歴史ロマン@バンコク(PART 1)
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デンマンさん。。。 ルンルン気分で楽しそうな写真とアニメを貼り付けましたけれど バンコクで どなたかが 歴史ロマン を楽しんでいるのでござ~ますかァ~?
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そうなのですよ。。。
バンコクに住んでいるタイ人の方ですか?
いや。。。 実は、日本人でバンコクの大学に留学している女性が僕のブログにアクセスしたのです。。。 次のリストを見てください。。。
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■『拡大する』
■『忘れられた歴史ロマン』
これはライブドアの僕の「徒然ブログ」の日本時間で1月25日の午後10時33分から翌日26日の午前2時50分までの「生ログ」です。。。 赤枠で囲んだ個所に注目して欲しい。。。
あらっ。。。 1月25日の午後10時41分に、タイのGOOGLEで検索して『忘れられた歴史ロマン』を読んだネット市民がいたのですわねぇ~。。。
そうなのです。。。 実は、バンコクに住んでいる田島小百合さんが読んだのです。。。
また、いつものようにIPアドレスを調べて小百合さんが読んだことを突き止めたのですかァ~?
そうです。。。
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。。。で小百合さんはバンコクで何をなさっているのでござ~ますか?
バンコク大学の国際部(英語だけで授業を行う)で東洋史を専攻しているのですよ。。。
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。。。で、小百合さんは、どのようにして記事を見つけたのですか?
次のように検索したのです。。。
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■『拡大する』
■『現時点での検索結果』
あらっ。。。 小百合さんは 歴史ロマン 宮田由佳里 徒然 と入れて検索したのですわねぇ~。。。
そういうことです。。。
でも、どういうわけで「宮田由佳里」をキーワードの中に含めたのでござ~ますか?
実は、記事の中に出てくる宮田由佳里さんは仙台の女子高時代の小百合さんのクラスメートなのですよ。。。
マジで。。。? ちょっとできすぎているのではござ~ませんかァ~?
真実は小説よりも奇なり! と昔の人は言いましたからねぇ~。。。 このような信じがたいことがネットでは起こるのですよ。。。
バンコク大学で東洋史を勉強している小百合さんが『忘れられた歴史ロマン』の記事の中に“歴史ロマン”を見つめたのでござ~ますか?
そうです。。。 卑弥子さんも、改めて読んでみてください。。。
藤原仲麻呂は、あの有名な藤原不比等の孫なのですよう。
その事が歴史ロマンと関係するのでござ~♪~ますか?
大いに関係するのですよう。 実は、藤原氏には藤原家を起こした中臣鎌足から伝わっている家宝の“バイプル”があるのですよう。
どのようなものでござ~♪~ますか?まさか、藤原氏がキリスト教徒だと言うのではないでしょうね?
かつて、僕は記事に書いたので詳しい事は、すぐ下のリンクをクリックして読んでみてください。
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■ 『マキアベリもビックリ!
藤原氏のバイブルとは?』
。。。んで、そのバイブルがどうしたのでござ~♪~ますか?
仲麻呂は非常に頭の良い人だったのですよう。当然のことだけれど、仲麻呂は藤原家に伝わる“バイブル”に従って権謀術策を使い正一位になり太政大臣になった。
でも、「藤原仲麻呂の乱」で殺されてしまいましたわ。
その通りですよう。
サルも木から落ちる
弘法も筆の誤り
上手の手からも水が漏る
まさに、完璧な人は居ないと言う事ですよう。仲麻呂は自分の術策に溺れてしまったのですよう。
それで、その事と歴史ロマンがどのように関係しているのでござ~♪~ますか?
実は、父親よりも四男の藤原朝狩の方が頭が良かったのではないか?僕は、そう思っているのですよう。
なぜ。。。?
ちょっと朝狩の略歴を読んでみてください。
藤原朝狩 (あさかり)
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別名: 恵美朝狩。
出生不詳。
天平宝字8年9月18日(764年10月21日))殺される。
藤原仲麻呂の四男。母は陽候女王(新田部親王の娘)。
天平宝字元年(757年)従五位下陸奥守となる。
天平宝字3年(759年)朝狩は正五位下へ進む。この頃陸奥鎮守将軍に任ぜられる。
天平宝字4年(760年)仲麻呂は太師(太政大臣)となり、陸奥守兼鎮守将軍であった朝狩も陸奥国での功績(荒蝦夷を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させた)が認められ、従四位下に叙される。
仁部卿、東海道節度使となる。
天平宝字6年(762年)、仲麻呂は正一位となり位人臣を極め、同年、朝狩は兄の真先、訓儒麻呂とともに参議に任じられ、親子4人が公卿に列する異例の事態になる。
しかし、孝謙上皇が弓削道鏡を寵愛し、仲麻呂が淳仁天皇を通じてこれを諌めたところ、上皇が激怒して天皇から政権を奪い、孝謙上皇・道鏡派と淳仁天皇・仲麻呂派の対立が起きる。
天平宝字8年(764年)9月、仲麻呂は反乱を計画するが、密告により発覚。
孝謙上皇側に先手を打たれて仲麻呂一族は平城京を脱出。
朝狩もこれに従う。
仲麻呂が長年国司を務めた勢力地盤である近江国の国衙に入って再起を図ろうとするが、官軍に先回りされ阻まれた。
仲麻呂一族は八男の辛加知が国司の越前国を目指すが、官軍が越前国衙へ急行して、まだ事変を知らぬ辛加知を斬り、国境の関を固めてしまう。
仲麻呂一族は近江国高島郡に退き、三尾の古城に拠って官軍に抵抗するが敗れ、朝狩を含む仲麻呂一族はことごとく殺された。(藤原仲麻呂の乱)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
陸奥国での功績に注目してください。
藤原朝狩は荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させたのですわねぇ~。
そうなのです。 つまり、僕が言おうとしているのは、朝狩の方が父親の仲麻呂よりも“バイブル”に忠実に術策を使い、戦わずにして荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させたのですよう。その手腕はすごいと思いますよう。
それ程、荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)と仲良くする事は大変な事だったのでござ~♪~ますか?
実は、蝦夷(えみし)は、もともと平和を愛する人たちだったのですよう。この人たちの平和愛好精神について、僕は記事を書きました。 読んでみてください。
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■『なぜ、蝦夷という名前なの?』
■『平和を愛したアイヌ人』
でも、どうして征伐しなければならなかったのでござ~♪~ますか?
一部の渡来人の身勝手から、そうしたのです。
その渡来人って。。。?
その渡来人の血筋を引き継いでいるのが藤原鎌足や藤原不比等ですよう。
でも、藤原朝狩は荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)と仲良く出来たのですわね。 どうしてでござ~♪~ますか?
もともと、争いが嫌いな性格だったのでしょうね。 父親と違い、威圧的、攻撃的な性格ではなかったのですよう。 とにかく、その功績によって正五位下の藤原朝狩は従四位下に叙せられたのですよう。 つまり、2階級特進したのですよう。
でも、藤原朝狩のした事は、それ程特筆するような事だったのでござ~♪~ましょうか?
そうなのです。 藤原朝狩が造営した雄勝城〔おかちのき〕の略歴を見ると良く分かりますよ。
雄勝城〔おかちのき〕
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現在の雄勝郡域内に、雄勝城と同時代の遺構は見つかっておらず、その造営地は現在も不明である。
記紀から推定されている雄勝城の造営地は、「雄物川流域沿岸地で、出羽柵と多賀城の経路上にあり、かつ出羽柵より2驛手前の距離の土地」である。
現時点で発見されている城柵遺跡でこの条件に一致するものは払田柵跡のみである。
現在、横手市雄物川町での発掘調査が進められており、払田柵から出土したものと同等のものが出土している。
今後、これらの雄勝村周辺遺跡の発掘調査が進むにつれ、古代雄勝城造営地が徐々に明らかにされていくものと期待されている。
略歴
天平宝字3年(759年)
雄勝城の造営が行われた。
所轄郡司、軍毅、鎮所の兵士、馬子ら8,180人が春から秋にかけて作業にあたったので、これらの者は淳仁天皇より税の免除が認められた。
また、雄勝に驛が置かれた(雄勝驛のほか、玉野、避翼、平矛、横河、助河、嶺基にも驛が新設された)。
天平宝字3年(759年)9月27日
坂東八国(下野国、常陸国、上野国、武蔵国、相模国、下総国、上総国、安房国)と越前国、能登国、越中国、越後国の4国の浮浪人2,000人が雄勝柵戸とされた。
また、相模、上総、下総、常陸、上野、武蔵、下野の7国が送った軍士器を雄勝桃生の2城に貯蔵した。
天平宝字4年(760年)1月4日
孝謙天皇により雄勝城造営を指揮した按察使鎮守将軍正五位下の藤原朝狩が従四位下に叙せられた。
このほか、陸奥介鎮守副将軍従五位上の百済足人、出羽守従五位下小野竹良、出羽介正六位上百済王三忠が1階級進級となった。
天平宝字4年(760年)3月10日
没落した官人の奴233人と婢277人の計510人を雄勝城に配して解放し良民とした。
天平神護元年(767年)11月8日
雄勝城下の俘囚400人余が、防衛にあたることを約束し内属を願ったためこれを許した。
宝亀7年(776年)2月6日
陸奥国から20,000の軍を発して山道・海道の賊を討伐するよう言上があったため、出羽国に4,000の軍を発して雄勝道から陸奥の西辺を討伐するよう命じた。
宝亀11年(780年)
賊に襲われ、雄勝・平鹿の2郡の百姓は業を失った。
散り散りになった民衆を集め、郡府を再建し口分田を支給する。
延暦20年(801年)
雄勝城の鎮守府兵士の兵糧として、毎年越後国と佐渡国から大量の米と塩が輸送される。
元慶2年(878年)
雄勝城は10道が交差する要衝の地であり、出羽国の要害となっている。
元慶5年(881年)2月26日
雄勝郡、平鹿郡、山本郡の百姓の調庸が再開されることとなる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原朝狩が雄勝城〔おかちのき〕を造営してから、父親が原因で起こった「藤原仲麻呂の乱」で朝狩が殺されるまで、雄勝城周辺の情勢は平穏だった。しかし、後任者が圧制をやり始めたのが分かる。
どうして分かるのでござ~♪~ますか?
776年と780年に「賊に襲われた」と書いてあるけれど、周辺の荒蝦夷が圧政に耐えかねて、また暴れだしたのですよう。
分かりましたわ。でも、その事と歴史ロマンがどのように関係しているのでござ~♪~ますか?
朝狩は多賀城の大改修も任されたのだけれど、その時建てた石碑の次の文章をもう一度読んでみてください。
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多賀城から京(奈良の平城京)に至るには、武蔵までは南西方向に歩いてゆき、さらに西に向かって歩いてゆく。その距離は1500里。
蝦夷国(えみしのくに、かいのくに)の西の国界(くにざかい)までは、南西方向に120里。
常陸国(ひたちのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南に向かって歩き、さらに西に向かって歩き、その距離は412里。合計で532里である。
下野国(しもつけのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南西方向に274里。合計して394里である。
靺鞨国(まっかつのくに)の西の国界までは、西に歩いてゆき日本海に至る。海を渡り、さらに西へ歩いてゆく。その距離は3000里である。
これは藤原朝狩が書かせたものですよう。
上の靺鞨国(まっかつのくに)とは、一体どこにある国なのでござ~♪~ますか?
ウィキペディアの説明を読んでみてください。
靺鞨(まっかつ)
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靺鞨とは、中国の隋、唐時代、勿吉(もつきつ)の表記が変化したものと考えられる。
以下に記すように単一民族集団ではない。
靺鞨の中では、次の7部が特に強大であった。
現在の地理との同定は諸説あり、下記の例はあくまで一説である。
1) 粟末部 - 現在の吉林市
2) 白山部 - 粟末部の東南、現在の吉林省敦化、延辺
3) 伯咄部 - 粟末部の北、現在の拉林河流域
4) 安車骨部 - 伯咄部の東、現在の依蘭県以東
5) 拂捏部 - 安車骨部の東
6) 号室部 - 拂捏部の東、現在の綏芬河流域
7) 黒水部 - 安車骨部の東北、現在の同江から伯力までの黒竜江両岸
上記7部の外、思慕、郡利、窟説、莫曳皆、虞婁、越喜、鉄利のような小部族が、外満州(現在の黒龍江以北とロシア沿海地方)に居住していた。
総じて言えば、靺鞨は、高句麗に服属し、後に渤海を建国した南の粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)と、後に遼国、金国、清国を建国した女真族の黒水靺鞨(こくすいまっかつ)に二分される。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、靺鞨(まっかつ)部族たちの国という意味ですよう。この場合、粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)が立ち上げた渤海という国と、その北の黒水靺鞨(こくすいまっかつ)部族たちが立ち上げた国ですよう。この国は「黒水靺鞨」と呼ばれていたようです。
藤原朝狩は、この国の人たちと交易するつもりだったのでござ~♪~ますか?
まず間違いなく、そのつもりだったろうと思います。荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させたやり方を見ると、容易に彼のビジョンが見えてきますよう。
そうでしょうか?
渤海(ぼっかい)【698年建国ー926年滅亡】は、当時、日本と交流するようになっていた。
どうしてでござ~♪~ますか?
7世紀前半になると日本と新羅の関係が悪化した。それで日本は渤海が興(おこ)る前の高句麗と外交関係を強化したのですよう。
同盟を結んで新羅を牽制しようとしたのでござ~♪~ますか?
そうです。その当時、高句麗の東に粛慎(しゅくしん)国がありました。日本ではこれを「みしはせ」と呼んでいた。阿倍比羅夫(ひらふ)の遠征記録を見ると粛慎(みしはせ)が出てきます。当時の大和朝廷が、粛慎と高句麗へ接近を図ろうとしたのですよう。そう言う訳で、高句麗は日本へ使節を18回も送り込んでいます。
日本は高句麗とお友達になった訳でござ~♪~ますわね。
そうです。おそらく卑弥子さんもそうだと思うけれど、学校の日本史では、その当時の東北より北の地域の活動は勉強しなかったと思うのですよう。
そうですわ。アイヌ人を日本人が征伐に行ったぐらいの事しか知りませんわ。
そうでしょう!でも、実は、上の地図を見ても分かるように、東北以北でも活発に活動している人々は居たのですよう。例えば、そのころサハリンには流鬼(りゅうき)と呼ばれる人たちが住んでいた。この人たちは大和朝廷と同じように唐の貞観14年(舒明12年、640年)に長安に朝貢使節を派遣しているのですよう。19年後の斉明5年(659年)には、蝦夷国(えみしのくに、かいのくに)の使節が大和朝廷(倭国)の遣唐使に随行して長安を訪れています。
そのような事は日本史で勉強しませんでしたわ。
当然の事だけれど、渤海は「蝦夷国(かいのくに)」とも交流を持っていた。
日本海をいろいろな国の船が行き来したのでござ~♪~ますわね。
そうですよう。だから、藤原朝狩が生きていたら、「蝦夷国(かいのくに)」、「流鬼(りゅうき)国」、「渤海」、「黒水靺鞨」と活発に交流したと思うのですよう。 そのために朝狩は父親の命令で東北地方に送り込まれたのだと僕は思っているのですよう。
つまり、東日本連合王国の構想を朝狩が抱いていたとデンマンさんは思っているのですか?
そうですよう。 それが僕の言いたかった歴史ロマンですよう。 うししししし。。。
宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんも この歴史ロマンに興味を持ったのでござ~ますか?
もちろんですよ。。。
デンマンさんの
“歴史ロマン”は
とっても面白いと
思いましたわ。。。
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宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんも こうして「面白い」と言ってくれたのですよ。。。 だから、卑弥子さんも 信じてねぇ~。。。
『忘れられた歴史ロマン』より
(2017年6月30日)
現在、バンコク大学で東洋史を勉強している小百合さんと宮城学院女子大学で文学と歴史を勉強していた宮田 由佳里さんは、いまでもメールをやり取りしながら交流を続けているのでござ~ますかァ?
そうなのですよ。。。 小百合さんが東洋史の歴史ロマンについてタームペーパー(Term paper)を書くということを聞いて、由佳里さんがかつて読んだ僕の記事が参考になるだろうと、メールに書いて知らせたのですよ。。。
それで、小百合さんがGOOGLEで検索してデンマンさんの記事を見つけたのでござ~ますか?
そういうことです。。。
ちょっとできすぎているのではござ~ませんかァ?
だから、言ったでしょう! 昔の人は 真実は小説よりも奇なり! と言ったのですよ!
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