ミューズィック(PART 1 OF 4)
Subj:
小百合さん、おはよう!
夕べ小百合さんの夢を見ましたよう!
きゃはははは…
From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: 28/11/2010 5:29:09 PM
Pacific Standard Time
日本時間:11月29日(月)午前10時29分
パリのセーヌ川の右岸を小百合さんと一緒に歩いているのです。
空は抜けるように青くて
どこからともなくイヴ・モンタンの歌う「枯れ葉」が聞こえてくるのですよう。
もう、僕は感激ですよう!
■「シャンソン - 枯葉」
ロマンチックでもあり、またメランコリックでもあり、
何とも言えなく いいですよねぇ~。
僕は、当然、小百合さんの腰に手を回すのですよう。
うししししし。。。
「デンマンさん!くすぐったいから、お尻に手を当てないでねぇ~」
小百合さんは、半分白けたように僕を見つめて、そう言うのですよう。
でも、僕は何と言われようと、もう、うれしくて、うれしくて仕方がないのですよう。
パリのセーヌ川のプロムナードを小百合さんと一緒に散歩しているのですからねぇ。
これ以上のロマンはないのではないかと、僕はもうウキウキ、ドキドキ、ウハウハしているのです。
きゃはははは。。。
夢を見ているのに、僕自身はマジで現実のつもりなのですよう。
夢を見ているなんて、僕自身は少しも思っていない!
そのくせ、夢の中で、「これは夢じゃないの!?」
そう思っているのだから、今から思い出すと、しまりのない夢でしたよう。
「小百合さん、せっかくパリにやって来たのだから、この辺で Hよりも感じるハグをしませんか?」
僕が、そう言うと、小百合さんはニッコリするのだけれど、僕が抱きしめようとすると、するりと僕の腕から抜け出てしまうのですよう。
「小百合さん。。。そのように恥ずかしがらなくてもいいではありませんか? 僕も小百合さんもパリに居るのですから。。。さあ、記念に心を込めてハグしましょうね」
僕がそう言うと、小百合さんは、ちょっとムカついて言うのですよう。
「デンマンさん! 日本人の団体の観光客の人たちがジロジロ見てるわ。 ほら、あそこ。。。だから、おやめになってぇ~」
小百合さんの指差す方を見ると、旗を振っている添乗員の後を、山梨県の山奥の方からやって来た、団体のおじさん、おばさんたちが、僕と小百合さんを確かにジロジロ見てるのですよう。
やっぱり、パリも日本人の観光客の人たちで、ごった返しているのですよう。うもお~~。
「あらっ。。。デンマンさん。。。こんな所にインドカレーのお店がありますわ」
小百合さんが、そう言ったので指差す方を見ると、なんと、利根川を渡った所にある千代田町の本場のインドカレーの店があるではないですか!
小百合さんは、パリでも本場のインドカレーが食べられると、大喜びで店の中に入ってしまいました。
パリに来てまでインドカレーはねえだろう!?
僕は、カレーを食べ飽きているので心の中で、そう叫びましたよう。
でも、小百合さんが店の中に入ってしまったので、僕が一人で外に居るのもバカバカしいので、仕方なく入りましたよう。
そしたら、なんと千代田町のあの店に居たナナさんが居るではありませんか!
ナナさんは、インド生まれインド育ちなのに、日本語がうまいのですよう。
小百合さんと楽しそうに再会を喜び合っているではありませんか!
「ナナさん、いつパリに支店を出したの?」
「あらっ。。。デンマンさんもパリにやって来たのですか? パリのこのお店が本店で、日本の千代田町にあるお店の方が支店なのですわよう」
相変わらず愛嬌があって、ニコニコと笑顔を振りまいている様子は、インドの「愛の女神」かと思うほど、彼女の愛の精神が伝わってきますよう。
「デンマンさん。。。あの時は“激辛”を食べたのに、あまり辛くはないと言ってましたよね。 だから、今日は“超激辛”を食べてみてくださいな」
もう、こうなったら、“超激辛”でも、“めちゃ超激辛”でも、ナナさんの薦める物を何でも食べようと思いました。
その時、近くのテーブルで食べている女性二人が楽しそうに笑いながら僕を見ているのに気づいたのですよう。
なんと、ブルックリンのマリアさんと、カナダのマルサの女・ナンシーさんですよう。
いくらなんでも、これはできすぎているよ!
パリに千代田町のインドカレーの店があり、
しかも、ナナさんが居るのは偶然としても、
こともあろうに、ブルックリンのマリアさんが居るのは偶然にしてはできすぎている。
さらに、小百合さんがパリにやって来たのをかぎつけて、カナダのマルサの女・ナンシーさんまでがパリにやって来たなんて、絶対に信じられない。
「小百合さん。。。これは絶対に夢だよう! 夢か現実か?見極めるために、ちょっと僕のほっぺたをつねってみてよ」
僕は小百合さんに向かって、そう言ったのです。
「分かりましたわ」 小百合さんは、そう言うと思いっきり僕のほっぺたをつねったのですよう。んもお~~。。。
その痛さで目が覚めたと言う訳です。
うしししし。。。
考えてみたら、小百合さんにメールを書いてまで話すような夢ではなかったですよね。(爆笑)
でも、夢の中で小百合さんに会えてうれしかったですよう。
小百合さんも、軽井沢タリアセン夫人になりきって、たまには僕の夢でも見てね。
きゃはははは。。。
じゃあねぇ。
『パリの空の下で (2010年12月1日)』より
デンマンさん。。。去年のメールなどを持ち出してきて、何を始めるつもりなのですか?
あのねぇ~、たまたま上のメールを読んだのですよう。 急に懐かしくなってね。
懐かしくなったも何も、まだ1ヶ月ほど前のメールではありませんか!?
そうですよう。 でもねぇ、『小泉八雲と日本』を読んでいたら、偶然と言うには、ちょっと不思議なのだけれど、やっぱり音楽のことが出てきたのですよう。
それは、不思議でも何でもなくて、ただの偶然ですわ。
小百合さんは、まったく夢もロマンもないような味気ないことを言うのですね。
だってぇ~、夢のような事を書いてメールを寄越すのですもの。。。ちょっとうんざりしたというか、げっそりしましたわ。
そんな事はないでしょう。。。面白かったでしょう?
別に、それほど面白いとは思いませんでしたわ。 夢の話など、本人以外は、さして面白くないものですわ。。。それで、見慣れない『ミューズィック』などというタイトルを貼り付けて、デンマンさんは一体何を始めるのですか?
あのねぇ、すでに書いたように、最近、僕は『小泉八雲と日本』を読んでいるのですよ。
上のリストの中のどの本ですか?
13番ですよう。
でも、もうずいぶん前のリストですわ。
僕は、また借りてきたのですよう。
確かに、近頃、デンマンさんの記事の中に、その本からの引用が多いですわね。 デンマンさんは小泉八雲にハマッてしまったのですか?
最近読んだ本の中では、最も興味深い人物なのですよう。
どういうところが。。。?
日本人の女性と結婚して、しかも日本に帰化した。それも明治29(1896)年1月に帰化したのですよう。。。日清戦争が終わった翌年のことですよ。 外国人が日本に帰化して、現在、日本人の間で知られている人物は、おそらく小泉八雲以外に居ないのではないか? 小百合さんは小泉八雲以外の人物を知っていますか?
いいえ。。。知りませんわ。
当時は人種差別が当たり前のような時代だったから、日本人の女性と正式に結婚するだけでも変わり者と思われていたのに、白人とは文化的にも人種的にも一段も二段も低いと見なされていた日本人が住む日本に帰化するなんて例外中の例外だと思いますよ。
つまり、小泉八雲は仲間から村八分にされてしまったのですか?
実際に仲間から排斥されたわけではないけれど、それ以来、八雲の外国人仲間との交際範囲が急に狭くなったそうですよ。
八雲が、そういう“変人”だから、デンマンさんは逆に興味を持つのですか?
そうですよ。。。僕は人生の半分以上を海外で暮らしてきましたからね。 だから、小泉八雲の気持ちや考え方に共感する部分がかなりありますよう。
たとえば、どんなところですか?
共感するというより、まず感心するのは、当時、日本は西洋文化の全盛時代だったのに小泉八雲は人種差別を越えて、数段低いと見なされていた日本文化を見下すこともなく、日本人以上に日本人になってしまったところがあった。
たとえば。。。?
明治25(1892)年2月12日、八雲はチェンバレン氏に次のような手紙を書いているのですよ。
私が次のように申しあげるのをお聞きになったら、貴男はさぞ、ぞっとなさるでしょう。 つまり私には洗練された音楽的感覚というものが全然ないので、ワーグナーや知的な音楽を楽しみことが出来ないということです。 音楽的感覚というものは、勉強と機会によって徐々に習得されねばならないと聞いております。 これだけ申しあげてしまったのですから、もう少し申しあげましょう。
私は、日本人のプロの音楽、即ち、声楽を好きになれないのです。 私は、農民の震える声が、時々奇妙に絶叫するかのように破裂し、各所で途切れてメロディが小間切れになる、あの長く尾を引く哀調が好きなんです。 私は、これら歌の中には、非常に美しい、蝉や野鳥の歌さながらに、自然に思われる強烈なものを感じます。
(中略)
農民の歌には、庶民の心が感じられますが軍歌にはそれがありません。
232 - 233ページ 『小泉八雲と日本』
編著者:西野影四郎
2009年2月15日発行
発行所:株式会社 伊勢新聞社
この手紙に、八雲が日本人以上に日本人になってしまったところがあるのですか?
だってぇ、そうでしょう。。。とにかく明治時代になると文明開化で、日本的なものが見捨てられて、何でもかんでも西洋的なものを貴重なものとして受け入れていたのですよう。 チョンマゲは切るし、刀は駄目だということになり、猫もミーちゃんハーちゃんも西洋的なものを真似して着るようになった。 鹿鳴館などは、その最たるものですよう。 いわゆる日本の上流社会の人たちがドレスや燕尾服を着て社交ダンスを踊ったりした。 イギリスの大衆新聞などでは、日本人が猿真似していると馬鹿にしていた。
つまり、そのような西洋志向な風潮の中で八雲が農民の間で歌われている民謡に、素晴らしいものを感じていることに、デンマンさんは感動したのですか?
そうですよう。 日本人が日本の伝統的なものを捨てて、何でもかんでも西洋的なものを真似しようとしているときに、八雲は日本の素晴らしいものを見い出していた。
それは、外国人にとって日本の風物や伝統的なものが珍しいと思える程度のことではないのですか?
あのねぇ~、確かに外国人にとって日本の浮世絵とか民謡などは珍しいでしょう。 でもねぇ、同じ外人でも、たいていの人はチェンバレン氏のように考えていたようです。 彼は次のように書いてるのですよう。
もしミューズィックという美しい言葉を、東洋人が楽器をギーギー鳴らしたり、声をキーキー張り上げることまで意味するほど低下させて用いなければならぬとするならば、日本には神話時代から音楽が存在したと考えてもよい。
(中略)
日本はいつの日にか、新しい第九交響曲を持って世界の人たちを魅了することがあるであろうか。 それとも、ただ俗悪な歌曲に沈溺して終わるであろうか。 著者はここに大胆な予想をするつもりはないが、期待されるところはきわめて少ないといわざるをえない。 イタリアの洗練された享楽主義も、ドイツ人の心からの誠実さも、スラヴ人の元気にあふれた感激性も、この国の人々の魂には根をおろそうとは思われないのである。
233ページ 『小泉八雲と日本』
編著者:西野影四郎
2009年2月15日発行
発行所:株式会社 伊勢新聞社
要するに、東洋音楽は、雑音以外の何ものでもない。 日本人には高尚な音楽は無縁だと言っているのです。
つまり、日本の音楽を理解する点でも八雲は例外中の例外だったとデンマンさんは信じているのですか?
そうですよう。 とにかく、たいていの外人が、日本の文化や日本人の知的レベルが西洋人、西洋文化と比べると数段低いと見下していたのですよう。
でも、文明開化で、西洋文化を吸収し、西洋に追いついて追い越せという日本人の熱意があったから、日本は昭和時代になって西洋社会と肩を並べて、やがて経済大国にもなったのでしょう?
そうです。。。僕が言いたいことは、日本には伝統的なものでも素晴らしいものがあった。 それにもかかわらず、西洋文化なら、何でも素晴らしいと思い込んで、日本的なものを何でも捨てて、西洋的なものを貪欲に吸収した。
でも、浮世絵などは、フランス人の画家などによって見出されたでしょう?
確かに、そうです。 でもねぇ、それは例外ですよう。 日本の音楽などは、チェンバレン氏が書いているように、楽器をギーギー鳴らしたり、声をキーキー張り上げたりする俗悪なものと考えられて、まったく無視されたようなものですよう。
だけど、民族的な音楽は特に理解するのが難しいのではありませんか?
うん、うん、うん。。。民族に特有な音楽。。。たとえば民謡などがありますよう。。。民謡の良さを日本人のように聞いて理解するのは難しいでしょうね。。。音楽は世界共通の言葉などではないと、かつて太田将宏さんも書いていました。
(すぐ下のページへ続く)