラクの文明が、核戦争によって この時に滅亡したのですよ。。。

。。。で、そのあとで洞窟で生活していた現在の人類の祖先が出てきて、メソポタミア文明が出現したと言うのォ~?

そうです。。。 洞窟で暮らしていた我々の祖先とアトランティス文明人は核戦争前に共存していたのですよ。。。 ちょうど、現在、ニューギニアの原住民と我々が共存しているように。。。

でも。。。、ちょっとそれは信じられないわねぇ~。。。

そのうち、確実に信じられるような証拠が出てきますよ。。。




初出: 2022年10月6日



(laugh16.gif)


【ジューンの独り言】


(bare02b.gif)

ですってぇ~。。。

あなたは、アトランティス文明人が核戦争によって滅びたと思いますかァ?

ええっ。。。「そんなことはどうでもいいから、もっと楽しいことを話せ!」

あなたは、そのように強い口調で私にご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

では、シルヴィーさんが出てくる面白い記事のことでも。。。

次の記事の中から面白そうなものを選んで読んでください。

 


(sylvie500.jpg)



『熟女ヌード@デンマン』

『ロッキード事件の真相』

『政府と役人と嘘』

『ジュンガル』

『地球温暖化は避けられない』

『国際平和連合』

『鬼島』

『悪徳サイト』

『あげつらう』

『過ちを犯す』

『三島由紀夫の謎』

『ヒラリートランプ現象』

『ノーパン@CIA』

『未開人と文明人』


(banana82e.jpg)

『オセロの失敗』

『サン・ラザールの裏路』

『「夜と霧」を観た?』

『虫酸が走る』

『大空に乾杯』

『ターバンを巻いた少女』

『美しい日本語を探して』

『アダムとイブのバナナ』

『宮沢りえ@サンタフェ』

『ネットの主要言語』

『中国人がアメリカを発見した』


(cleopara2.jpg)

『2000年前の光通信』

『習近平皇帝』

『プーチンの復讐』

『ペンタゴン・ペーパー』

『南米の富士山』

『ダンケルク』

『無実の罪』

『殺人光線』

『ロッキード事件すごい』

『注目の悲劇』

『核戦争』

『1910年の飛行レース』

『エンペラー習近平』


(sunwind2.gif)

『暗殺@GOO』

『テロとの戦い』

『マリアのミイラ』

『パナマ文書』

『南京事件』

『古代文明人』

『海の文明人』

『CIAの暗躍』

『特異点の世界』

『JFK 証拠隠滅』

『トランプ@スキャンダル』

『フェーリア・モール』

『使い捨てファッション』

『万物の理論』

『カラル遺跡』

『アレン・ダレス』

『JFK暗殺の証拠』

『エロいモナリザ』

『ダイアナは殺された?』

『タイムトラベラー』

『ロバート・ケネディ暗殺』



とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。 バーィ。


(hand.gif)



(surfin2.gif)

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メチャ面白い、

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平成の紫式部、橘卑弥子でござ~ます
(himiko92.jpg)

■ めれんげさんの『即興の詩』

■ めれんげさんの『極私的詩集』

Jagel - Soft Japanese Bagel
(bagel702.jpg)

■ "JAGEL - Soft Japanese Bagel"


(linger65.gif)

『センスあるランジェリー』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(beach02.jpg)

■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』



(rengfire.jpg)


(byebye.gif)
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