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ちきり伊勢屋

2024-10-28 01:17:13 | 日本人・日本文化・文学論・日本語
 
ちきり伊勢屋

 


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デンマンさん。。。、ちきり伊勢屋 というのは江戸時代の小間物屋でござ~♪~ますかァ~?



なんで小間物屋だと思うのですかァ〜?

だってぇ〜、トップの画像は小間物屋さんの店先ではありませんかァ〜。。。

確かに、「四つ目屋」という小間物屋の店先なんだけれど、「ちきり伊勢屋」の画像がなかったので、代わりに貼り出したまでですよ。。。

そういう誤解を招くようなことをなさらないでくださいなァ〜。。。で、「ちきり伊勢屋」さんは何屋さんなのでござ〜ますかァ〜?

実は、江戸の麹町五丁目で質屋と両替商を営む大店なのですよ。。。

あらっ。。。デンマンさんのご先祖様がやっていたお店ですか?

いや、ちがいます。。。落語の演題名です。。。

 


ちきり伊勢屋

 


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ちきり伊勢屋は、人情噺の演目名。6代目三遊亭圓生が得意とした。

上方では3代目桂南光が登場人物の「白井左近」の名で演じる。

近年では、3代目古今亭志ん朝が、伊勢屋(上)を演じているが、筋は少し異なる。

 

あらすじ

易者の白井左近は易が上手く、知人の旗本中川右馬之丞の災難を予言して一命を助けたことから、診てもらいに多くの人が来て大繁盛である。

八月の暮れ、麹町の質屋ちきり伊勢屋の若旦那傳次郎が自身の縁談を見てもらいに来るが、左近は傳次郎に死相が現れているのを見とがめ、来年の二月十五日の正九刻に死ぬ。
傳次郎の亡父のむごい商いの祟りが自身にふりかかったものでどうすることもできない。
残された人生、自棄にならず善行を積んで来世に望みをつなぐことしかないと告げる。

絶望した傳次郎は店の者に事情を話し、次の日から江戸を歩きまわり貧しい者を助ける。
赤坂の喰違坂で首をくくろうとする哀れな母親と娘に百両与えるなど、目についた者や聞きつけた者に惜しげもなく金子を与えるが、いかんせん莫大な資産だけになかなか減らない。
ではいっそのこと茶屋遊びをしようと吉原、柳橋を遊び倒し、ようよう財産が尽き果て、店の者に手当を渡して暇をやり身軽となるころ、左近が予言した自分の命日が近づく。 

もう命もあまりない。最期は派手にしてやろうと、傳次郎は、芸者や幇間を呼んで酒盛りをし、近所に自身の葬礼を知らせるうち、とうとう、二月十五日がやってきた。

これから金にあかした葬儀が始まる。
傳次郎は立派な死に装束で棺桶に入るがどうしたことか死ねない。
菩提寺で大和尚にねんごろな読経をあげてもらい、正九刻に墓に埋めようとしてもまだ生きている。
「おい。あたしはまだ生きているよ。」
「もう引導を渡しちゃんたんですよ。」
「そんなのいらないよ。」
「こまった仏様だね。」
「葬式の強飯もってこいよ。腹が減ったよ。」
「もうありませんよ。」
「じゃあ、鰻かなにかあつらえておくれ。」
「冗談いっちゃいけねえ。」
「おいおい。便所行きたくなってきた。出しておくれ。」
これでは葬式どころではない。

結局生きてしまい全財産を失った傳次郎は、友人宅を泊まり歩くがいつまでもそんな暮らしもできず、とうとう宿無しとなってしまう。
九月になって、傳次郎は高輪の大木戸で白井左近に出くわし、お前の占いが外れたからこんな目に合ったと抗議すると、左近はもう一度傳次郎の顔を観察し、
「あなたが首くくりの母娘を助けたことで父親の悪行の呪いが解けたのだ。八十まで長生きする。」
「冗談言っちゃいけませんやね。金もないのに八十まで生きろってんですか。」
「いや、相済まない。だが、今お前の顔を見るとな。品川のほうに幸福があると出た。まずはそこへ行くことだ。わたしも人の死相を見たばかりに奉行所に呼ばれて江戸払いとなり、大木戸で細々と暮らしているありさまでな。お詫びと云っては何だけど、ここに二分の金がある。雨降り風間というくらいだから持って行きなさい。」
と 云われた傳次郎は折角なので半分の一分金を持って品川にやってくる。

そこで遊び仲間の伊之助に出会う。
伊之助も道楽が過ぎて勘当され品川で日雇いの仕事をしているのであった。
二人は駕籠屋になり、どうにかこうにか生計を立てるようになる。

そんなある晩のこと、品川の遊郭帰りと見える一人の幇間を駕籠に乗せるが、これが以前贔屓してやった一八であった。
「おい、一八!」
「何だ。・・・駕籠屋なぞに一八呼ばわりされる筋合いはねえや。」
「フン。俺の顔を見忘れたかい。・・・ちきり伊勢屋だ。」
「あっ!・・・若旦那!・・・どうも」とどちらが客かわからない。
傳次郎は「お前の羽織も帯もおれが呉れてやったんだな。」
「へい。そのせつはどうも。結構なものを頂戴しまして、ありがとう存じます。」
「じゃあ。俺に返してくれ。・・お、そうだ。ついでと云っちゃあ何だけど、一両貸してくれねえか。」
「へい。かしこまりました・・・とほほ、こんなところで追剥に合うとは。」

この着物と帯を酒に変えようと、ある質屋に持っていくと、女主人が美しい娘を連れて現れ、
「もし、伊勢屋の傳次郎様ではいらっしゃいませんか。」
「へい。どなたでいらっしゃいますか。」
「私どもは以前赤坂で助けてもらったものでございます。」
「ああ・・・そう云えば」
「おかげで命も助かり。今、こうしていれるのもみなあなたのおかげでございます。改めてお礼を申し上げます。」
「何、わたくしは白井左近の言うままにして全身代失ってこんな有様でございます。」
「いいえ。あなたも長生きをしたらいいことがございます。・・・つきましてはうちの娘、ふつつかな者でございますが、嫁にもらってもらえますまいか。もういちどちきり伊勢屋のノレンを挙げてもらえればこんなうれしい事はございません。」

傳次郎は左近の予言はこれだと思い
「こんな零落した私をおもらいいただくとは。ありがとうございます。お言葉に従います。」
こうして二人は伊勢屋の店を再興し、ともに八十の長寿を保ち幸せになったという。

 

解説

柳派により演じられてきた長編の噺で、ふつうは傳次郎の葬儀までを上、それ以降を下として休憩をはさんで演じられる。
洒落た内容であるが、長時間聞かせるにはかなりの技量と体力を要する。
歌舞伎でも取り入れられ、大正期に7代目澤村宗十郎が帝国劇場で演じた。

4代目柳家小さんの演出では、白井左近は紀州藩に仕えていた学者で、主君への諫言がもとで浪人となり、生活のために占者をしていたら不思議と当たるようになったというものであった。




出典:「ちきり伊勢屋」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



こういう噺なんだけれど、古今亭志ん朝さんが「上の部」を演じる動画を聴くと、上の「あらすじ」とはずいぶん違っている。 42分の『ちきり伊勢屋』という演目です。。。ここで紹介するのは三遊亭栄楽さんの90分の『ちきり伊勢屋』です。。。古今亭志ん朝さんは42分で演じているのを三遊亭栄楽さんは90分で、間に休憩を入れているのです。。。「上の部」を更に2つに分けて演じている。「上の部」と「下の部」を合わせると、3時間近い人情噺です。。。この栄楽さんの噺は「上の部」の最初の半分です。。。では、卑弥子さんもじっくり聴いてみてください。。。

 


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三遊亭栄楽さんのお噺も、ウィキペディアの「あらすじ」とは随分と違いますわねぇ〜。。。



そうでしょう!? この噺はもっと長いのですよ。。。全部を通しでやると3時間ほどかかる。。。

つまり、三遊亭栄楽さんは、最初の45分を演じたのですわねぇ〜。。。

そういうことです。。。次の「あらすじ」は3部に分けてやる場合です。。。三遊亭栄楽さんが演じた「上の部」は次の「あらすじ」の(上)にほぼ近い。。。

 



『ちきり伊勢屋』

(上、中、下)


 


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【上】

 

江戸で質屋と両替商を営む大店ちきり伊勢屋の主人・伝次郎は二十五歳とまだ若い。
ある夏の盛り、この伝次郎を父親亡き後親代わりのように育てた番頭に、伝次郎が「私は来年二月二十五日に命を落とすと言われた」と深刻な顔をして打ち明ける。
聞けば、「そろそろ嫁を」と常日頃番頭に言われている伝次郎、それもそうだなと、必ず当たると評判の白井左近という易者に縁を見てもらいに行ったところ、「あなたはこれ以上ないほどくっきりと死相が出ていて間違いなく二月二十五日に死ぬ。嫁などもらってはいけない」と言われた、というのだ。

亡くなった父・伝右衛門は人に恨まれることを重ねて身代を築き「鬼の伊勢屋」と陰口を叩かれる始末、その因縁で伝次郎は死ぬのだと白井左近は説明し、「死ぬまでにせいぜい人々に施しをしなければいけない。施しをしながら道楽もして財産をすべて使い果たせば、来世で長生きして幸せになれる」と告げた、というのである。

伝次郎は番頭に千両渡し、奉公人にも金を渡して暇をやり、店を畳むと、人々に施しをする日々を過ごすが、それにつけ込んで「困ったフリ」をする連中にたかられることが多くなった。
「いったい人の誠とは何だろう」と虚しくなった伝次郎は「道楽をしろ」と言われたことを思い出し、いとこの遠州屋正太郎に「死ぬまで遊びに付き合ってほしい」と誘う。

正太郎は「徹底的に遊ぶのは大変だ。本物の遊び人になるには覚悟が要る。その覚悟はあるのか?」と言って、伝次郎の財産使い果たしに付き合うことになる。

吉原通いに精を出し、散財し続ける伝次郎と正太郎。
伝次郎は死期も迫った節分の時期、一家心中の相談をする四人連れに出くわす。
伝次郎がわけを聞くと、男は洗い張り屋を営む山城屋徳兵衛、火事を出して迷惑を掛けた分を弁償するために娘二人を吉原に売ろうとしたものの、それよりいっそ四人で死んで詫びをしようと思っていたと言う。

伝次郎はこの親子に三百両を与え、「私は死期が決まっていて、それまでに施しをしなければいけないと言われて色々と困っている人を助けようとしたものの、誰を助けて誰を助けないなどと神ならぬ人の身で決めることなど出来ないと虚しくなって道楽三昧の日々を過ごすこととなりました。今、ここでようやく私の金が人の役に立つ。私の金が生きることが嬉しいのです」と話す。

山城屋はその金を基に人々に弁償すると、前にも増して繁盛するようになり、二人の娘の妹の方が婿を取る。徳兵衛は二月二十五日、安心したように息を引き取る。
死ぬまでちきり伊勢屋に感謝し続ける山城屋徳兵衛であった。

(古今亭志ん朝の【上】では、山城屋徳兵衛が伝次郎の「死相」を受け継いで死んだことになり、白井左近に会いにゆくと「貴方の顔から死相が消えている」と言われ、伝次郎が生き延びるというオチで噺を終える)

 

【中】

 

伝次郎は生まれてからこのかた父親譲りで仕事一筋。近所の子供たちとも遊んだことはなく、年頃になっても飲む、打つ、買うの三道楽には見向きもしない。
死ぬ前に冥途の土産に何か道楽でもと考えたが、酒なんかいくら飲んでもたかが知れてるし、博打でもしも大勝ちしたらそれを使わなきゃならないのも大変で、女と遊ぶことに決めて番頭に相談する。

「ええ、結構でございます。なまじ素人では返って面倒でございますから、気兼ねなく遊べる遊女屋なんかで・・・いっそ新宿へいらっしゃいな」
「お前、なかなかくわしいな」、ということで内藤新宿の岡場所通いが始まった。

ある日、帰りに寂しげな喰い違い見付のところまで来ると、中年の女と十五、六ぐらいの娘が泣きながら話をしている。
すると女は腰ひもを解いて木の枝にかけ、首をくくろうとする。
駆け寄って止めた伝次郎が仔細を聞くと、「実はこの娘(こ)がご主人様から預かった二百両を持って使いに行く途中で、落としたのか取られたのか分かりませんが無くしてしまいました。この娘にかかった濡れ衣を晴らすこともできずに、このようなことに・・・」

「お前さんたちは金がなくて死になさる。わたしは金があっても命がない。金ですむのなら、二百両あげますから、死ぬのはおよしなさい」

「それは、・・・まあ・・・そんな大金を見ず知らずの御方から・・・何と有難いことで・・・どちらのお方さまでございますか?おところとお名前を・・・」

「どうぞ、ご勘弁を・・・それじゃあ、名前だけ申しまあげましょう。わたしは伊勢屋伝次郎というもの。来年の二月十五日、正午の刻に死にますから、その日を命日と思って、お線香の一本でも手向けてくだされば結構ですから・・・」、伝次郎は母娘が止めるのを振り切って店へ駆け出して行った。

新宿での遊びにも慣れて、飽きてもきた頃、やっぱり遊びの本場は吉原と聞いた伝次郎は吉原へと乗り換えた。遊びも大きくなり、花魁、芸妓をはべらせ、大勢の幇間(たいこもち)、芸人に取り囲まれ、湯水のように金を使って行く。

女遊びをしていた伝次郎だが、二月二十日になると「いよいよ死ぬ」ということで、麹町の自宅に芸者や幇間を呼んで「通夜」と称してドンチャン騒ぎ。
二十四日には白装束で棺桶の中に座り込んだ伝次郎。
二十五日になり、伊勢屋に忌中の札が貼られたので向かいの高田屋から遣いが来ると、「まだ生きてるよ。おたくの旦那は色々意見してくれた、宜しく伝えておくれ」と棺桶の中から伝次郎自ら返事をする。

「上」の伝次郎が、思いつめる性格の、真面目で純朴そうだがどこか神経質な青年だったのが、「中」では軽薄な遊び人に早変わり。

棺桶ごと墓に埋められた伝次郎だが、死ねないまま暮れ六つの鐘を聞く。「まだ生きているじゃねぇか! あの占い師め!」と棺桶から抜け出した伝次郎、「店は人手に渡ったし、金は使い果たした。一文無しだ……」と途方に暮れる。

それから半年後、正太郎の許に現れた伝次郎。
乞食同様の暮らしで何とか生き延びてきたと言う。「今はただ、あの白井左近が恨めしい。あの野郎どうしてる?」と伝次郎が訊くと、伝次郎の一件が公になり「生き死にを占って人心を惑わした罪」によって江戸ところ払いとなり財産は没収され、今は大道で占いをやっているという。

白井左近が居る赤羽橋へ行く伝次郎、「見つけたぞ、この野郎!」 驚いて白井左近、「万が一にも見間違いではなかったが……」と伝次郎の顔を見ると「死相が消えておる!」

この白井左近がまた、もっともらしいことを言っているのにどこかいかがわしい。

「人助けをしましたな」と白井左近。「四人を助け、その中の一人があなたの死相を引き受けてあの世へと旅立った。
あなたは長生きをする! 八十過ぎまで生きる! 万に一つの見間違えのないこの白井左近が申すのじゃ!」と偉そうな白井左近の物言いが実に可笑しい。
「この野郎、一文無しで長生きしても仕方ねぇだろ!」と怒る伝次郎。

「落ち着け。人は運命に従うもの。あなたは自分の運命を変えた。辰巳の方角へ行け。自分で運を開くのだ」と左近は進言する。
「勉強させてもらった。この一両をどうかお納めください」と伝次郎に一両渡した白井左近、「わしは上方へ行く。伝次郎さん、心を強く持って! 辰巳の方角です、そうすれば運が開ける!」と言い残して去る。

 

【下】

 

左近に会いに行った伝次郎を茶店で待っていた正太郎が「どうだった?」と訊くと、「ああ、前に比べて随分力が入って大げさなヤツに変わっていたよ!」(笑) 

辰巳の方角というと正太郎が今いる品川のいろは長屋がまさに辰巳。
そこに伝次郎が転がり込む。
正太郎の遠州屋も人手に渡ってしまったのだった。

ぶらぶらしている二人に大家が「地道に駕籠かきでもやって稼げ」と忠告し、そのとおり駕籠かきを始めた。
ある晩、派手ななりをした客が寝込んでるのをいいことに、一休みしておでん屋で一杯……のつもりが結局夜明けまで飲んでしまい、慌てて客を起こす。
すると客は昔なじみの幇間だった。

「ちきり伊勢屋の旦那! あっ、あちらは遠州屋さん!」
「半平か」
「聞きましたよ、水臭いじゃありませんか、あっしが女房を持てたのも旦那のおかげ、感謝してます。どうしてうちを訪ねてくださらなかったんですか!」
「なぁに、痩せても枯れてもこの俺は、ちきり伊勢屋の、あ、伝次郎だぁ~」と芝居がかった物言い。

半平は手持ちの三両を伝次郎に与えると、「これを金に換えてください」と着ている着物を脱ぎ、羽織も、着物も、帯もすべて渡した。
「おいおい、そんなことされると俺達が雲助に見えるよ!」と言いつつ受け取って長屋に戻った二人。
「この三両は、長屋の皆と楽しく使おうじゃねえか」と長屋の連中に振舞って使い切ってしまう。

と、あるとき長屋の子供が病に倒れ、治療には人参という高価な薬草が必要だという。
そこで伝次郎は半平からもらった着物や帯、羽織などを持って亀屋という質屋に行く。

だが、番頭は伝次郎の身なりと着物の高価さとのギャップに「盗んだ品だ」と判断し、「うちでは扱いかねます」と断った。
「痩せても枯れても、俺はちきり伊勢屋の、伝次郎だぁ~!」と見得を切るようにして去って行く伝次郎、その後姿を見てハッとする若い娘。

伝次郎の後を追ってきた番頭、先ほどの無礼を詫びながら「当家の主がお詫びをしたいと」と鰻屋の二階へ案内する。
待っていたのは亀屋の主人と、「水もしたたるような」若くて美しい娘。
「お願いがございます」と切り出した亀屋の主人、「この娘は私の養い娘のお鶴といいまして、その親は山城屋徳兵衛、私の兄でございます」 
何と、亀屋はあの山城屋徳兵衛の弟で、長女お鶴を養女にしていたのだった。
山城屋を次女が婿を取って継いだのも、長女は一家を救ってくれた伝次郎に嫁ぎたいと夢見ていたからなのだという。

「どうかこの娘を嫁にして、私の店を継いでください」 
お鶴と添わせてもらった伝次郎は亀屋を継ぎ、義父の勧めで暖簾をちきり伊勢屋と改めたという……。
「積善の家に余慶あり、ちきり伊勢屋でございます」 




原話

直接の原話は、安永8年(1779)刊『寿々葉羅井(すすはらい)』中の「人相見(にんそうみ)」。

これは、易者に、明朝八ツ(午後2時)までの命と宣告された男が、家財道具を全部売り払って時計を買い、翌朝それが八ツの鐘を鳴らすと、「こりゃもうだめだ」と尻からげで逃げ出したという、たわいない話。

易者に死を宣告された者が、人命を救った功徳で命が助かり、長命を保つというパターンの話は、古くからそれこそ山ほどあり、そのすべてがこの噺の原典または類話といえる。

その大元のタネ本とみられるのが、中国明代の説話集『輟耕録(てっこうろく)』中の「陰徳延寿(いんとくえんじゅ)」。

それをアレンジしたのが浮世草子『古今堪忍記(ここんかんにんき)』(青木鷺水{あおきろすい}、宝永5=1708年刊)の巻一の中の説話。

さらにその焼き直しが、『耳嚢(みみぶくろ)』(根岸鎮衛{ねぎしやすもり}著)の巻一の「相学奇談の事」。

同じパターンでも、主人公が船の遭難を免れるという、細部を変えただけなのが同じ『輟耕録』の「飛雲(ひうん)の渡し」と『耳嚢』の「陰徳危難(いんとくきなん)を遁れし事」で、これらも「佃祭」の原話であると同時に「ちきり伊勢屋」の原典。

 

三遊亭円生と林家彦六が双璧

明治27年(1894)1月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っている。

小さん代々に伝わる噺。

ただ、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)は手掛けていない。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の預かり弟子だった時期がある、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、小さん系のもっとも正当な演出を受け継いで演じていた。

系統の違う六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が、晩年に熱演した。

円生は二代目禽語楼小さんの速記から覚えたと言うから、正蔵のとルーツは同じ。

戦後ではこの二人が双璧でした。

 

白井左近とは 

白井左近の実録については不詳。

二代目小さん以来、左近の易断(えきだん)により、旗本の中川馬之丞が剣難を逃れる逸話を前に付けるのが本格で、それを入れたフルバージョンで演じると、二時間は要する長編。

この旗本のくだりだけを独立させて高座にかける場合は、「白井左近」の演題になる。

 

ちきり

「ちきり伊勢屋」の通称の由来。

「ちきり」はちきり締めといい、真ん中がくびれた木製の円柱で、木や石の割れ目に押し込み、かすがい(鎹)にした。

同じ形で、機織の部品で縦糸を巻くのに用いたものも「ちきり」と呼んだ。

これを図案化したものが「ちきり」という紋所の名称

 


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下向きと上向きの△の頂点をつなげた記号で表され、質屋や質両替屋の屋号、シンボルマークによく用いられる。

これは、千木とちきりのシャレであるともいわれる。

 

積善の家に余慶あり

正しい出典は、「積善の家には必ず余慶あり」

『易経(えききょう)』坤卦(こんけ)の文言伝にある。

「よいことをたくさんした家には自分だけでなく、善徳がありあまって子孫にまでも幸せが及ぶものだ」、という意味。

積善余慶(せきぜんよけい)という四字熟語もある。意味は同じ。

 

食い違い


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赤坂の「食い違い」は「喰違御門(くいちがいごもん)」のことで、現在の千代田区紀尾井町(きおいちょう)、上智大学の校舎の裏側にあった。

その門前に架かっていたのが「食い違い土橋(どばし)」。

石畳が左右から、交互に食い違う形で置かれていたのでその名があった。

戦国時代の城では、攻めてくる敵をたやすく返り討ちにするため、このような形状を造った。「虎口こぐち」とも言った。



 



いろいろな落語家が演じるのでござ〜ますわねぇ〜。。。



難しい演目なのだけれど、それだけやりがいがあるのでしょう。。。確かに、興味深い演目ですよ。。。落語家によって、少しづつ内容が違うのです。。。でも、本筋は変わりません。。。三遊亭栄楽さんは、師匠の三遊亭圓生さんから教わったそうです。。。

デンマンさんは、どなたが演じる人情噺が好きでござ〜ますかァ〜?

古今亭志ん朝さんが演じた噺が気に入ってます。。。

どうして古今亭志ん朝さんのビデオを取り上げなかったのですか?

ユーチューブで探したのだけれど、見つけるができなかったのですよ。。。残念です。。。



(laugh16.gif)


【卑弥子の独り言】



 

ですってぇ~。。。

あなたも受験の時とか結婚相手のことで易者さんに見てもらったことがござ〜ますかァ〜?

あたくしは一度だけ見れもらったことがありました。

でも、当たらなかったので、それ以来易者さんにお世話になることはござ〜ませんでしたわァ。。。うふふふふふ。。。

ええっ。。。「そんな事はどうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたくしに御命令なさるのでござ~ますかァ~?

分かりましたわ。。。

デンマンさんが10年以上も前にアンケートを作りました。

 


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『拡大する』


『もう一度クリスマスのページ』

 

上のリンクをクリックすると、

左側のサイドコラムにたくさんの質問が出てきます。

ひとつひとつ見ながら ぜひアンケートに答えてみてください。

じゃあ、また。。。






ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

“本音と建前”

よく聞きますよね。

さて、英語で何と言うのでしょうか?

考えてみた事がありますか?

いろいろと言い方があると思います。

appearance and reality

見かけと実物そのまま


これも本音と建前と言い換えることができますよね。

form and substance

外観と実体


これも本音と建前と同じですよね。

one's real intention and

what one says on the surface


本音と建前を説明しているのですよね。

real motive and stated reason

これも間違いなく本音と建前ですよね。

what one says and what one means

本音と建前をこのように言うこともできますよね。

では、「本音と建前を使い分ける」を

英語でどのように言うのでしょうか?

ちょっと考えてみてください。



次のように言うことができます。

You should be tactful as to

when to tell real intention

and when to show form.


ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。








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名人の系譜

2024-10-28 01:06:02 | 日本人・日本文化・文学論・日本語

 

名人の系譜

 


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デンマンさん。。。 今日は名人のお話でござ~ますかァ~?


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卑弥子さんは、つまらなそうですねぇ~?

別につまらないと思ってはいませんわァ~。。。

でも、うんざりしたような表情を浮かべてますよゥ。。。いったい、どういう話題ならば、ウハウハするのですかァ~?

そのような事は恥ずかしくって申し上げられませんわァ~。。。

あのねぇ~、僕はまだエロい事は何も言ってないのですよゥ。。。なぜ、わざとらしく乙女のように顔を赤らめているのですかァ~?

だってぇ~。。。

だっても、あさってもないですよゥ。。。いい年して、エロい事を妄想して顔を赤らめている場合じゃないでしょう!?

 


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あたくしは、未だに純潔を固く守っているのでござ~ますわァ~。。。だから、ちょっとしたエロいことを思い浮かべるだけで赤面してしまうのですう。。。



つまり、エロい話題がいいのですねぇ~?

うふふふふふふ。。。

やだなあああああァ~。。。早く結婚相手を見つけてくださいよう。。。今日はエロい話はしません。。。僕にも予定がありますから。。。

分かりましたわァ~。。。じゃあ、あたくし、これで帰らせていただきますゥ。。。

卑弥子さん。。。、卑弥子さん。。。、帰らないでくださいよう。。。この話が終わったら、卑弥子さんとふたりきりでエロい話をしますから、少しの間 僕に付き合ってくださいねぇ~。。。

分かりましたわァ~。。。じゃあ、なるべく早く切り上げてくださいねぇ~。。。

実は、夕べ 古今亭志ん生さんの次の落語を聴いたのですよ。。。

 


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この『名人 長二』という人情噺は2時間17分に渡る長い噺なのですよ。。。



あらっ。。。2時間もぶっつづけで話すのでござ~ますかァ~?

いや。。。 長い噺を約30分づつ5部に分けて語るのです。。。

この名人・長二という人は、あたくしは名前を初めて聞いたのですけれど、有名な人なのでござ~ますか?

いや。。。実は、僕もこの人情噺を聴くまで知らなかったのですよ。。。指物師と言って、タンスや仏壇、茶箪笥、木箱などを材木を使って作る職人です。。。長二は、この世界では名人だった人です。。。

 


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『名人 長二』

 


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解説

落語の神様と言われる三遊亭圓朝が作った人情噺。
モーパッサンの「親殺し」を翻案したものだが,原作とはずいぶんと趣が違っている。

明治28年,圓朝自身の筆により中央新聞に連載。
その3年前,人力車から落ちた傷をいやしに湯河原へ圓朝は湯治に行っており,その時の取材が使われている。

舞台にとった湯河原の風物が詳しい。
圓朝お得意の名人伝でもあり,推理小説のようでもある。

三遊亭志ん生は5回に分けて全体を演じている。

 

テーマ

指物師長二は、上客の亀甲屋が幼い自分を捨てた実の親だと知るが,亀甲屋は頑として認めない。
ついに亀甲屋を殺害する。

名人の長二を死刑にするには惜しいので奉行は長二の助命に頭を悩ます。
長二は指物師としての腕前も素晴らしいが、人柄も素晴らしい。

 

あらすじ ネタバレ注意!

文政3(1820)年,蔵前の富豪・坂倉屋助七が長二に仏壇作成を依頼する。
坂倉屋は百両の値の高さに驚く。
絶対に壊れない品物だと言われ,かっとなり才槌で叩くが仏壇は壊れない。

坂倉屋は、その出来栄えに感服する。
1000両出すから売ってくれという。

初めの約束通り100両でいい、と長二は それ以上は受け取らない。
坂倉屋の娘のお島は、金にこだわらない長二の人柄に惹かれる。

その年の11月,長二,兄弟弟子の兼松と湯河原へ湯治に行く。
土地の婆さんに自分が捨て子で,背中の傷は捨てられたとき竹に刺さったためと聞かされる。

1821年,育ての親の菩提寺の天龍院で亀甲屋幸兵衛に会う。
和尚に長二は身の上を話す。
その場に居合わせた亀甲屋は、長二をひいきにする。

亀甲屋が実の親だと明かさぬのを苦に,背中の傷を見せて詰問する。
ところが、亀甲屋幸兵衛は長二を打ちすえる。

11月10日,亀甲屋が忘れた50両を長二は返しに行き,再び自分の実の両親ではないのか?
そう詰問する。
長二は口論の末、幸兵衛と刃物を出してもみ合い,亀甲屋夫婦を殺してしまう。

 


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翌日,長二は親方の清兵衛に悪態をつき,日付を遡った縁切状を渡す。
実は親方に迷惑をかけない為にそうしたのだった。

そのあとで南町奉行・筒井和泉守に駆け込み訴えでる。
長二の評判がよいのを聞き,狂人として減刑を図るが,長二かえって怒り,親殺しをすべて白状する。

奉行は長二の助命法に悩む。
美濃屋夫妻を吟味するうち,殺された幸兵衛は長二の実父でないと知る。
しかし,お柳は実母ゆえ親殺しの罪は逃れない。

鍼医・岩村玄石が美濃屋をゆする。
密偵に様子を聞かれ,玄石ら捕縛される。
玄石は金をもらい お柳(長二の実母)の前夫・半右衛門(長二の実父)を鍼で殺していた。

林大学頭は礼記を引用し,親殺しでなく実父の仇討という解釈を示す。
長二は無罪になり、玄石と共犯者の美濃屋夫婦は遠島になる。

長二と蔵前の富豪・坂倉屋助七の娘のお島は結婚して坂倉屋を継ぐ。



 



あらすじは、おおむね上のような流れなのですが、噺のすべてを詳しく知りたい人は「青空文庫 ネット図書館」に人情噺にはない湯河原の風物なども書かれた全文が収められているので、興味のある人は次のリンクををクリックして読んでみてください。。。

 


(aozora20.jpg)

『名人長二 (鈴木行三校訂・編纂)』

 



この噺の作者の三遊亭円朝も落語の世界では名人だったのですか?



落語の世界では名人と言うよりも落語の神様として、崇(あが)められているほどです。。。

それほど噺がうまかったのでござ~ますか?

あまりの巧さに嫉妬され、師匠の2代目三遊亭圓生から妨害を受けたほどです。。。

妨害って、どのような?

圓朝が演ずるであろう演目を圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのです。。。たまりかねた圓朝はこれなら他人が演ずることができないだろうという自作の演目を口演するようになったのです。。。それで、多数の新作落語を創作した。。。人情噺では、『粟田口霑笛竹』や『敵討札所の霊験』、『芝浜(異説あり)』、怪談では、『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。また海外文学作品の翻案には『死神』、 上の噺も その翻案の一つです。。。

古今亭志ん生も、人によると名人だったと言いますわねぇ~。。。

僕も、そう思いますよ。。。少なくとも、その話しぶりや人柄と言い、お客さんの心をつかむようなテクニックを持った人です。。。ちなみに、志ん生さんは、上の噺の枕(本題に入る前の導入部)でも語ってますが、三遊亭圓朝の孫弟子です。。。

 


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古今亭志ん生の次男の志ん朝さんも、僕は名人だと思います。。。次の噺のように、人を引き付ける話しぶりは並の噺家ではありません。。。

 


(imado-fox.jpg)



 



今戸の狐

 

江戸の中橋に名人初代三笑亭可楽が住んでいた。その門下に若い二つ目の良助がいた。寄席の上がりだけでは生活が出来ない上に、通い弟子なので暮らしに困りはてていた。師匠は厳しく内職を禁じていたので、芸人の見栄もあるために、我慢をしていた。

良助は橋場に住み、向かいの背負(しょ)い小間物屋善吉の女房おサイさんは、千住の女郎上がりの女だが、出身にも似ず働き者で近所の評判もよく、千住(せんじゅ=コツ)の妻(サイ)と愛称されていた。

コツのサイさんは今戸焼の狐の彩色(さいしき)の内職をやっていた。教えを請うと親切に教えてくれた。良助も器用だったので直ぐ習得して、雨戸を閉めて人目を避け、引き窓からの明かりを頼りに狐を作った。

朝 、師匠の家へ行って用をたして帰り、夕方寄席へ出かけるまでの間、せっせと内職をした。

当時、可楽は飛ぶ鳥を落とす勢いで人気が出ていた。可楽が出ると周りの寄席の客足が途絶えるほどであった。寄席がはねると弟子が売り上げをもって中橋の可楽の家まで持って帰り、各出演者に小分けするのが仕事の一つであった。

それが何軒も掛け持ち出演しているので、小銭の配分に手間が掛かった。誰それさんいくらとの声で、前座が「はい」チャリチャリンと分けていった。この音が夜更けて来ると響いた。

ある夜、雨宿りで軒先に立ち寄ったやくざが、この銭の音を聞きつけた。この音をサイコロの狐をご開帳とにらんで、翌朝可楽の家に乗り込んだ。

可楽に対し、素人が博打を打つとは不届きだが、見逃してやるから口止め料を出せとゆする。可楽は私は博打が大嫌いで、それは何かのお間違いでしょう、弟子にも厳禁している、とんだお門違いだ、帰ってくれと、奥へ入ってしまう。

怒ったやくざは、狐ができていることはさぐってあるのだと、内弟子にすごむ。
三つ賽博打の狐のことを、焼き物の狐と勘違いした内弟子は、それなら橋場でこしらえていると、良助の住まいを教える。
「だったら少しはこさえてくれるな」
「勿論ですとも」
「夕方まで待つか」
「いえ、朝からやっています」

やくざに訪ねてこられた良助は、大慌わてで人形や道具を隠して迎え入れ、その慌てぶりにヤクザは賭場が開かれているのを確信する。
狐などできていないと否定するが、内弟子に聞いてきたといわれて、やむなく肯定する。
「やはり狐(三つ賽博打)ができている(賭場が開かれている)」と安心するやくざ。
「それだったら、時々寄るから、少しこさえてくれ(金の無心をする)」
「少しでは困るんです。(注文は)多い方がいいので」 と良助。

二人は全く違うことを考えているが、偶然に会話はお互いの考えているように最後まで平行線で続いてゆく。(そこが面白い)

「それは有り難てぇ~」
「で、出来はどうだい」
「最近やっと顔が揃うようになりました」
「そうかい、顔が揃う(上客の顔ぶれが揃う)ようになれば後は楽だ」
「(博打の規模が)大きいのか」
「え・・・、 (狐の)大きいのも小さいのもあります」
「金張り銀張り(の狐)が有ります」
「え~、それは(高額の賭けで)豪儀だ」
「今、静かだが(賭場が)出来ているのか」
「出来てます」
「どこで」
「戸棚の中に」
「??」
ヤクザは不審な顔つきする。
「ちょっと見せてもらおうか。ぶち壊す(賭場を荒らす)ようなことはしないから」
「壊されたら困ります」
「お見せします。こちらが大きいの。こちらが小さいのです。これが金張りでこちらが銀張りです」
「なんだこれは?」
「だから狐です」
「馬鹿野郎、狐は分かっていらぁ。泥の狐を探しにこんな所まで来たんじゃねぇや。俺の言っているのは骨(こつ)の采(さい)だ」
「千住(コツ)の妻(サイ)はお向かいのおかみさんでございます」



 



この噺は、絶妙に面白いですわねぇ~。。。



志ん朝さんの話振りが名人の域に達してますよ。。。

お父さんの志ん生さんの血筋を受けつでいるのかしら?

間違いありません。。。ところで、志ん朝さんが父親の志ん生さんを語った珍しい動画があります。。。卑弥子さんも観てください。。。

 


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古今亭志ん生 (5代目)

(1890年6月5日 - 1973年9月21日)

 

古今亭 志ん生は、明治後期から昭和期にかけて活躍した東京の落語家。
本名∶美濃部 孝蔵。生前は落語協会所属。出囃子は「一丁入り」。
戦後を代表する落語家の一人と称される。

1890年(明治23年)、東京市神田区神田亀住町(現・東京都千代田区外神田)の生まれ。
父・美濃部戍行(みのべもりゆき)、母・志う(しう)の五男。
出自は高位の士族。生家は菅原道真の子孫を称する徳川直参旗本であった美濃部家で、祖父は赤城神社の要職を務めた。

明治維新の際の支給金を父の代ですべて使い果たし、孝蔵が生まれた頃父は警視庁で巡査をしていて貧乏暮らしだった。
しかし子供の頃から父に連れられ、寄席で売られるお菓子目当てに寄席通いをした。

下谷区下谷北稲荷町(現在の台東区東上野5丁目)に転居し、1897年(明治30年)、下谷尋常小學校に入学。
1901年(明治34年)、小学校卒業間際の11歳の時、素行が悪いため退学させられ、奉公に出される。
奉公先を転々とし、朝鮮の京城(現在のソウル)の印刷会社にいたこともあるが、すぐに逃げ帰った。
1904年(明治37年)には北稲荷町から浅草区浅草新畑町四番地(現在の台東区浅草1丁目)に移転し、ここを本籍にした。

 

落語との出会い

博打や酒に手を出し、放蕩生活を続けた末に家出。
以来、二度と実家へ寄り付かず、親や夭折した兄弟の死に目にも会っていない。

この頃、芸事に興味を抱くようになり、天狗連(素人やセミプロの芸人集団)に出入りし始める。
1907年(明治40年)頃に三遊亭圓盛(2代目三遊亭小圓朝門下、本名:堀善太郎)の門で三遊亭盛朝を名乗るが、まだプロの芸人ではなくセミプロであった。
同時期、左の二の腕に般若の刺青を入れたという。

1910年(明治43年)頃、2代目三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太との前座名を名乗る。
5代目志ん生自身は、当時名人と称された4代目橘家圓喬の弟子であったと生涯語っていた。

1916年から1917年(大正5年から6年)頃、三遊亭圓菊を名乗り、二つ目になる。
1918年(大正7年)、4代目古今亭志ん生門に移籍し、金原亭馬太郎に改名。
その後、1921年(大正10年)9月に金原亭馬きんを名乗り、真打に昇進する。

1922年(大正11年)11月、清水りんと結婚。
1924年(大正13年)1月12日に長女・美津子、1925年(大正14年)10月7日に次女・喜美子(後の三味線豊太郎。1981年没)、1928年(昭和3年)1月5日に長男・清(後の10代目金原亭馬生)が誕生。
笹塚から夜逃げして本所区業平橋のいわゆる「なめくじ長屋」に引っ越したのはこの年である。
なお、この間に(1924年・大正13年)3代目古今亭志ん馬を名乗っている。

当時の実力者だった5代目三升家小勝に楯突いたことで落語界での居場所を失い、講釈師に転身する。
謝罪して落語家に戻るが一向に食べられず、当時人気者であった柳家金語楼の紹介で初代柳家三語楼門下に移るが、今度は師匠の羽織を質入れして顔を出せなくなった。

その後、詫びがかなって復帰したものの、前座同然の扱いで貧窮極まる。
腕はあったが愛嬌がなく、周囲に上手く合わせることもできず、結果として金銭面の苦労を強いられた。

この頃の5代目志ん生は身なりが悪く、「死神」「うわばみの吐き出され」などのあだ名で呼ばれ、仲間内や寄席の関係者から軽んじられて、寄席でも浅い出番での出演だった。
場末の寄席(いわゆる「端席」)を廻ってどうにか糊口を凌いでいたという。
一部の好事家からは評判が良かったが、売れ出すのはもう少し先のことになる。

1932年(昭和7年)、再び3代目古今亭志ん馬を名乗る。落語界入りしてから長らく売り出せず苦労した5代目志ん生だが、この頃になってようやく少しずつ売れ始める。
1934年(昭和9年) 9月に7代目金原亭馬生を襲名。
1938年(昭和13年)3月10日、次男・強次(後の3代目古今亭志ん朝)が生まれる。
1939年(昭和14年)に5代目古今亭志ん生襲名。朝太から志ん生襲名まで16回改名した。
1941年(昭和16年)、神田花月で月例の独演会を開始。客が大勢詰めかけるほど好評だったが、この頃の5代目志ん生の客は噺をじっくり聞いてくれるような良い客ではなかったという。

 

満洲へ~帰国後

1945年(昭和20年)、陸軍恤兵部から慰問芸人の取りまとめの命令を受けた松竹演芸部の仕事で、同じ落語家の6代目三遊亭圓生、講釈師の国井紫香(2代目猫遊軒伯知)、比呂志・美津子の名で夫婦漫才をやっていた坂野比呂志らと共に満洲に渡る。

満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事を請け負ったがそのまま終戦を迎えて帰国出来なくなり、現地で引き揚げ船の出航を待ちわびながら生死ギリギリの生活を強いられる。

1947年(昭和22年)1月12日、命からがら満洲から帰国。
なお、圓生よりも先の帰国となった。
同月27日帰宅。

帰国がニュースに取り上げられるなど注目され、後は一気に芸・人気とも勢いを増し、寄席はもちろん、ラジオ番組出演なども多くこなす大変な売れっ子となった。
あちこちで仕事を掛け持ちするので、寄席の出番よりも自分の都合を優先してしまい、周囲からわがままな仕事ぶりを非難されることもあった。
この頃から人形町末廣で余一の日に独演会を催すようになった。
8代目桂文楽と並び称されて東京の落語家を代表する大看板として押しも押されもせぬ存在となり、全盛期を迎える。

1953年(昭和28年)にはラジオ東京専属、翌年にはニッポン放送専属になる。
1956年(昭和31年)6月、自伝『なめくじ艦隊』を発行。
5代目志ん生当人は読むのはまだしも書くのは不得手で、弟子の初代金原亭馬の助による聞き書きであった。
同年12月、『お直し』の口演で芸術祭賞を受賞する。

 

会長就任

1957年(昭和32年)、8代目文楽の後任で落語協会4代目会長に就任。
1963年(昭和38年)まで会長を務める。
1961年(昭和36年)暮れ、読売巨人軍優勝祝賀会の余興に呼ばれるが、口演中に脳出血で倒れる。
3か月の昏睡状態の後に復帰するも、その後の高座からは以前の破天荒ともいうべき芸風が影を潜めた。
この時を境に5代目志ん生の「病前」「病後」とも呼ばれる。
療養を経て復帰した5代目志ん生は半身不随となっていたため、講談で使用する釈台を前に置き、釈台に左手を置いて高座を務めた。

1964年(昭和39年)、自伝『びんぼう自慢』を刊行。
さらに5年後に加筆して再刊されたが、いずれも小島貞二による聞き書きである。
同年11月、紫綬褒章受章。

 

事実上の高座引退

1967年(昭和42年)、長女が1964年(昭和39年)に亡くなった2代目円歌の息子と結婚したため、一時は円歌の遺族と姻戚関係があった。
この年、勲四等瑞宝章を受章する。

1968年(昭和43年)、上野鈴本演芸場初席に出演。これが最後の寄席出演となった。
同年10月9日、精選落語会に出演。これが最後の高座になる。
この時、「二階ぞめき」を演じていたはずが途中で「王子の狐」に変わってしまったことをマネージャーである長女に指摘されたため以降高座に上がらなくなったが、5代目志ん生当人は引退した気などなく、少し休んでやがて高座に復帰する意志は持っていた。

1971年(昭和46年)12月9日、妻・りん逝去。12月11日に葬儀が行われる。
その翌日には8代目文楽が逝去。
晩年の文楽は寄席や落語会に出演せず引退同様の状態であったが、高座に上がる気持ちは持ち続けていた。
この年、すでに高座を去っていた文楽がウイスキーを土産に志ん生を訪ねて歓談し、別れ際に「二人会の相談をしよう」と呼びかけていたと家族が証言している。
妻の葬儀でさえ涙を見せなかった志ん生だが、文楽の訃報を聞いて「皆、いなくなってしまった」と号泣した。

1973年(昭和48年)9月21日午前11時半[23]、自宅で逝去。享年83。
戒名は「松風院孝誉彩雲志ん生居士」。墓所は文京区小日向の還国寺。
現在では同じ墓に息子の3代目志ん朝も眠っている。
一時、同じく息子の10代目馬生も同じ墓に眠っていたが、2011年に墓所を移転している。

 

酒にまつわるエピソード

関東大震災発生時は、酒が地面にこぼれるといけないと思って真っ先に酒屋へ駆け込み、酒を買った。
酒屋の主人はそれどころではないと勘定をとらず、その場でタダで1升5合ほども飲んで泥酔して帰宅した。
夫人のりんは当時長女を妊娠中で、大地震の最中に家から飛び出して泥酔して帰宅した亭主にさすがにたまりかねて大変な剣幕で面罵した。

戦時中、漫談家の初代大辻司郎と銀座数寄屋橋のニユートーキヨーでビールを飲み、「エビの絵が描いてある大きな土びん」にビールを詰めたものを土産にもらって都電で帰宅中、日本橋の付近に差し掛かったところで空襲が始まった。
電車から降ろされたが逃げることをあきらめ、地下鉄入口に腰を下ろした。
爆弾がおちて死にでもしたら、せっかくもらったビールがもったいない。
飲んでしまわなければ死んでも死にきれないとすべて飲み干して、そのままその場で寝入ってしまった。
翌朝、奇跡的に無傷のまま目覚めて帰宅。
いつまでも帰宅しないのであるいは空襲で死亡したのでは、と家族は諦めていた。

満洲で終戦を迎えたものの、混乱状態の満洲から帰国する目処がつかず、1946年(昭和21年)頃の国内では「志ん生と圓生は満洲で死んだらしい」と噂が流れていた。
実際、本人も今後を悲観して、支援者から「強い酒なので一気に飲んだら死んでしまう」と注意されたウォッカ一箱を飲み干し、数日間意識不明になったことがあったが、その後意識を回復した。
当時、6代目圓生と二人で極貧生活をしていた時、苦労して手に入れて持ち帰った酒瓶を蹴躓いて落として割ってしまった。
人生で情けなくて涙をこぼして泣いたのは後にも先にもこの時だけだと後に語っている。

酒に酔って高座に上がったことが何度かある。
1958年(昭和33年)5月30日の「第13回東横落語会」では大幅に遅刻し、真っ赤な顔、怪しい呂律で高座を務めた。
噺も支離滅裂だったが、その様子が笑いを誘い、当日一番客の拍手を浴びたのは5代目志ん生だった。
人形町末廣の大喜利でも居眠りしてしまい、トリの4代目(自称9代目)鈴々舎馬風がいくら起こしても起きなかった。
新宿末廣亭でも一度居眠りしたことがある。
家でよく飲んだ酒は菊正宗特級。
蔵元から特別なものをもらっていた。
なお、大好きな食べ物は納豆、苦手なものは漬物。

<HR>

出典: 「古今亭志ん生 (5代目)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





初出: 2024年8月28日


 


(laugh16.gif)


【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

古今亭志ん生さんのお酒のエピソードが面白いですわねぇ~。。。

今では、こういう豪傑タイプの噺家さんはいないようです。。。

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 



 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


(sayuri5.gif)

 

あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


(suikyu9.jpg)

それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)


メチャ面白い、

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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

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