デンマンのブログ

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スルーパスと芦雪

2024-03-02 02:11:07 | 美術・芸術

 

スルーパスと芦雪

 


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デンマンさん。。。 今日はなんだか場違いな所に出てきてしまいましたわ。



。。。ん? 場違い。。。? どうしてですか?

だってぇ~。。。 サッカーと掛軸のお話でしょう?

いや。。。 サッカーと掛軸の話ではないのですよ。

でも、上の写真はサッカーと掛軸ですわ。

確かに、写真を見るとサッカーと掛軸なのだけれど、実は、話のきっかけにサッカーと日本画家の長沢芦雪(ろせつ)が出てくるのですよ。

それで、サッカーと掛軸の写真を出したのですか?

そういうことです。。。

。。。で、そのきっかけのお話というのはどういうことなのですか?

あのねぇ~、バンクーバー市立図書館で本を借りて読んでいたら次の箇所に出くわしたのです。

 


中田のスルーパスと芦雪

 


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かつて中田英寿が現役だった頃、伝説的なパスがあった。
と、言っても、実は、私自身そのプレーを見たわけでなく、サッカー好きの友人が何度も熱弁をふるって、あたかもそこでその試合が行われているかの如くしゃべるのを聞いているうちに、私の内でもテレビで見たかのように如実な記憶として育ってしまったのである。

ご存じの通り、パスとは通常、サッカーやバスケットボールなどの球技で「送球」、つまり持っていたボールを味方に渡すことであるが、パスの中にもいろいろ種類がある。
もらったボールをくれた人に戻すリターンパスや自分のところに来たパスボールをそのまま即時に誰かにパスするダイレクトパスなどがある。

他にもサッカーに特有なものとして、スルーパスというものがある。
スルーとは“through”つまり、「~を通り抜けて」という意味である。

相手ディフェンダーの間にボールを蹴り込み、通り抜けさせて、その背後に走り込む味方に合わせるパスのことである。
成功すると一気に形勢が変わり、得点できるチャンスが生まれる。

ある試合、走っている中田に味方から速めのパスが来た瞬間のことである。
縦目の速いパスだったので、たまたま中田は、そのボールに触れずにしばらく全力で併走し、敵陣をめざす結果となった。

 (中略)

その直後のことである。
観客は思いも寄らぬ行為を見ることになるのである。
一体中田はどんなプレーをしたのか。

中田は、なんと何もしなかったのである。

それまで、ドリブルも行わず、その速いボールに付き添うように全力で併走していた中田は、スルーパスを出したい選手に正確に出すには、今のボールが持っている角度とスピードが最適であると判断した。
そして、そのままそのボールから離れたのだ。
すると、果たせるかな、ボールはなんと、受けてほしい味方の選手の前方、最良のポイントに躍り出たのである。

中田の伝説的なパスは、中田が少しも触れていないパスなのである。
何もしなかったが故に最高のパスになったのだ。 

(略) こんなことを思いおこしながら、画家の福田美蘭(みらん)さんが日本経済新聞に寄せた永沢芦雪(ろせつ)の解説記事を読んでいた。
(略) その記事は平成18年の7月のものである。 
気になって切り抜きにしてあったものの いつの間にか紛失し、忘れてしまっていた。
それが、机の上を片付けた拍子に (略) 発掘されたのだ。
その切り抜きには、最初に読んだときにも感じたのか、青いボールぺンで「中田のスルーパスのような……」と私の筆跡で走り書きのメモが端に書かれていた。 

芦雪は近年、人気のとみに高い若冲(じゃくちゅう)と同じく江戸時代後期に京都で活躍した日本画家だが、その解説は「白象黒牛図屏風」について書かれ、その屏風絵も載っていた。


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 (中略)

私は、この屏風を見ているうちに、中田のスルーパスをなぜか思っていた。

(略) この屏風を構成する一枚(白象図・左から四曲目)を目の当りにすると、新聞記事の写真であっても、そんな軽いめまいのような状態が生まれる。


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その一瞬のクラッという思いが、中田の触れたのか、
触れなかったのか、という思いを呼び起こしたのだった。

もちろん芦雪の屏風の一曲は絵筆で色を塗ってあり、
何もしていないというわけではないが、
(略) その一枚だけ眺めると意味を決定することができなかったのである。

 (中略)

我々は物事の意味を決定するとき、無意識ではあるが、必ずある思考的枠組みを重層的に用意する。
そして範囲を狭め意味を明確にしていく。

 (中略)

しかし、この枠組みが固定化したり、その繫がり方もパターン化してくると、新しい気持ちが起こらなくなってしまう。
まるで錆とか埃がこびりついた動きの悪い機械のように、毎日行う思考に自由さが失われてしまうのである。

多くの人にスポーツや芸術が愛好されるのは、枠組みの固定化や繋がり方のパターン化を壊し、新しいそれらを見せてくれるからであろう。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




59-65ページ 『考えの整頓』
著者: 佐藤雅彦
2012(平成24)年1月27日 第3刷発行
発行所: 暮らしの手帳社


 



上の文章を読んでデンマンさんは感銘を受けたのですか?



いや。。。 感銘と言えば感銘と言えるかもしれないけれど、僕は上の文章を読んでオツムに閃(ひらめ)いたモノがあったのですよ。

また、どう言う訳でひらめいたのですか?

中田は、なんと何もしなかったのである」と書いてある。 確かに、その時 何もしなかったから、ボールは、受けてほしい味方の選手の前方、最良のポイントに躍り出たのですよ。 つまり、何もしないことが時には最良の判断になることもある。

そのことがデンマンさんのオツムに衝撃を与えたのですか?

いや。。。 その事よりも、「この屏風を構成する一枚(白象図・左から四曲目)を目の当りにすると、新聞記事の写真であっても、そんな軽いめまいのような状態が生まれる」と書いてある。

 


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つまり、上の写真の赤枠で囲んだ部分は屏風の 6つの面の一つなのですよ。。。 その赤枠の部分だけを見ると“空白”のように見える。。。 つまり、画家が何も描いてないように見える。。。 要するに、中田選手のように何もしてないように見える。



その“空白”の部分を見て 佐藤雅彦さんは「軽いめまいのような状態が生まれる」と書いてますけれど、 デンマンさんも その“空白”の部分を見てオツムに閃いた物があったのですか?

そうなのですよ。

。。。で、いったい何が閃いたのですか?

あのねぇ~、柿本人麻呂が詠んだ次の和歌を見てください。


東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ


 


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東方の野には

曙(あけぼの)の光が

さしそめるのが見えて

西を振りかえると

月が傾いて

淡い光をたたえている



 



何度読んでみても、とりわけ心が揺さぶられるような素晴らしい歌ではないのですよ。



それはデンマンさんの個人的な意見ですわ。

あのねぇ~、小百合さんも、もう一度マジで読んでみてくださいよ。 いったい、どこに『万葉集』に載せるほどの魅力があると言うのですか?

だから。。。いいと思った人が昔に居たのですわ。

でもねぇ、その良さを『万葉集』日本古典文学大系を書いた人は全く理解してないのですよ。 だから、上のように月並みな説明をしているだけ。。。 しかも「東方の野に 曙の光が見えて 西を振りかえると 月が傾いて淡い光をたたえている」というような、正に月並みなことしか書いてない。 バカバカしい! こんなバカバカしいことしか書けないから、日本のミーちゃんハーちゃんは万葉集など読まないのですよ。

デンマンさんは、なんだか上の和歌の本当の素晴らしい意味が分かっているようなことを言ってますわね?

そうですよ。。。僕は上の和歌の真意を理解しているのです。

マジで。。。?

このような時に冗談やウソが言えますか!?

分かりましたわ。 それで、その真意って一体どのようなものなのですか?

あのねぇ~、それを説明するには、ちょとばかり歴史を知らないと理解できないのですよ。 小百合さんのためにここに書き出しますから読んでみてね。

 


高市皇子(たけちのみこ)

 

生年:654年(白雉5年)?
没年:696年8月13日(持統天皇10年7月10日)

 

日本の飛鳥時代の人物で、天武天皇の皇子(長男)である。
後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称される。

672年の壬申の乱勃発時、高市皇子は近江大津京にあり、挙兵を知って脱出し父に合流した。
若年であったが美濃国の不破で軍事の全権を委ねられ、乱に勝利した。

679年に天武天皇の下で吉野の盟約に加わり、兄弟の協力を誓った。
この後には他の皇子とともにしばしば弔問に遣わされた。
686年に持統天皇が即位すると、太政大臣になり、以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった。

壬申の乱

大海人皇子は高市皇子に、「近江朝では、左右大臣と智謀の群臣が一緒に議を定めている。今朕はともに事を計る者がない。幼少の子供がいるだけだ。どうしたものか」と言った。
高市皇子は腕まくりをして剣を握りしめ、「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊に逆らえますか。天皇独りであっても、ここに臣高市、神祇の霊を頼り、天皇の命を請け、諸将を率いて征討します。これをどうやって防げましょうか。」と答えた。
大海人皇子は誉めて高市の手をとり背を撫でて、「慎め、怠るな」といった。
そこで鞍馬を与え、軍事をすべて委ねた。

各地から来た大海人皇子の軍勢は、和蹔に集結して高市皇子に掌握されたと考えられる。

7月23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺したことで、壬申の乱は終わった。
8月25日に、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣を処罰させた。

天武天皇の時代

乱の終結した直後、高市皇子を除く他の皇子たちはまだ幼く(最年長の忍壁皇子でも10歳前後)、天武天皇の皇親政治のもと、高市皇子が重要なポストを占めていたことは間違いないだろう。
『日本書紀』天武天皇4年(675年)11月4日の条には既に、高市皇子より以下、小錦より以上の大夫らに衣、袴、褶、腰帯、脚帯、机、杖を賜う」とある。この時点で皇族・臣下の序列としては既に最高位だったのかもしれない。

天武天皇8年(679年)5月6日に、天皇、皇后(持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子は、吉野宮で互いに助け合うことを約束した(吉野の盟約)。
10日に六皇子が大殿の前で天皇を拝した。
天武天皇が自らの死後に壬申の乱のような皇位継承争いが起こることを恐れたためとされる。

この頃から高市皇子は天武天皇の皇子の中で3番目とされるようになった。

皇女を母にもつ草壁皇子、大津皇子に次ぐ。
母親の身分による序列では10人中8番目。

太政大臣

天武天皇が亡くなった直後、皇太子につぐ皇位継承資格を持つと見られていた大津皇子が謀反の罪で死刑になった。
続いて皇太子の草壁皇子が持統天皇3年(689年)4月13日に薨去した。
そのためそれまで天武天皇の皇后として政務を執っていた鸕野讚良皇女が翌年(690年)1月1日に即位した。持統天皇である。
この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子は太政大臣に任命された。このときから薨去まで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えた。

持統天皇4年(690年)10月29日、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。

持統天皇5年(691年)1月13日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて3000戸になった。持統天皇5年(691年)1月4日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて5000戸になった。

持統天皇7年(693年)1月2日に浄広壱の位に進んだ。

持統天皇10年(696年)7月10日薨去。『延喜式』諸陵によれば墓は「三立岡墓」で、大和国広瀬郡にあり、東西6町南北4町で守戸はなし。だが、高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある。

挽歌

万葉集巻第2の199~202番に柿本人麻呂作の高市皇子への、万葉集中最長の壮大な挽歌が収められている。


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ここに「高市皇子尊」「後皇子尊」と尊称されている。
この尊称から高市皇子が立太子されていたのではないかとの説がある。
また柿本人麻呂がこれほど壮大な挽歌を寄せていることから、この2人は親交があったのではないかと言われている。

高市天皇説

上記の挽歌、高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡、政治情勢、壬申の乱における功績、母の実家の勢力、莫大な資産などから彼が天皇であったという説もあるが、はっきりとはしていない。(参考:九州王朝説)

高市皇子の歌

•万葉集巻第2 156~158番(高市皇子作の十市皇女への挽歌)
自作の歌はこの3首のみ

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)




出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



つまり、上の和歌の本当の意味と高市皇子が関係しているのですか?



もちろんです。 だから高市皇子の略歴を持ち出したのです。

もしかしてデンマンさんは高市皇子が天皇になっていたと考えているのではありませんか?

確かに、そのような説があるのですよ。 上の略歴を読んでも天武天皇の子供の中では「壬申の乱」で高市皇子が一番活躍したのです。 だから、天皇になっていたとしても不思議じゃなかった。

天武天皇の長男だったのに、どうして天皇になれなかったのですか?

高市皇子のお母さんが天皇の娘ではなかったからですよ。 母親の身分による序列では10人中8番目だった。 でも、実力はナンバーワンだった。

それで柿本人麻呂が高市皇子を尊敬していたのですか?

そうですよ。 だからこそ、万葉集の中で最長の挽歌を高市皇子のために柿本人麻呂が詠んだのです。 つまりねぇ、高市皇子を天皇にしたいと思っていた人がかなり居たということですよ。

実力主義でなかったので高市皇子が天皇になれなかったのですわね?

いや。。。そう言う訳でもない。 実際、天武天皇が天皇になたのは「壬申の乱」というクーデターによって天智天皇の長男である大友皇子を破って天皇になったのですよ。 要するに実力によって天皇になったということですよ。 だから、高市皇子が天皇になっても不思議じゃなかったのです。

でも、そうならなかったのはなぜですか?

天武天皇の第一夫人の力が強かったのですよ。 クリントン夫人のようなものです。

 


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クリントン夫人って、それほど実力があったのですか?



クリントンが大統領になたのもクリントン夫人がついていたからですよ。 夫人が居なかったらまず大統領にはなれなかったでしょう!?

。。。で天武天皇の第一夫人って誰ですか?

天武天皇のすぐ後で持統天皇になった鸕野讚良皇女ですよ。

つまり、クリントン夫人のような、でしゃばっている夫人が居たために高市皇子は天皇になれなかったのですか?

その通りですよ。 持統天皇は自分の子供に天皇になって欲しかった。 だから、自分の子供が天皇になる間だけ自分が天皇になって時間稼ぎをしたというわけですよ。

つまり、その間に柿本人麻呂を含めたグループが高市皇子を天皇にしようという動きがあったのですか?

その通りです。

でも、失敗してしまったのですか?

その通りですよ。

どうしてデンマンさんは、そうだと思うのですか?

あのねぇ、そういう動きに参加していたために柿本人麻呂は持統天皇に睨(にら)まれて左遷され、一生を棒に振ってしまったのですよ。

マジで。。。?

もちろんですよ。 柿本人麻呂の略歴を読んでみてください。

 


柿本人麻呂


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660年頃 - 720年頃


 

柿本人麻呂は、飛鳥時代の歌人。
名は「人麿」とも表記される。
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。

出自・系譜

近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。
ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。
後世の俗書では、持統天皇の愛人であったとみるような曲解も現れてくるが、これはもとより創作の世界の話である。

『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。
また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。

代表歌

•天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ

東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

•ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

•近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」という天皇を称えた歌が採られている。

官位について

各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、その生涯については謎とされていた。
古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。

人麻呂にまつわる異説・俗説

その通説に梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。
また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。
しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)




出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



上の略歴に手がかりがあるのですか?



そうですよ。 人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれと書いてあるでしょう? 僕は人麻呂が刑死したとは思わないけれど、間違いなく政争に巻き込まれ、持統天皇ににらまれて左遷されたと思っているのですよ。

その根拠は。。。?

あのねぇ、『万葉集』を編纂したのは大伴家持なのです。 大伴家持も柿本人麻呂も日本では「歌人」として知られているけれど、当時の文人は中国の伝統に則(のっと)って、現在の感覚で言えば政治家としての活動もしていた。 その政治家としての活動の部分が日本史では取り上げられてない。 脱落している。 特に柿本人麻呂の略歴からは政治的活動はすっぽりと脱落している。

大伴家持の場合には政治的活動も略歴の中に書かれているのですか?

書かれてますよ。 だから、そのことで僕は『万葉集』は単なる歌集ではなくて、政治的批判の書であると次の記事の中で書いたことがある。

 


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『万葉集の謎と山上憶良』

 (2006年7月1日)


 


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つまり、柿本人麻呂が高市皇子を天皇にするための政治的活動をして、それが持統天皇の知るところになって、人麻呂は左遷されて一生を棒に振ったとデンマンさんは信じているのですか?


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そうです。

持統天皇はそのような事をする人なのですか?

する人なのです。 子供の頃に不幸な事件が度重(たびかさ)なってぇ心にトラウマを受け、権力に人一倍こだわるようになってしまった不幸な女性なのですよ。 その事で僕は次の記事を書いたのです。 ぜひ読んでみてください。

 


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『愛と怨霊』

 (2007年6月9日)


『いにしえの愛とコミュニケーション』

 (2007年1月8日)


 



。。。で、柿本人麻呂の詠んだ「かぎろい」の和歌は、実は、政治批判の歌だとデンマンさんは主張するのですか?



その通りですよ。

 


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東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ


 



上のつまらない和歌が『万葉集』の中に柿本人麻呂の代表的な歌として載せられている。 なぜだと思いますか?



どうしてですか?

万葉集を編纂した大伴家持が歴史の真相を後世の我々に知って欲しかったからですよ。

その歴史の真相ってぇ何ですのォ~?

だから、高市皇子を天皇にするための政治的活動があったということですよ。

でも、そのような事を歴史の時間に先生は言いませんでしたわ。

多分、そのような事を言った人はあまり居ないでしょうね?

でも、デンマンさんはマジで柿本人麻呂が高市皇子を天皇にする政争に巻き込まれたと信じているのですか?

マジで信じています。

。。。で、上の和歌の真意はどのようなことになるのですか?

次のようになるのですよ。

 


東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ


 


(kaki003.jpg->kaki005.png)

 


ああ、何ということだ
持統天皇の野心と陰謀は
ついに、ここまで剥(む)き出しにされ
大津皇子は自殺に追いやられてしまった。

この分では高市皇子が皇位につくこともあるまい。
命を永らえることさえ危(あや)ういのだ。

高市皇子の運命は、今、まさに沈もうとする
月のようではないか…。



 



でも、柿本人麻呂の和歌に上のような歴史的事実が込められているという根拠があるのですか?



ありますよ。 あのねぇ~、柿本人麻呂の和歌を選んだのは万葉集・編集長の大伴家持なのですよ。 この人は万葉集の最後に自分の歌を載せている。

 



(yakamo3.jpg)

 

新しき 年の初めの 初春の

今日降る雪の

いやしけ吉事(よごと)


 



新しい年の始めの初春の

今日降る雪のように、

これからの世には

よい事がいっぱいありますように…。



 



これは天平宝字3(759)年の元旦に詠んだ歌なのですよ。 でもねぇ、大伴家持の願いとは裏腹に、このあと家持には良い事は起こらなかった。 むしろ悪い事が待っていた。



どのような。。。?

あのねぇ~、この歌を詠んでから26年後の延暦4(785)年8月28日に、大伴家持は奥州の多賀城で68歳の生涯を閉じたのです。 ところが、藤原氏は家持が死んだ後も、そっとしておいてはくれなかった。

大伴家持が亡くなってからって。。。死んでからでは何もできないでしょうに。。。

でも藤原政権はしつこいのですよ。。。翌年、京都で藤原種継(たねつぐ)暗殺事件が起きた。

その事件と大伴家持が関係あるのですか?

大いに関係がある。 権力を握る藤原氏によって大伴家持は、その事件の首謀者の一人に仕立てられてしまったのですよ。 しかも、大伴家持の遺骨は掘り返されて隠岐(おき)の島に流刑にされてしまった。

わざわざ遺骨を掘り起こして隠岐(おき)の島まで持っていったのですか?

そうなのですよ。 現在から見れば常識では考えられないような事をした。 つまり、それほど大伴家持は睨まれていた。

なぜ。。。?

だから、大伴一族は藤原氏に抵抗する集団と考えられていた。

どうして。。。?

なぜなら、大伴家持のお父さんの大伴旅人(たびと)は長屋王に協力していた。 当然のことだけれど、長屋王の父親・高市皇子や、その協力者・支援者だった柿本人麻呂の事なども大伴家持は、お父さんの旅人から聞かされていた。

つまり、大伴家持は柿本人麻呂が高市皇子を天皇にしようという政治活動に参加していたこと、それがもとで持統天皇に睨まれて左遷されてしまった事などをお父さんの旅人から聞かされていたとデンマンさんは主張するのですか?

その通りですよ。 だからこそ、一見つまらなそうに見える柿本人麻呂の和歌を大伴家持は『万葉集』に取り上げたのですよ。

要するに、何百年後に生きているデンマンさんのような歴史馬鹿に、歴史の真実を知ってもらおうとして『万葉集』の中に柿本人麻呂の「かぎろい」の和歌を取り上げたのですか?

そうです。。。でも「歴史馬鹿」だけ余計ですよ。(苦笑) とにかく、歴史の事実をはっきりとは書けなかった。 つまり、柿本人麻呂が芦雪のような日本画家だったとしたら、当時、巨象の姿、つまり持統天皇の悪事をすべて描くことができなかったのですよ。

 


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どうしてですか?



持統天皇に睨まれたら首が飛んでしまう。。。 じっさい、彼は左遷されてしまった。 だから、次のようにしか描けなかった。

 


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上の赤枠の部分が柿本人麻呂が詠んだ「かぎろい」の和歌ですよ。 当たり障りのない和歌しか詠めなかった。。。 だから、背景を何も知らずに読むとつまらない和歌なのですよ。。。 でも、大伴家持は背景を充分に知っていた。。。 だから、“空白”の和歌にも“巨象”を見ていた。 それで、一見つまらない人麻呂の歌を『万葉集』に載せたのです。



つまり、大伴家持は上の赤枠で囲んだ空白しかない和歌を『万葉集』に載せて、現代の私たちが“巨象の姿”を見て欲しいと思ったわけですか?

その通りですよ。。。 「かぎろい」和歌を読む我々が 歌の中に込められた歴史の真実を理解して欲しいと願いながら 大伴家持は『万葉集』に載せたのです。 “行間を読む”という格言があるけれど、この場合、“余白”を読む必要があるのです。

つまり、その事が芦雪の屏風の“空白”を見て デンマンさんのオツムに閃いたのですか?

そういうことですよ。。。




初出: 2015年9月17日



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
確かに、デンマンさんの お話を伺っていると、そうなのかなァ~、とも思いますよね。

でも、あたくしは、柿本のおじさまが単純に「かぎろい」の美しさに魅せられて詠んだと思うのですわ。

いづれにしても、そのような事よりも、今のあたくしは お腹がすいたので 具のたくさん入った“あんかけ焼きそば”を作ろうとしているのでござ~♪~ますわァ。

あなたのために、作り方を教えますわねぇ。


(joe306.jpg)



どうですか? 美味しそうでしょう?

でも、あたくしは これだけでは満足できませんのよう。
デザートに“たいやき”をいただくのでざ~♪~ますわよう。
うふふふふふふ。。。

最近では、餡に替わってクリームや溶かしたチョコレート、キャラメル、カスタードクリームなどの洋菓子素材を詰めたものもでてきましたわ。

サンドウィッチ式に肉類や生野菜、各種ソースやリゾットなどを挟む「おかずたい焼き」もあらわれました。


(taiyaki5.jpg)

あなたも 好きなものを“たいやき”に詰めてみませんか?

そういう面白い“たいやき選手権”があったのですわよう。
うふふふふふ。。。

では、あなたのためにビデオクリップを貼り付けますので ご覧になってくださいまし。

 



 

お腹がすいてきて、“たいやき”が食べたくなってきたでしょう?
でも、この記事を最後まで読んでから台所に走ってくださいね。

では、小百合さんのお話に戻りますけれど、
どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
あなたは ご存知でござ~♪~ますかァ?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


(suikyu9.jpg)

それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。

だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。

じゃあねぇ~~。


(hand.gif)


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(linger65.gif)

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■ 『バンクーバーの生活』

■ 『別れの朝に』

■ 『思い出の天の川』

■ 『隠し子』

■ 『ウィーンの空』

■ 『ハルヴァ@軽井沢』

『キャドバリーチョコ』軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)

■ 『二人の母親』

■ 『アダルトダメよ』

■ 『月の男』

■ 『アダルト駄目』

■ 『ホロドモール』

■ 『ワンダフルライフ』

■ 『上原良司の自由主義』

■ 『季節外れのハロウィーン』

■ 『アダルトと成人』

■ 『やらしい夢』




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手ぐすね引いて

2024-03-01 04:06:29 | 日本人・日本文化・文学論・日本語

 

手ぐすね引いて

 


(tegusune12.jpg)


(tegusune11.jpg)


(tegusune10.jpg)



 





Mr.BEANを観て笑ってね!

2024年2月21日 水曜日 午前8時40分

7時36分起床! +6度
今朝は小雨が降っている。
電気をつけないと手元が暗い。
ほんの少し気温が上がった。

小百合さん、おはよう。
元気に、スッキリお目覚めですか?
スッキリしなかったらビールでも飲んでね。

今日は『笑ってください』という記事を投稿するのです。
その記事の中でイギリスで人気のあるMr.BEANのビデオクリップを貼り付けました。

この人はインドの移民の息子でおそらく英語を習得するのに嫌というほど困ったことがあったのでしょう。

そういうわけでこの人が主演しているスキットでは、この人も脚本を書いているのですよ。
つまり、会話をしなくても観客によく分かるような映画になっている。

だから、どの国の子供が観ても大人が観ても面白い。
ここに記事のリンクを貼り付けるので小百合さんも笑って日頃の憂さを笑い飛ばしてね。

 








『笑ってください』


 

少しずつ気温が上がっているけれど
まだまだ冬の気温です。
早く春になってほしいよ。
小学生が正月を待ち望む気持ちです。
日本へ帰省するのにビザが要らなくなったので、今年こそ行田に帰省するつもりです。

コロナにかかる心配はしていなかったし、実際、コロナにかからなかったけれど、その影響で、日本へ帰省するのに、日本入国のためのビザが必要になった。

2重国籍だと日本国籍を抹消しない限り、入国ビザが下りない!
もちろん、カナダ国籍は捨てたくない!

そういうわけで手続きに手間取って、結局ビザが取得できずに、1300ドルのチケットも無駄になった。
コロナの影響で、健康には全く影響がなかったけれど、帰省しようとして、それも叶わず、チケット代が無駄になったという経済的な損失を被ったのですよ。

全く予期しなかった損害です。
今年は、ビザがいらない!
そういうわけで、今年の春は待ち遠しい!
11月まで待ちきれない!

小百合さんに会えるのがマジで楽しみですよ。
きゃははははは。。。

2月中旬になって春に近くなったけれど、相変わらず気温は冬です。
でも、少しづつ春の気配を感じます。

そのうち3月に入ったら帰省するための飛行機のチケットを予約しようと思います。

小百合さんも暇ができたら次のピンタレストの写真でも見て楽しんでね。
気に入った写真をクリックすると、記事を読むことができます。

 




『PINTEREST「小百合物語」のページ』


 

色々な写真をクリックして記事を読んでみてね。
では、小百合さんもコロナには感染しないようにくれぐれも気をつけてね。

今日もルンルン気分で過ごしましょう!

 




 



2024年2月27日 金曜日



 

お久しぶりです。

最後にお会いしたのは2021年の11月でした。
コロナの影響でビザがないと日本に帰省できなくなりました。

2重国籍のために手続きが手間取って、結局、デンマンさんは帰省できなかったのですよね。

覚えているでしょうか?
山の家でデンマンさんが作ってくれたラビオリカレーを食べたあとで山道を散歩しました。
その時、道端に植えたカラスウリのタネから芽が出て、去年の秋、赤い実をつけました。

3月に入ったら帰省するための飛行機のチケットを予約するそうですが、日程が決まったら知らせてください。
ブログを拝見したら最高に美味しい『あんこう鍋』作り方が出ていました。

 


(ankoupot2.jpg)



『グルメのあなたに』

 

春になってデンマンさんが帰省したら『あんこう鍋』を用意して 手ぐすね引いてお待ちいたします

バンクーバーは日本と違いコロナの感染者は少ないようですが、お体に気をつけてください。
では、再会を楽しみにしております。

小百合より






(sayuri55.gif)

デンマンさん。。。どういうわけで、手ぐすね引いて というタイトルを付けたのですか?


(kato3.gif)

小百合さんが久しぶりにメールを書いたその中に出てきたのですよ。。。

また、私信を公開したのですわねぇ〜。。。

小百合さんの身元が判るような箇所は削除して掲載しています。。。だから安心してください。。。神武君が小百合さんにセクハラしたくても小百合さんの住所も、ブログも判りません。。。大丈夫です。。。

 


(jinmu91.jpg)


『セクハラ止めない神武君』


 



ところで偶然というものはあるもので、昨夜、桂伸治(10代目・桂文治)の『木曽義仲』という落語を聴いたのですよ。。。

 


(tegusune2.jpg)



 



この落語の中にも「手ぐすね引いて」という語句が出てくるのですよ。。。



つまり、この落語の中に「手ぐすね引いて」という語句が出てきたので 手ぐすね引いて というタイトルで記事を書く気になったのですか?

そうです。。。ところで小百合さんは「手ぐすね」がどういうものか知っているのですか?

「手料理を作る」ということではありませんかァ〜?

つまり、『あんこう鍋』を用意して (手料理を作って)お待ちいたします ということですか?

そうです。。。

でもねぇ〜、上の落語の中で「手ぐすね引いて」と使われている状況を見ると、手料理とは全く関係がないようですよ。。。その箇所を改めて聴いてみてください。。。

 


(tegusune40.jpg)



 



デンマンさんは、どういうものかご存知なんですか?



僕も知らなかったので調べました。。。

 



薬煉(くすね)

 


(tegusune2.jpg)

 

補強のために弦に塗る、松脂を油で煮て練ったもの

麻弦のときは特に、使用前と使用後に麻薬煉(まぐすね=薬煉を塗る道具)でこすって薬煉を弦によく染みこませておかないと弦の寿命が縮む。

かつては薬煉は滑り止めとして手に塗る(「鍋に油を引く」等の意味の「ひく」)のにも使われており、そこから十分に準備して待ち構えることを「手薬煉(てぐすね)をひく」というようになった




出典: 「弦 (弓)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



あらっ。。。手料理とは全く関係ないのですわねぇ〜。。。



そうなのですよ。。。戦国時代の血なまぐさい戦いの場から生まれた言葉ですよ。。。

全く知りませんでしたわ。。。

では、木曽義仲がどういう人物だったのか? 小百合さんも次のクリップを観てください。。。

 


(yoshinaka2.jpg)


(toshinaka3.jpg)






(foolw.gif)


【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたも、「手ぐすね」の意味を知らずに「手ぐすねを引いて待っているわ」という語句を使っていましたかァ~?

ええっ。。。? 「そんなことは どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのでござ~♬~ますかァ?

いけ好かないお方。。。

わかりましたわ。。。

では、デンマンさんが暮らしているバンクーバーに一度も行ったことがない人のためにバンクーバーを紹介するクリップを貼り出しますわ。

ジックリとご覧になってくださいませぇ~♬~。

 


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世界で最も住みやすい街バンクーバー






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(wetsuit3.jpg)


(gastown20.jpg)

 

ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。

だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。

じゃあねぇ~~。

 


(hand.gif)


メチャ面白い、

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(linger65.gif)


■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)

■ 『さらに軽井沢ブーム』

■ 『バンクーバーの生活』

■ 『別れの朝に』

■ 『思い出の天の川』

■ 『隠し子』

■ 『ウィーンの空』

■ 『ハルヴァ@軽井沢』

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徳子はエロカワ?

2024-03-01 03:45:04 | エロいけれどためになる


徳子はエロカワ?
 
 


(tokuko05.jpg)

 


私に合わせて腰を上下に

徳子が結婚したのは18歳、夫はわずかに12歳だったし、その夫婦生活もたったの9年だから、真の快美を知らぬのも無理はなかった。
まして閨技など、義経に教えられるまで、こんな世界があるなんて思いもよらない。
「私は怨むわ。 あなたのお節介を。 でも、これを知らないで死んだら、どんなにか悔いることでしょうね」うわごとのように、くり返す。

義経は半身を起こして、玉唇の紫龍をくわえる様を、つらつらと眺める。
徳子は恥ずかしく、脱いだ衣を集めて半身をおおう。
義経はわざと激しく出没させる。
「ああ、やめて」と止めるのも聞かず、かえって一の指を玉中に加え、「私のは細いから、これでちょうど良くなりましょう」とからかう。
徳子は両手で顔をおおい、悶えた。
「痛い。 裂けるわ。 やめて」
「お産の時は、もっと広げたでしょうに」
「恥を捨てて任せたのに、更に辱めるのですか」
「とおっしゃるなら、別の方法もありますよ。 教えてあげよう」


(bond010.gif)

右手に徳子の腰を、左手に肩を抱えて身を起こす。
自分はあぐらをかき、その上に徳子の尻を載せ、跨(またが)らせる。
「ああ、何をするの?」


義経は手をのばし襯衣(シャツ)を取り、徳子の背にかぶせた。
徳子の方は夜具を引き、これまた義経をおおう。
義経は襯衣(シャツ)の外から背を抱き、もう一方の手で尻を、こちらは襯衣(シャツ)の内から抱えた。
徳子は両手で義経の首につかまる。
彼の顎をおのが肩に載せさせる。
顔を傾ければ唇は斜めに義経の口に接した。
舌と舌で互いの口中を洗う。
股間の陽は陰をつき、陰は陽を噛まんとする。

(注: 赤字はデンマンが強調。
イラストはデンマン・ライブラリーより
読み易くするために改行を加えています)




44-46ページ 『春本を愉しむ』
著者: 出久根達郎
2009年9月20日 第1刷発行
発行所: 株式会社 新潮社


 




(merange12.jpg)

デンマンさん。。。 あんさんは欲求不満やのォ~。。。?


(kato3.gif)

ん。。。? 欲求不満。。。?

そうでおますう。。。 エロいお話を冒頭から書き出したやおまへんかァ。

あきまへんか?

こないなエロい事を書きはると主婦連から抗議が出ると思いますねん。

「主婦連」なんてぇ、めれちゃんは恐ろしく古い言葉を持ち出してきたのやなァ~。。。 1960年代の後半にマスコミを賑(にぎ)あわせた言葉なんやでぇ~。。。

そのような詮索はどうでもええねん。 それよりも、どないな訳で春本のお話を持ち出してきやはったん?

あのなァ~、1月15日に卑弥子さんと建礼門院について次のように語りおうたのやがなァ~。。。

 




あれっ。。。 卑弥子さんは、エロい川柳に詳しいのですねぇ~。。。


(himiko22b.gif)

それほどでもありませんわよ。 おほほほほほ。。。んで、義経も 母をされたで 娘をしがどういう意味かとゆうとォ~、源義経のお母さんの常盤御前(ときわ ごぜん)を、平清盛が妾とした仕返しに、壇ノ浦の戦いで義経さんが助けた建礼門院(けんれいもんいん)を、お布団の中に誘い込んでエッチしたと言うのでござ~ますわ。 おほほほほ。。。 この建礼門院は平清盛の娘で、のちに高倉天皇の奥さんになった女性ですう。 つまり、壇ノ浦の戦で亡くなった安徳天皇のお母さんですのよォ。

 


(tokuko03.jpg)

 

寂光院と建礼門院

 



 



なるほどォ~。。。 卑弥子さんは『源氏物語』ばかりではなく、『平家物語』にも詳しいのですね。 しかも江戸時代の川柳まで知っていたとは僕は改めて卑弥子さんのエロ知識に感心しましたよ。




『エロチカ平家物語』より
(2013年1月15日)




つまり、卑弥子さんと1月15日にエロ話をしやはったので、今日はわたしとその続きをしやはるのォ~?



いや。。。エロ話がテーマではあらへん。 建礼門院徳子さんがテーマなのやがなァ。

要するに、徳子さんはエロカワいいのか? それとも、そうではあらへん。 その事についてわたしと語り合おうと言わはるのォ~?

あきまへんか? めれちゃんも、この事に関してはメチャ興味があろうと思うたのやがなァ。

どないな訳で、あんさんはそう思いはったん?

めれちゃんは、かつて次のような萌え萌えの短歌を詠んだのやでぇ~。。。


くちづけ

 


(kiss003.gif)
 
罪深き

ことと知りつつ

この夜も

きみのくちづけ

もとめて止まぬ


 


(merange52.jpg)

 

by めれんげ
 
2009.01.14 Wednesday 14:21




『即興の詩 冬枯れ』より

『愛のコラボと欺瞞』に掲載
(2010年2月12日)


 



つまり、わたしが上の春本の徳子さんのように萌え萌えになっていると、あんさんは言わはるのォ~?



そうやァ。。。 「きみのくちづけ もとめて止まぬ」とめれちゃんは萌え萌えになってるのやでぇ~。。。

そやけど、徳子さんは「ああ、何をするの?」と嫌がっておますやん。

あのなァ~、めれちゃん。。。 上のエピソードには、更に続きがあるねん。 あまりにどぎついさかいに著者の出久根さんは読み下し文をそのまま書いてはる。 つまり、現代語に訳してへんのやァ。 読んでみィ~なァ。

 


指をもって弄するなかれ

乃(すなわ)ち右手を転じて(徳子の)緋袴(ひばかま)を解(と)き、襯衣(シャツ)を排(はい)して腰衣を穿(うが)つ。
指頭僅(わず)かに股面に及ぶ。
春草疎(まばら)にして柔かなり。

徳子脚を捻(ひね)り股を鎖(とざ)して奥を許さず。
廷尉(義経)曰く、何故。
徳子曰く、只恥ずかしいのみ。
廷尉曰く、すでにここに至れり、何すれぞ更に恥じて、いずれの時をか期せん、尚然らざれば、此の如くせんと。
よって柔草を抜く。
徳子曰く、ああ痛い。 いけない人。
股を少しく解く。
廷尉すなわち求めて温郷(あたたかいふるさと)を得たり。
心に温柔を感じて、除(おもむろ)に中指の頭を以て緩(ゆる)く玉舌を掻くこと数時、終りに玉唇に伝い這(は)わせる。
玉唇軟かにして凝脂(凝り固まった脂肪)の如し。
徳子身を縮め、面(おもて)を廷尉の胸に当て、耳朶(みみたぶ)赤くして鶏冠(とさか)に似たり。

廷尉即ち双指(二本の指)を弄して終に玉心を探る。
御球を拾う。
徳子鼻息やや高く、呼吸漸(ようや)く疾(はや)し。
身を悶(もだ)えて膝に堪えず、相擁(あいよう)して前に倒る。
徳子仰臥して廷尉斜(ななめ)に其胸に乗り、双指は尚(なお)玉心に在(あ)り。
摩擦益々(ますます)秘術を尽(つく)す。

徳子、額を顰(ひそ)め、左手を転じて義経の腕首を強く握り、急に禁じて曰く、ああ、やめよ、指を以て弄するなかれ、ああ、ほとんど堪えず、ああ、それ指をやめよ。


(girl777.jpg)

 (中略)

快(かい)言うべからず、
徳子曰く、更に美也(よいかな)、
廷尉曰く、除(おもむ)ろに腰を転ぜよ。
徳子曰く、難(むずかし)い哉(わ)。
廷尉曰く、其の踵(きびす)を褥(しとね)に達せよ。膝を屈してやや股を開けと。
乃(すなわ)ち尻を抱いて抵抗し、節を合わせ操る。
徳子これを試みる。 去来自由自在。 満身ただ磨(ま)するが如し。 (略) 怪しいかな、玉心たちまち戦慄し、にわかに痒(かゆ)きが如くうずくが如く、名状その詞(ことば)を知らず。
(徳子)覚えず酒瓶を投じて廷尉にしがみつく。
夢中に我腰や尻を揺すれば、痒きはいよいよはびこり。痒きに従って揺すれば美快言うべからず。
即ち言う。 ああ、それ如何(いかん)せん、妾(わたし)既(すで)に絶えんとす、ああそれまさに絶えんとす、君また共にせよ。
声戦(おのの)き歯がみ切なり。

(注: 赤字はデンマンが強調。
イラストはデンマン・ライブラリーより
読み易くするために改行を加えています)




39-40、46ページ 『春本を愉しむ』
著者: 出久根達郎
2009年9月20日 第1刷発行
発行所: 株式会社 新潮社


 



ああ。。。、デンマンさん。。。 わたし。。。、わたし。。。、 なんだか妙な気持ちになってきましてん。



。。。ん? あれっ。。。 めれちゃん。。。 大丈夫かァ~? 目が。。。、眼が。。。、なんだか、夢見心地で目が泳いでるやんかァ~。。。

あっ。。。 わたし。。。、 わたし。。。、 体の奥の方で萌えて溶け出してゆくようなァ~。。。 とっても歯痒い気持ちになってきましてん。。。

めれちゃん。。。 しっかりしいやァ~。。。 まだこの記事、終わりにできへんのやでぇ~。。。

もう、わたし。。。、どうでもよくなってきましてん。

めれちゃん。。。! エロい気持ちになってる場合じゃないのやでぇ~。。。

あのォ~。。。、あのォ~。。。、与謝野晶子さんの短歌が目の前にちらついてきよりましてん。。。

。。。ん? 与謝野晶子さんの短歌。。。?

そうですう。 次の短歌でおますう。。。

 





&nbsp

やわ肌の

あつき血汐に

ふれも見で

さびしからずや

道を説く君


 

by 与謝野晶子
 



『熱き肌』に掲載 
(2010年3月12日)


 



あんさん。。。 このムラムラした気持ちをなんとかしてえなあああァ~。。。



めれちゃん!。。。 いい加減にしいやあああァ~。。。 エロ話にハマッてエロい気持ちになってる場合とちゃうのやでぇ~。。。

そやかてぇ~。。。 あんさんがエロい萌え萌えの話をするから、あかんのどすえぇ~。。。

あれっ。。。 京都弁が出てきよったなァ~。。。

そんなこと、どうでもよろしィ~! はよう、このわたしの萌え萌えの気持ちをどうにかして欲しいわあああァ~。。。

分かった!。。。 分かったさかいに、めれちゃんも気持ちを静めてムラムラせんで欲しいねん。

わたし、徳子はんのようにエロカワになりそうですねん。

めれちゃん!。。。 何を言ってけつかんねん! いい加減にしいいやあああァ! 建礼門院徳子さんは、めれちゃんが思うようなエロカワいい女とちゃうねん。

そやかて、あんさんは上のようなエロい話を持ち出してきよって、わたしをその気にさせてしまいましたやんかァ! なんとかして欲しいわァ~。。。

さよかァ~? めれちゃんがそないに言うのやったら次の小文を読んで欲しいねん。

 


大原御幸

あまりの労(いたわ)しい変わりざまに(後白河)法皇が御涙を流されると、お供の人々もいまさらのように、以前宮中で過ごされた女院(建礼門院徳子)の御日常を思いだして、万感に袖をしぼった。
しばらくすると、上の山から濃い墨染めの衣を着た尼が二人、岩のがけ道を伝いながら、おりなやんでいる様子が見えた。
法皇が、
「あれはいかなる者ぞ」
とお尋ねになると老尼が、
「花籠を肱(ひじ)にかけ、岩つつじを取りそえて、お持ちあそばされているのは、女院でいらせられます。 (略)」
と言いさして、喉をつまらせた。
法皇やお供の公卿殿上人が目に涙を宿してみまもっていると、女院は、「世をいとい出家した身とはいいながら、いまこのようなありさまをお目にかけることのはずかしさ、消えも入りたき心地ぞ」との羞じらいから、足もはこびかけねている。 (略)

「世を捨てられたお身の習い、なんの心づかいがいりましょうか。 早く御面会になって、おかえりになっていただきませ」
と内侍(ないし)の尼が申し上げたので、女院は御涙を押えて庵室におはいりになった。 (略)

「このような身の上に変わりはてて、いちじはずいぶん嘆きましたけれども、後世の菩提のためには、今はかえってうれしい気がいたします。
たちまちに釈迦の御弟子に加わり、かたじけなくも弥陀(みだ)の本願にみちびかれて、五障三従(ごしょうさんじゅう)の苦しみからのがれ、三時に六根を清めて、一筋に九品(くほん)の浄土を願い、ひとえに一門の菩提を祈り、常に三尊の来迎(らいごう)を待っておることができます。
とは申せ、いつの世までも忘れがたいのは、先帝(亡くなった我が子)の御面影、忘れようとして忘れられず、こらえようとしても、こらえることができませぬ。(略)」

寂光院と建礼門院



 (中略)

やがて、寂光院(じゃっこういん)の鐘の声で、今日も暮れたことが知られ、夕日が西に傾いたので、法皇は御なごりは尽きせずおぼしめされたが、御涙をおさえて還御(かんぎょ)ならせられた。 (略) 女院は昔恋しくおぼしめされたのであろう。
御庵室の襖に、こういう歌をお書きになった。

このごろは いつならひては わがこころ
大宮人の こひしかるらん

いにしへも 夢になりにし ことなれば
柴のあみ戸も ひさしからじな

 (中略)

壇の浦で生けどりにされた二十余人の人々は、あるいは大路を引きまわされて首をはねられ、あるいは妻子に別れて遠流(おんる)に処せられた。
池の大納言頼盛卿のほかは、一人も命ながらえて都に置かれなかった。
しかし、四十余人の女房たちについては、かくべつの沙汰もなかったので、あるいは親戚をたより、縁者のもとに身をよせて暮らしていた。
忍ぶ思いは尽きないが、嘆きながらもなんとか世をば過ごしてゆく。 (略) 入道相国(平清盛)が上は御一人をも恐れず、下は万民をもかえりみず、死罪、流刑、解官、停任をほしいいままに行ったためである。
されば、祖父の善悪が必ず子孫におよぶということは、疑いのないところと思われた。


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こうしてむなしく年月を送らせたもううちに、女院は御ここち常ならず覚えさせられ、お床にうちふせられるようになられたが、かねてから覚悟あそばされたことなので、仏の御手(みて)にかけられてあった五色(ごしき)の糸を手に握りしめ、(略) 念仏をとなえられると、左右にひかえていた大納言佐(だいなごんのすけ)の局(つぼね)と阿波内侍(あわのないし)とは、おなごりも今をかぎりとばかり、声々に嘆きかなしんだ。 (略) 建久二年(1191年)二月中旬、ついに御一生を終わらせられた。
后(きさき)の宮の御位(おんくらい)にあらせられた時から、片時もおそばを離れず仕えてきた二人の女房は、御臨終の御時はまことにやるかたない思いにおそわれた。
この女房たちは、昔の縁者もみな消えはてて、よるべない身の上であったが、あわれにもおりおりの御仏事ばかりは、忘れずにいとなみつづけた。
そして竜女(りゅうにょ)の正覚(しょうがく)の跡を追い、韋提希夫人(いだいけぶにん)のように、最後には二人とも、往生(おうじょう)の素懐(そかい)をとげたということである。

(デンマン注:読み易いように改行を加えました。
赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーより)




306-319ページ 『平家物語(下)』
2004年12月20日 初版発行
現代語訳: 中山義秀
発行所: 河出書房新社


 



これは一体どういうことやのォ~? 徳子さんは仏門に帰依(きえ)して清く正しく暮らして、往生を遂(と)げてますやん。



そうやァ! だいたい、徳子さんと義経さんをエロ話のネタにすることが間違っておるねん。 徳子さんは、めれちゃんのように萌え萌えになってアヘアヘと乱れている余裕がなかったのやがなァ~。。。

そやかてぇ~、あんさんがエロい話を持ち出してきましたのやでぇ~。。。

わてがエロ話を書いたのとちゃうねん。 出久根達郎という古本屋のおっちゃんが『春本を愉しむ』という本を書いて建礼門院徳子さんと源義経さんがエロく絡(から)み合う話を紹介してはるのやでぇ~。。。 わしのセイにせんで欲しいねん。

そやけど、この萌え萌えになった気持ちを、あんさんはどないしてくれはるん?

あのなあああァ~。。。 そのムンムン、ムレムレした気持ちを発散させるために、また与謝野晶子さんのような短歌を詠めばええねん。 ええなあああァ~。。。 




初出: 2013年1月25日



(laugh16.gif)


【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ。。。
それにしてもデンマンさんは、めれんげさんをムンムン、ムレムレの気持ちにさせておいて無責任だと思いますわ。
あなたも、そう思うでしょう?

とにかく、次回も面白い話題が続きます。
あなたもどうか、また読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。


(hand.gif)


メチャ面白い、

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(linger49.gif)



■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(vanc700.jpg)

■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』

■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』


(ebay5.jpg)

『めれちゃんとなつみさん』

『トイレのないマンション』

『自殺の名所』

『マジで自殺したいの?』

『ブス 家持 本音』

『ビルから飛び降りるの?』



(june24b.jpg)

こんにちはジューンです。

確かに女性がムンムン、ムレムレになってしまい

思わぬ事件を起こしてしまうこともあるのですよね。

ええっ。。。 一体どんな事件かってぇ。。。?

「苫小牧子殺し事件」ですわ。

あなたも聞いたことがあるでしょう?

痛ましい事件でしたわ。

情事に浸る女が子供が邪魔になって

殺してしまうという悲惨な事件でした。

北海道・苫小牧で、3歳の長男と1歳の三男の兄弟が

鍵の掛かったアパートに閉じ込められ放置されのですわ。

長男は生米や冷蔵庫のマヨネーズやケチャップで

飢えをしのいだのです。

三男は飢餓と低体温症で亡くなってしまいました。

昼間に自動的に入る暖房で、餓死した弟が

無残に腐食する横で、お兄ちゃんは

必死で飢えを凌ぎ生き抜いて、

ママの帰りを待ち続けたというのです。

でも、ママは新しいボーイフレンドの部屋に住み着いて

1ヶ月以上、子供たちの養育を拒み、

ボーイフレンドと遊んで暮らしていたのです。

もう、死んでいるのではないかと思って、

アパートに戻ると、長男は生きていた。

「何で生きてるの?」

冷血女性のママは長男を見て

まず、そう感じたと言うのです。

人間は、それほどまでに非情に

冷血になれるものでしょうか?!

何度読んでみても、亡くなった子供のために

涙が流れてきますわ。(めそめそ。。。)

「苫小牧子殺し事件」のことは

次の記事の中で引用されています。


(kid91.gif)

『愛の進化論』

ところで、卑弥子さんが面白いお話を集めて

楽しいサイトを作りました。

次のリンクをクリックして

ぜひ覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ



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