盗法秘伝
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デンマンさんは盗みを働いて生計を立てていたのでござ〜ますかァ〜?
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ん。。。? 卑弥子さんは、僕が盗賊のボスだと思っていたのですかァ~?
だってぇ~、デンマンさんは盗賊のボスの地位を子分に譲り、長年にわたって書き留めてきた「盗法秘伝」も子分に伝えたのでしょう?
僕は、北極圏に近いイエローナイフで、ノースウエスト準州の財務省で財務処理のデジタル化の仕事をし、バンクーバーに出てきてからは、経営コンサルタントとして働いていたのですよ。。。
でも、それは表向きの事で、裏の世界では盗賊のボスとして、バンキングシステムの知識をフル活用して、莫大な財産を築いたのでしょう?!
卑弥子さんは、そういう初夢を見たのですかァ~?
夢ではありませんわァ~。。。デンマンさんが裏社会で、人には言えない事をしている、とジュンコさんから聞いたのでござ~ますわァ~。。。
それは、去年の4月1日のエープリルフールの冗談ですよゥ。。。僕が盗賊の親分のはずがないではありませんかァ~!
じゃあ、どういうわけで盗法秘伝というタイトルにしたのでござ~ますかァ~?
先日、古今亭志ん朝さんの次の噺を聴いたからですよ。。。
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盗法秘伝
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ある日平蔵は突然「火付盗賊改め方」の役職を解任された。しかしこれは老中・松平定信が長年にわたり休暇もとらず、命がけの任務を続けてきた平蔵と部下達をしばし休養させたいとする措置であった。
この機会に平蔵は、京都町奉行に赴任した父・宣雄が1年余りで客死し、葬られた京のお寺に墓参する事を願い出て許可された。
数日後の朝、平蔵は留守を妻と長男・辰蔵に頼み、自らは旅を行く剣客か、浪人といった風体ふうていをして、見送りをさけ、目白台の私邸を独り出発した。
ただし既に前日先発した同心・木村忠吾が行先の宿々で平蔵と落ち合い、また先発する形で同行する。
8日目に平蔵は駿河国の難所・宇津の谷や峠を越えた後、山道をかなり下った所でかすかに悲鳴の様なものを聞いた。
だが空耳と思い、下って行くと、左の斜面の林道から人が出てくるので、素早く斜面に身を寄せた。
見るからに無頼共らしい男3人が縛り上げた傷だらけの若い男女をののしり、小突きながら山道を下っていく。
平蔵は縄尻を掴んでいる2人に後ろから忍び寄り、はね飛ばすと同時に左手で抜いた小刀で縄を切り落し、猛然と反撃してくる2人を当身で倒した。
そして残る頭目格に迫り、訳を聞くと、男女は遠州・見付の酒問屋・升屋市五郎方の奉公人だが、主人のお金を盗み、駆け落ちをしたので、頼まれて捕えたという。
確認をすると、わずか2両ではあるが、男が盗んだ事を認めるので、無頼共に再び引かれていくのを平蔵も見送らざるをえない。
その時林道から背が高く、顔の長い老人が現われ、浪人さん、拝見しておりましたが、よくおやんなさったと話かけてきた。
そして、わたしの名は善八といい、この辺りで商売をしているが、升屋市五郎という男は悪い奴で、奉公人に食べる物もろくに与えず、こき使う、あの2人も我慢できず飛び出したのだ、しかしいくらか持っていないと逃げられない、2両を手に入れるのに随分苦労しただろうと盛んに2人に同情をした。
その日、平蔵は岡部の宿の旅籠・島屋で旅装をといたが、善八も勝手に島屋で泊る。風呂場へ入った平蔵へ、浪人さん、夕飯をご一緒に如何でと湯煙の中から声がかかった。いいだろうと答えると、どちらへ行きなさると聞くので、当てはないという。名前も聞かれたが、同心の名前を拝借して、木村平蔵だと告げて、風呂を出た。
間もなく平蔵は善八の部屋に呼ばれ、御馳走になり、退席しようとするや、先程当てがないとおっしゃったが、ひとつ、わしの商売を手伝ってくれませんかという。どんな商売かと聞くと、石川五右衛門のまね事というので、平蔵は俄然興味を覚えた。
そこで平蔵がいろいろ質問すると、わしは独り働きの盗賊だ、宇津谷峠で無頼共をやっつけたお前さんに惚れ込んだ、わしの盗み働きの秘伝をお前さんに伝えたい、しかしその前にお前さんという人を見極めたい、手始めに他人を苦しめ、あこぎな真似をして世を渡る奴共のお金を頂戴する、見付の升屋市五郎は、まだ悪いくせが直らないので、升屋へ忍び込む、それに無頼共は山の中でひどい暴行を加えていた、わしにもう少し力があったら、お前さんが出る前に飛び出していたと善八は答えた。
岡部を発した翌々日の夕暮、平蔵と善八は見付の旅籠・なべ屋へ入った。木村同心は見付の旅籠・大江戸屋に泊り、平蔵を待っている筈であった。この夜善八は升屋の平面図を広げて見せ、5年前に127両頂戴したが、今回は違うやり方でやる、平さんといって平蔵と細かく打合せをした。
翌日の午後、わしが午後2時までに戻らなかったら、平さんは打合せ通りにしてほしいといって善八は升屋へ向った。そして酒の入った角樽を抱え、代金を払った善八はのんびりと茶を飲みながら店の者と世間話をしていたが、午後2時頃ようやく腰をあげ、土間を歩いて北側の戸口へ向い、薄暗い、醸造場へ入り、見えなくなった。
真夜中がきた時、平蔵がなべ屋の裏から出て升屋の北側の戸口に立つと、ぴたりと内側から戸が開く。善八が平蔵を連れて内蔵へ行き、細い火箸と元結もとゆいを巧みに使い、外と内の錠前を難なく外し、欲張っちゃだめだよ、平さんといいながら、千両箱でなく、5、6百両入った金箱を選ぶ。平蔵がそれを担かつぎ上げるや善八はしゃがみ込み、升屋の蔵をうんと汚してやるんだと言って、ウンコをし始めたのである。
蔵の外へ出ると、善八は若い2人が物置に別々にぶちこまれ、縛られて、ろくに食べていないので、逃してやろうといい、間もなく救い出してきた。
そして善八は2人に対し、秋葉山あきばさんの麓の茶店・つたやへ行き、この手紙を渡せば、匿かくまってくれる、わしも2、3日後に追いつき、その時2人の身の振り方を考えてあげようといってお金を与え、逃してやった。
その後善八と平蔵は何くわぬ顔でなべ屋へ戻り、翌朝暗いうちに出発し、東海道を上って行った。升屋がこの盗難と逃走に気が付いたのは昼過ぎであった。
また木村同心は見付で遊びながら待っていたが、平蔵が到着しないので段々と不安になってきた。
善八は浜松の手前で林に入り、昨夜の盗金を隠しに行くので、平蔵のふところに巻きつけたお金を渡す様にいい、その内から50両をポンと渡し、好きに使って下さい、平さんという。
そして浜松を過ぎ、舞坂の旅籠・みょうが屋で待ってほしい、明日の昼頃に必ず追いつくが、これからもわしと一緒にやってくれるかと尋ねる。平蔵がよかろうと答えると、善八は、血を流さず、争わず、無いところから盗とらぬ、女子供に手をつけないで、盗人の本道をまっすぐ歩いていける人でないと30年かけてものにした奥義秘伝を伝えられない、そのうちの初歩のことを岡部の宿で書いておいたので、今夜眼を通して下さいといって、林を出て北の方へ去っていった。
平蔵は林の中で座り込み、帳面を見ると表紙に「盗法秘伝」と書いてあり、つとめをする時は月の出入りの時期をよく知ること、夏の終りの頃がつとめに最もよいこと等と容易ならざる内容である。読み終えた平蔵は浜松の本陣へ行き、見付の木村同心にすぐ舞坂へ来る様手紙を書き、届けてもらうことにした。
翌日の昼過ぎ、舞坂のみょうが屋に善八が現われ、浜松はずれの盗人宿にお金を隠したが、そんな盗人宿が諸国に7ヵ所ある、お前さん次第で皆譲ってもよいというので、平蔵はわざと生きていく張り合いが出てきた、おれも盗みの名人になると答えると善八は大変喜び、今度は部厚い本を出した。
見ると表紙に「お目あて細見(さいけん)」とあり、中には善八が目を付けた32軒の商家等の図面や資料がびっしりと書かれ、これ又容易ならざる内容である。
翌朝、善八と平蔵が旅籠を出た途端、峠にいた無頼共が7人、脇差を抜いて斬りかかってきた。
平蔵は峯打ちで7人をたちまち倒す。
そして2人は舞坂を出て、白須賀の手前の汐見坂にかかった時、平蔵は一休みしようといって林の中へ入り、お目あて細見をもう一度見たいと頼む。
もう平蔵を信じ切った善八はすぐに出すと、平蔵がすぐ懐に入れたので、善八の顔色が変わる。
この時、木村同心が林に入ってきたので、平蔵が大声で呼ぶと、木村は無頼共が町役人に訴えたが、私が役人を取り静めたと報告し、善八には平蔵の身分を明かした。
驚く善八に平蔵はこの細見はおれが預っておく、達者で暮せ、隠居は早い程いいといってさっさと街道へ出た。
10両盗めば死罪の法があるので、木村が何故お見逃しになるかと聞くと、「おれだとて火盗改めの長谷川平蔵ではない平蔵のときもあるわさ」という答えが返ってきた。
デンマンさんは、こういう時代物の噺が好きなのでござ~ますかァ~?
いや。。。特に、こういう江戸時代の噺が好きと言うわけじゃないのです。。。どうして この噺を聴いたのかと言うと、僕は古今亭志ん朝さんのファンなのですよ。。。もう、亡くなって久しいのだけれど、この人の噺をユーチューブで検索して、できるだけ多くのクリップを保存しておいたのです。。。その中に、この噺があったのです。。。たぶん、ラジオ番組に出演した時の録音だと思うのですよ。。。
あたくしの父親は「鬼平犯科帳」がお気に入りで、あたくしが子供の頃に、毎週テレビで欠かさず観ていましたわァ~。。。
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鬼平犯科帳
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『鬼平犯科帳』は、池波正太郎による日本の時代小説。略称は鬼平。
「オール讀物」に連載された。実在の人物である火付盗賊改方長官・長谷川平蔵を主人公とする捕物帳で、同じ池波作である『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』と並んで池波の代表作になっている。
テレビドラマ化・映画化・舞台化・漫画化・テレビアニメ化されている。
2021年2月時点で累計発行部数は3000万部を突破している。
元々、池波は第1作発表以前から長谷川平蔵を主人公とする時代小説を書こうと考えていたが、諸般の事情で実現していなかった。
「オール讀物」1967年12月号に、長谷川平蔵が登場する単発物として「浅草・御厩河岸」が発表された時、担当編集者の花田紀凱に、池波が連載したい旨を伝えたところ、評判が良かったために次号から同誌の巻末を飾る作品としてシリーズ化された(単行本収録時には順番を入れ替えている)。
「鬼平犯科帳」の題名が付されるようになったのは翌1968年1月号掲載の「唖の十蔵」からである。題名を考案したのは花田で、幾つかの案の中から、当時池波が属していた時代小説研究会「新鷹会」で評判になっていた森永種夫の『犯科帳』(岩波新書)から思いついてつけたものを池波が気に入り、この題名となった。
当時同誌の編集長・杉村友一は、師の折口信夫の教えにより、折口が愛読していた野村胡堂の『銭形平次捕物控』のように、雑誌の巻末にあって「オール讀物」の顔となり、読み進んでも読者が失望しないような長期連載の作品が必要だと考えていた。
「浅草・御厩河岸」の好評により、杉村は『鬼平犯科帳』の長期連載を池波に要望した。
こうして、長期にわたる時代小説の連載が行われたのである。
なお、テレビ版製作にあたっては原作をドラマ化するのみに限り、小説を使い尽くしたらそこで打切るようにというのが作者の意向であった。
1968年には文藝春秋から最初の単行本が刊行された。
全部で135作で、ほか番外編が1作ある。
このうち5作が長編、残りの130作が短編作品である。
未完に終ったのは最後の『誘拐』1作のみで、これは作者急逝のためである(「浪人 神谷勝平」の章、神谷が突き出されるように外に出るシーンで途切れ、「作者逝去のため未完」の文が添えられている)。
現在は文春文庫に収められ、全24巻(新装版)で刊行されている。
出典: 「鬼平犯科帳」
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僕は日本で暮らしていた頃、「鬼平犯科帳」は何度か耳にしたことがありました。。。でも、僕はテレビで観たことはなかった。。。主人公の長谷川平蔵が実在の人物だとは思わなかったのですよ。。。
じゃあ、上の噺は初めて聴いたのでござ~ますかァ~?
そうです。。。この話を聴いて、長谷川平蔵に俄然(がぜん)興味を持ちました。。。
長谷川平蔵
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長谷川 宣以(のぶため)は、江戸時代中期の旗本。
寛政の改革期に火付盗賊改役を務め、人足寄場を創設した。通称は平蔵(へいぞう)。
長谷川平蔵の名は、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」[注釈 3]として、日本の時代小説・時代劇ファンに知られている。
延享2年(1745年)、400石の旗本である長谷川平蔵宣雄の長男として生まれる。
母の名は不詳で、『寛政重修諸家譜』には「某氏」と記されているが、研究家の滝川政次郎・釣洋一・西尾忠久は宣雄の領地の農民・戸村品左衛門の娘ではなかったかとしている。
幼名は銕三郎(てつさぶろう)、あるいは銕次郎(てつじろう)(銕は鉄の異体字)。
明和5年(1768年)12月5日、23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治に御目見し、長谷川家の家督相続人となる。
時期は不明であるが旗本の大橋与惣兵衛親英の娘と結婚し、明和8年(1771年)に嫡男である宣義を授かっている。
青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたと記録にある。
父の宣雄は小十人頭、先手弓頭を経て安永元年(1772年)10月に京都町奉行の役に就き、宣以も妻子と共に京都に赴く。
安永2年(1773年)6月22日、宣雄が京都で死去した。
宣以は父の部下の与力・同心たちに「まあ皆さんがんばってください。私は江戸で英傑といわれるようになってみせる」と豪語して江戸に戻った。
同年9月8日に30歳で長谷川家の家督を継いで通称を父と同じ平蔵に改め、小普請組支配長田備中守組に入った。
小普請時代の宣以は、父が貯めた金も使い果たし、遊廓へ通いつめて当時はやりの「大通」といわれた粋な服装をしていたと伝えられるが、家督を継承した翌年の安永3年(1774年)には400石取りの旗本が幕府の役職に初めて就く場合の一般的なコースである両番(書院番・小姓組)への番入りを果たし、西丸書院番(将軍世子の居住する江戸城西ノ丸御殿に配置された書院番)の番士に任ぜられた。
翌年には儀礼の場での贈答品を周旋する進物番への出役を命ぜられる。
天明4年(1784年)、39歳で徒歩組の指揮官である西丸徒頭、天明6年(1786年)、41歳で番方(武官)の要職である先手弓頭に任ぜられた。
天明7年(1787年)9月9日、42歳の時に宣以は定信の人事で先手頭の中から冬期に限って兼務を命じられる火付盗賊改方の当分加役となり、翌年8年(1788年)4月に加役を免じられた後、同年10月、先手頭1名が通年で兼務する本役の火付盗賊改方加役となった。
『よしの冊子』(松平定信の家臣・水野為長が、世情を定信に伝えるために記録した風聞書)によると、宣以の評判は悪く「長谷川宣以のようなものを、なんで加役に仰せ付けるのか」と同僚の旗本たちは口々に不満を訴えたという。
宣以は部下の与力や同心達に厭わず酒食を与え、町方の者が盗賊を連れてくれば気前よく蕎麦などを振舞った。
庶民からは「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれ、非常に人気があった。
「よしの冊子」には当時のことを長谷川はさして評判がよくなかったが町方で受けがよく、定信も「平蔵ならば」と言うようになったと書かれている。
寛政元年(1789年)4月、関八州を荒らしまわっていた大盗、神道(真刀・神稲)徳次郎一味を一網打尽にし、その勇名を天下に響き渡らせる。
また、寛政3年5月3日(1791年6月4日)には、江戸市中で強盗および婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕、斬首した。
逮捕後わずか10日という異例の速さで処刑している。
寛政元年(1789年)、老中・松平定信に人足寄場設置を建言し認められ寄場建設運営の指揮を執り、江戸石川島に収容所を設け,無宿人,刑期を終えた浮浪人などに大工,建具,塗物などの技術を修得させ,その更生をはかった。
宣以は町奉行になることを望んでおり、寛政3年、町奉行が空席になると宣以が下馬評にあがったが最終的に別の者が奉行になった。
宣以が奉行になれなかった理由は番方の先手頭の兼職である火付盗賊改から町奉行になるという先例がなく、町奉行になるための慣例である目付を務めた経験もなかったからだった。
宣以はどれだけ出精しても出世できないことを愚痴り、「越中殿(定信)の信頼だけが心の支え」と勤務に励んでいたという。
だが、その頼みとした定信も寛政5年(1793年)に失脚した。
寛政7年(1795年)、50歳で病気となり、11代将軍・家斉からねんごろな労いの言葉を受け、「瓊玉膏」(けいぎょくこう)を下賜されたが、間もなく死去した。
出典: 「長谷川 宣以」
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50歳で亡くなっているのですよ。。。
今でこそ、50歳は若いですけれど、当時とすれば人生50年でしたから、寿命を全うして亡くなったのだと思いますわァ~。。。それに、将軍様から直々(じきじき)に「瓊玉膏」(けいぎょくこう)というお薬を頂いたのですから、本人は満足してあの世に逝ったと思いますわァ~。。。
僕は、名前は聞いたことがあるけれど、話を聴いたのは、古今亭志ん朝さんの落語を聴いたのが初めてなのですよ。。。長谷川平蔵の話が落語になったり、マンガや、小説になったり、アニメになったりしているのだから、それだけ人気のある人物なのですねぇ~。。。
デンマンさんは歴史オタクだから、老中・松平定信の時代に「人足寄場」が設置されたことはご存じなのでしょう?
もちろん知ってました。。。
長谷川平蔵が松平定信に「人足寄場」を設(もう)けるように進言したということまでは知らなかったのでござ~ますか?
それまでは知りませんでした。。。長谷川平蔵の名前は聞いていたけれど実在の人物だとは思わなかった。。。『鬼平犯科帳』も、名前は聞いたことがるけれど、テレビで観たことはなかった。。。
歴史オタクのデンマンさんでも、盲点と言うものがあるのでござ~ますわねぇ~。。。
当然ですよ。。。何もかも知ろうなんて無理な事ですからねぇ~。。。
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【ジューンの独り言】
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ですってぇ~。。。
あなたは、長谷川平蔵が老中・松平定信に人足寄場設置を建言し、運営の指揮を執り、江戸石川島に収容所を設け,無宿人,刑期を終えた浮浪人などに大工,建具,塗物などの技術を修得させ,その更生をはかった、という事を知っていましたか?
ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」
貴方が、そう言うのであれば、デンマンさんがピンタレストで「ランジェリー 下着」のページを立ち上げました。。。
覗いてみてください。。。男性ならば、ムンムン、ムレムレになって元気をだしてください。。。
女性であれば、若い頃を思い出して、若やいだ気分になってくださいねぇ~。。。
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■『拡大する』
■『実際のページ』
ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」
貴方は、そのようなムカついた口調で 更に、あたくしに御命令するのですかァ~?
分かりましたわァ~。。。
じゃあ、ショッキングなニュースでもお伝えします。。。
かつて「セサミストリート」で子どもたちに慕われていた人気者のビル・コスビーは、芸能界では幅を利(き)かせて大きな“権力”を握り、百人近い女性に対してセックスを迫ったのです。。。
子どもたちに性的ないたずらをしなかったことが せめてもの罪ほろぼしですわァ~。。。
ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」
あなたは、そのような強い口調で 更に あたくしに ご命令なさるのですかァ~?
分かりましたわァ。。。。
では、あなたもビックリするような
忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。
なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!
無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。
つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。
浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)がどうしてヘマをしでかしたのか?
そのへんのところが詳しく映像に残っております。
観るだけの値打ちがありますわ。。。
では、どうぞ。。。
ところで、どうして小百合さんが
「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
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あなたは ご存知ですかァ?
実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわァ。
そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。
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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。
そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。
軽井沢・雲場池の紅葉
軽井沢のイルミネーション
秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。
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