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イソップ物語@江戸

2024-10-18 01:19:22 | 歴史四方山話
 
イソップ物語@江戸

 


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デンマンさん。。。、江戸時代に「イソップ物語」という本があったのでござ~♪~ますかァ~?



現在手に入る「イソップ物語」というタイトルの本はなかったのだけれど、その原本の中のエピソードを取り上げて編集した「伊曽保(いそほ)物語」という本が江戸時代にはあったのですよ。。。

 



イソップ物語を読んでいた

江戸っ子たち


 


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近代の「開国」とは、近世「鎖国」体制の延長に過ぎない、と先述した。
江戸時代は、鎖国イメージもあって、「純粋日本人」のイメージで語る人がいる。
しかし、江戸時代が「純粋日本人社会」だったかと言うと、そのようなことはない。

まず、朝鮮系の人々が住んでいた。
もともと彼らの多くは、朝鮮の官僚、学者、技術者などであり、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際、日本に強制的に連れてこられたのである。
その後、朝鮮人の子孫が絶えると、その家に日本人が養子として入り、存続させる。
名字が珍しいと日常会話の種にもなった。
他に、江戸時代には、アイヌや琉球の人たちも列島社会に居住していた。

西洋の文物も、幕府許可のもと、ある程度入ってきた。
江戸の人々は、「伊曽保(いそほ)物語」を読み、キリスト教の知識もあった

幕末期アメリカに密航する上野安中藩の新島襄は、若い頃友人からキリスト教の翻訳書を借りて勉強した。
彼は、これらの本を読んでキリスト教に興味を持ち、渡米を決意する。

その後、函館での潜伏を経て、国禁を犯して渡米するが、なんと新島襄はアメリカで、国元(上野安中藩領)の実家と手紙を交わしている
幕府が倒れたこともアメリカにいながら知っており、帰国した際に、禁を犯した彼を家族が追い払うこともなかった。

今日、長崎には仏教の戒名とともに「パウロ」などの聖名が刻まれている墓がある。
弾圧は厳しかったが、隠れ(潜伏)キリシタンたちが異文化を伝えていた。

平賀源内が欄画を描き、蘭方医も居た。
キリスト教の知識や教養、それに付随する外国文化に、江戸の人々は触れる機会があったのである。

長崎にはオランダ商館長がいる出島があり、中国商人たちが活躍する唐人屋敷もあった。
吉田松蔭や坂本龍馬は長崎で外国人と会っていた。
長州からは、伊藤博文や井上馨ら「長州五傑」がロンドンに留学した。

諸外国から日本に入ってくる文物については、検閲を受けたが、庶民は貪欲にこれを求めた。
将軍の侍医は漢方医が占めていたが、やがて蘭方医が加わる。
江戸社会にはそうした幅があった。
明治維新で開放されたのではなく、リアル江戸は、外国文化もとり入れていた。




(写真はデンマン・ライブラリーより)

pp. 108-109『日本史の論点』
2018年8月30日 再版
編者 中公新書編集部
発行所 中央公論新社


 



卑弥子さんは、「イソップ物語」を読んだことがありますか?



もちろん読みましたわ。。。でも、それはイソップ物語の絵本でしたわ。

 


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私が幼稚園に通っていた頃でござ〜ますゥ。。。だから、イソップ物語というのは日本の昔話を集めたものだと長い間思い込んでいたのですわァ〜。。。



実は、僕もイソップ物語というのはヨーロッパの昔話を集めた本だと思っていたのですよ。。。まさか紀元前6世紀のギリシャの奴隷が作った寓話だとは思いませんでした。

 



イソップ物語

 


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イソップ物語は、アイソーポス(イソップ)が作ったとされる寓話。
特に動物、生活雑貨(例えば、瀬戸物と金物など)、自然現象(太陽と風)、様々な人々(旅人など)を主人公にしたものが有名で、イソップ寓話・イソップ童話等と呼ばれることもある。

 

成立

ヘロドトスの『歴史』によると、紀元前6世紀にアイソーポス(イソップ)という奴隷がいて話を作ったとされるが、現在イソップ寓話に含められているものの中にイソップ本人に由来することを実証できる作品はひとつもない。

ベン・エドウィン・ペリーのモデルによると、イソップ寓話の形成には3つの段階が認められる。

第1期にはいろいろな作家や弁論家が説得の手段として寓話を援用していた。

ヘレニズム時代は第2期で、作家や弁論家に素材を提供するため、それらの寓話をひとつにまとめた散文の寓話集が成立した。

第3期には寓話集が韻文に書き改められ、単なる素材ではなく文学としての寓話集が成立した。

このうち、古代の散発的な寓話の引用は18例ほどが認められる。
散文の寓話集としてはパレロンのデメトリオスによる『イソップ集成』(Αἰσώπεια)という書物があったと伝えられるが、現存していない。

現存するギリシア語による寓話集としては、アウクスブルク校訂本(校訂本I、231話)を最古のものとして、校訂本Ia(140話あまり)、ウィーン写本130(12-13世紀、130話)を代表とする校訂本II、アックルシウス版(1479年出版、校訂本III、127話)などの諸本に分かれる。

第3期の韻文寓話集は1世紀前半のパエドルスによるラテン語韻文の5巻94話からなる寓話集と、1世紀後半ごろのバブリオスによるギリシア語韻文による寓話集(現存するのは韻文143話、そのほかに散文にパラフレーズされたものが57話)がある。

現在のイソップ寓話の校訂本は、上記のアウクスブルク校訂本を基本として、パエドルスやバブリオスに由来するもの他を合わせた集積物であり、収録する話数はまちまちである。

代表的なものとしてドイツのカール・ハルム版(1852年・426話)、フランスのエミル・シャンブリ版(1927年・358話)、ドイツのアウグスト・ハウスラート版(1956/1957年・346話あまり)、アメリカのベン・エドウィン・ペリーの『アエソピカ』(1955年・725話)などがある。

イソップ寓話の中にはシュメールやアッカドにまでさかのぼるオリエントや古代エジプトと共通する話や、インドのジャータカやパンチャタントラと明らかに共通する話が見られる。
しかしながらどちらがどちらに影響したかを言うのは難しい


 

翻訳

日本では、イエズス会の宣教師が天草にあったコレジオ(イエズス会の学校)で印刷したキリシタン版『エソポのハブラス (ESOPO NO FABVLAS)』(文禄2年、1593年)が最初のもので、現在大英図書館が所蔵している。

この本はローマ字書きの口語で記され、2巻から構成され、上巻にイソップ伝と25話、下巻に45話を収録している。
これは最初に日本語に翻訳された西洋の書物である。

江戸時代初期には慶長・元和・寛永の古活字本および万治2年(1659年)の挿絵入り整版本で知られる『伊曾保物語』が出版されたが、こちらは文語訳で3巻からなり、上巻の全20話と中巻全40話のうち9話までがイソップ伝、それ以外の寓話は中巻の10話以降と下巻全32話の合計63話である。

『エソポのハブラス』の上巻と『伊曾保物語』の下巻第1話まではだいたい共通の話が取られているが、筋はかなり異なっていることが多い。
またそれ以降の部分は共通しない。

両者ともシュタインヘーヴェル集と関係があり、特に『伊曾保物語』はシュタインヘーヴェル集の抄訳とも言えるものだった。
しかしこれらの翻訳は必ずしも普及しなかったようである。

明治になってから英語からの翻訳が進んだ。
チェンバースの教科書の翻訳である福沢諭吉『童蒙教草』(1872年)は12話ほどのイソップ寓話を含む。

幕臣出身の学者で沼津兵学校校長だった渡部温の『通俗伊蘇普物語』(平凡社東洋文庫に収録)がベストセラーとなり、国語や修身の教科書に取り入れられ、広く親しまれるようになった。

20世紀に入ると上田万年『新訳伊蘇普物語』(1908年)、巌谷小波『イソップお伽噺』(1911年)、楠山正雄『イソップ物語』(1916年)、『世界童話大系』第1巻に収める山崎光子訳(1925年)、新村出『イソップ物語』(1929年)などの翻訳がある。

第二次世界大戦後には川端康成や与田準一の子供向けの翻訳が出現した。
原典の校訂本にもとづく翻訳としては山本光雄訳『イソップ寓話集』(岩波文庫1942年初版、1974年改版)、河野与一訳『イソップのお話』(岩波少年文庫1955年)、二宮フサ訳『イソップの寓話』(白水社1971年)、渡辺和雄訳『イソップ寓話集』(小学館1982年)、塚崎幹夫訳『新訳 イソップ寓話集』(中公文庫1987年)などが出版された。

 

主なイソップ寓話

上記のようにイソップ寓話は数百篇あり、かつ編者によって収録する話に違いがある。
以下は河野与一編訳の岩波少年文庫本で「有名なおはなし」というカテゴリに入れられた15話である。

カラスとキツネ
アリとキリギリス(「セミとアリ」の題で収録)
肉をくわえたイヌ
キツネとブドウ

野ネズミと家ネズミ
ライオンとネズミ
北風と太陽
塩を運んでいるロバ
王さまをほしがっているカエル
棒のおしえ
漁師と大きい魚(さかな)と小さい魚 (Perry 282)
ウサギとカメ
旅人とクマ
木こりとヘルメス
うそつきの子ども

河野の本はカール・ハルム校訂本およびエミル・シャンブリ校訂本から300話を選んでいるが、これらの校訂本に載っていないものの日本では有名な話として以下の2話をあげる。

ネズミの会議
ウマを売りにいく親子




出典: 「イソップ寓話」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



江戸時代の人々が読んだのは次ような文語調の物語なんですよ。。。

 




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第十三 犬しゝむらの事

ある犬しゝむらをくはへて川をわたる、眞中にて其かげ水にうつりて、大きに見えければ、我くはゆる所のしゝむらより大成と心得て、是を捨てかれをとらんとす、故に二つながら是をうしなふ、其ごとく、重欲心の輩は、他のたからをうらやみ、ことにふれて貪ぼるほどに、たちまち天罰をかうぶり、我持所の寶をも失事あり、




伊曾保物語(中)
『伊曾保物語』より


 



卑弥子さんは京都の女子大学で腐女子たちに「源氏物語と日本文化」を講義しているので文語文に関しても詳しいでしょう。。。上のエピソードを現代語に訳してくださいよ。。。



分かりましたわ。。。現代語に訳すと次のようになると思います。。。

 




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第13 犬と肉

ある犬が肉をくわえて川をわたります。橋の真ん中にさしかかると犬は水面を見下ろしました。すると水の中にも肉をくわえた犬が居るのです。
水の中の犬は自分よりも大きな肉をくわえているように見える。それで自分の肉を捨てて、水の中の犬の肉を取ろうとした。
ところが、取ることができず、結局、2つの肉とも失ってしまった。

このように欲深な者は、他の宝をうらやましく思い、それを取ろうとすると、たちまち天罰を受けることになり、自分の宝まで失ってしまうものです。


 



なるほどォ〜。。。卑弥子さんの現代語訳を読んで、僕はこの話を子供の頃に読んだのを思い出しましたよ。。。

 


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「北風と太陽」や「酸っぱい葡萄(キツネとブドウ)」、「ウサギとカメ」、「うそつきの子ども」、「ウマを売りにいく親子」も「イソップ物語」の寓話なんですねぇ〜。。。



それは、ほぼ現代の常識ではありませんかァ〜?

僕は、改めて、そう思ったのですよ。。。子供の頃にも、上の最初の2つの寓話はイソップ物語から取ったのだということを聞いた覚えがあります。。。ところで、冒頭で引用した『日本史の論点』を読んで僕が驚いたのは、新島襄はアメリカで、国元(上野安中藩領)の実家と手紙を交わしていると書いてあることですよ。。。当時は鎖国していたでしょう。。。アメリカで書いた手紙が、江戸時代に どのようにして安中藩の新島襄の実家に届いたのか? 不思議だとは思いませんか?

そうですわねぇ〜。。。鎖国していたのに、どういうわけで外国からお手紙が届くのでございましょうかァ〜?

 



新島襄

誕生:1843年2月12日(天保14年1月14日)
死亡:1890年(明治23年)1月23日)

 


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新島襄と妻の八重

 

新島 襄(Joseph Hardy Neesima)は、幕末から明治時代のクリスチャン、教育者である。
出生名は七五三太(しめた)、諱は敬幹(けいかん)。

江戸時代の1864年(元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けてフィリップス・アカデミー(高校)、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学ぶ。

改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。
日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。

新島家は元々中島家を名乗っており、安中氏の家臣だったが永禄6年(1563年)に安中城が落城した際に郷原村に土着し農民となったという。

宝暦年間(1751年 - 1764年)に中島磯八が板倉勝清に召し出され安中藩の足軽になった。
磯八の長男・忠七も安中藩の足軽・同心を勤めたが文化10年(1813年)に刃傷事件を起こし家出したため忠七の跡取り・秀八も押込を命じられた。
翌年許された中島秀八は名を新島弁治に改め、のちに徒士格取立となった。弁治の子・民治が襄の父である。

 

幼少時代

天保14年1月14日(1843年2月12日)、江戸(現・東京都区部)の神田にあった上州安中藩江戸上屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる。
母は武州浦和宿のとみ。通称は七五三太(しめた)。

祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたとも、正月の注連縄が張ってあったことにちなむとも言われる。

安政3年(1857年)、学者大名として知られた安中藩主・板倉勝明の命で菅沼総蔵・岡村喜四郎とともに田島順輔から蘭学を学ぶ。
翌年4月、板倉勝明が死去、12月15日に元服する。
田島順輔が長崎に出張し蘭学を学ぶのをやめ、翌年から川田剛に漢学の教えを受けた。

万延元年(1860年)11月に幕府の軍艦操練所に入学し、航海術・英学・数学などを学んだ。
また文久2年(1862年)9月甲賀源吾に入門し西洋兵学や測量術・算術を学ぶことを藩に願い出て許可されている。

この頃『聯邦志略』を読みアメリカ合衆国の大統領制を知り衝撃を受ける

ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船していたこともあり、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ。

 

函館潜伏 - 渡米

元治元年(1864年)、アメリカ合衆国への渡航を画策し、「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かう。

箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。
ニコライは新島から日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ彼に自分の弟子になるよう勧めたが新島のアメリカ行きの意思は変わらずニコライはそれに折れ、坂本龍馬の従兄である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に新島の密航に協力した。

6月14日(7月18日)、函館港から米船ベルリン号で出国する。
ベルリン号の中で新島は武士の命とされるまげを切り落とした。

上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗った

ワイルド・ローヴァー号の中では船長に上海で乗せてくれたお礼にと自分が持っていた長い刀をわたした。
そのお返しに英語訳の聖書をくれた。
1865年(慶応元年)7月20日ボストン着。

ワイルド・ローヴァー号の船主、アルフィーアス・ハーディー夫妻の援助をうけ、1865年10月30日、ハーディーが理事を務めるフィリップス・アカデミーに入学することができた。

 

岩倉使節団

 


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1866年(慶応2年)12月30日、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける。
翌1867年(慶応3年)6月にフィリップス・アカデミーを卒業。

1870年(明治3年)7月14日にアイビーリーグと同等レベルのリベラルアーツカレッジのトップ3の一つで、リトルアイビーと呼ばれる名門校アーモスト大学を卒業(理学士)。
これは日本人初の学士の学位取得であった。

新島は大学で自然科学系地質学(鉱物学)を専攻していた。
アーモスト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていた。
クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなった。

また、同大学では哲学教授ジュリアス・シーリーからも影響を受けている。
同年9月、アンドヴァー神学校に入学。

当初、密航者として渡米した襄であったが、1871年(明治4年)3月15日にワシントン駐在少弁務使・森有礼に面会し、8月22日に留学免許状とパスポートを送られ正式な留学生として認可された。

明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会う。
新島襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、4月16日から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させた

襄は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねた。
その後ベルリンに戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。
これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。
また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官・田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を調査した。




出典: 「新島襄」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



新島襄がアメリカで書いた手紙は岩倉使節団がアメリカにやって来た時に、通訳として行動を共にしていたので、その時に木戸孝允に手渡したのですわ。。。



確かに、書き溜めていたいくつかの手紙は、その時に木戸孝允に手渡したかもしれません。。。でもねぇ、その時一度だけではないと思うのですよ。。。使節団がアメリカを出発してからは、どのようにして新島襄は手紙を日本へ出すことができたのか?

留学生が帰国する時に、手渡したのだと思いますわ。。。

だけど、留学生は半年や1年で日本へ帰国するわけじゃない。。。例えば、津田塾大学を設立した津田梅子なんか10年以上経ってから日本へ帰ったのです。。。その間、新島襄は、どのようにして日本へ手紙を届けたのか?

デンマンさんには、何か考えがあるのでしょう? 焦らさないで教えて下さいなァ。。。

あのねぇ〜、当時、鎖国中の日本と交流があったのはオランダです。。。だから、オランダに駐在している宣教師に手紙を出し、オランダから長崎にあるオランダ商館に手紙を届けてもらい、そこから安中の新島襄の実家に手紙を届けてもらったのです。。。

なるほどォ〜。。。鎖国とは言え、抜け道は色々とあったのでござ〜ましょうねぇ〜。。。

完全に国を閉ざすのは無理ですよ。。。そもそも、新島襄は国禁を犯してアメリカに渡ったのだから。。。新島襄以外にも歴史に名前を残してないけれど、江戸時代にアメリカやヨーロッパに密航して、そこの国で亡くなった人は、けっこう居ると思います。。。僕も死んだらカナダの土になるつもりですから。。。いつの時代にも、海外に出て行く人はいるものです。。。



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【卑弥子の独り言】



 

ですってぇ~。。。

あなたも海外に出てゆきたいと思ったことはありますか?

ええっ。。。「そんな事はどうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたくしに御命令なさるのでござ~ますかァ~?

分かりましたわ。。。

デンマンさんが10年以上も前にアンケートを作りました。

 


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『拡大する』


『もう一度クリスマスのページ』

 

上のリンクをクリックすると、

左側のサイドコラムにたくさんの質問が出てきます。

ひとつひとつ見ながら ぜひアンケートに答えてみてください。

じゃあ、また。。。






ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

“本音と建前”

よく聞きますよね。

さて、英語で何と言うのでしょうか?

考えてみた事がありますか?

いろいろと言い方があると思います。

appearance and reality

見かけと実物そのまま


これも本音と建前と言い換えることができますよね。

form and substance

外観と実体


これも本音と建前と同じですよね。

one's real intention and

what one says on the surface


本音と建前を説明しているのですよね。

real motive and stated reason

これも間違いなく本音と建前ですよね。

what one says and what one means

本音と建前をこのように言うこともできますよね。

では、「本音と建前を使い分ける」を

英語でどのように言うのでしょうか?

ちょっと考えてみてください。



次のように言うことができます。

You should be tactful as to

when to tell real intention

and when to show form.


ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。









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