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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

あっ、目にゴミが……っ!!

2019年01月08日 | キリスト教
【エルサレム神殿の破壊】フランチェスコ・アイエツ


 >>さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。

(中略)

 あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。

 自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。

(ルカの福音書、第6章37~38節、41~42節)


 たぶんこれも「クリスチャンあるある☆」じゃないかと思ってるのですが(笑)、わたし、自分の目に睫毛とか小さなゴミなど、何かそういうのが入っていづくなると、この聖句を必ず思い出します(※いづい=北海道弁で、「なんかちょっと微妙に変?」的な意味)。

 で、思うんですよね。「あっ、この睫毛とかゴミ、もしかして『あなたの目には梁があるではないか』っていう神さまの語りかけかしら?」なんて。。。

 それで、自分の良心をパソコンのウィルス・スキャンのようにチェックするわけですが(※所要時間、約3秒☆たったの3秒かよ!笑)、心当たりのあることもあれば、特にないような場合もあり……でも、なんにしても、目に何かが入ったりすると、ほぼ反射的にこのイエスさまの御言葉を思い出すわけです。

 まあ、解釈としてはそんなに難しいこともなく、家の梁みたいなでっけーもんが自分の目にあるとも気づかず、人の小さな欠点について責め立てるな、ということですよね。「そゆことする奴は、偽善者なんだじょ!」という。

 そして、この聖句の少し前には、「人を裁くな。自らも裁かれないためである」とあるとおり、「自分の罪のことは棚に上げておいて、エラそーに言うな!」っていう、こちらもそうしたことですよね。

 むしろ逆に相手を寛容に赦してあげれば、向こうもあなたが罪を犯したような時、寛容に赦してくれるであろう、と……さらに、「与えなさい。そうすれば、自分もまた与えられる」、ここは、なんと言いますか、むしろ物惜しみすると、向こうもあなたに対して物惜しみをするだろう、とも読めるような気がします。

 そして、そのようにした場合はむしろ逆に、お互いにとってあらゆる物や事がマイナスになるわけですけど、「パンと魚の奇跡」のように、「自分の良心をチェックしたなら、必ずうしろめたいことなど誰しもある。そう思い、自分を裁く前に人を裁こうとするな、むしろ互いに赦しあいなさい。そのような愛の実践のあるところは、地上の天国も同然である」――ということなのではないでしょうか。

 もちろん、これは本当にとても難しいことですよね(^^;)

 けれども、イエスさまはこうした「地上における御国(天国)の建設」についても、人々に委ねておられるのだと思います。人間は頑なな生き物で、一度「誰それが気に入らない☆」ということになれば、そのような人について悪く言わずにいたり、ましてや裁かずに寛容に赦し、そうした人に対して何かを与えるだなんて、絶対に嫌だ……となってしまうものだと思います。

 こうした傾向に人々が支配された結果、(究極的に言えば)地上の御国建設は途中で頓挫してしまうわけですけれども、おかしな話、それでも同時に人々はいい意味でのこのバベルの塔の建設をやめようとはしないものなんですよね。

 この場合は、バベルの塔が神の怒りによって破壊されたのとは逆に、人々が少しばかりでも神さまに何か捧げものをしようという気持ちで、神さまへの捧げものとして霊的神殿を建設するという意味なのですが――ある程度積み上がったところで悪魔(サタン)や悪霊のような存在がやって来て蹴散らしたり、また彼らが関与しなくても人間同士で揉めて「こんなことはもうやめだ!」となってしまったり、こうしたことの一切を神さまは天からご覧になられてすべてご存じなのだと思います。

 もちろん、「神ってやつも、自分は愛の神などと言いながら、事態を静観とは随分冷たいもんだな☆」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 けれども、わたし個人の考えとしては、「地上の御国(天国)建設」というのは、神さまが人類に課した永遠の宿題みたいなものじゃないかな……という気がしています。

 神さまは祈りを通して、また聖霊さまがお働きになることで、わたしたちに力を貸してくださるのですが、イエスさまが再び地上へやって来られる時まで、人間が一体どこまでのことが出来るか、そのことをお試しになっているのだと思います。

 そして、実際のところ究極的な理想論を言うなら、全人類が和合し、平和の元に一致するなら、ええと、人類は今七十億くらいいるんでしたっけ?(笑)それなら、ひとりがレンガを一つ持ってそれを優れた指揮者の元、ただ定められた場所に置けばいいということになりますから……神さまを心から礼拝するための神殿など、一瞬で出来てしまうということになるでしょう(人の一致の力というのは、もし人間が良いことのためにだけそれを結集できたとしたら、そのくらいに大きく強いものだと思います)。

 でも、人々は絶えず民族ごと、人種ごと、さらには同じ民族・種族同士、あるいは身近な家族の間であっても、絶えずあちこちで分派したり喧嘩したり……何かそんなことばっかりして、人はこの神さまの神殿の前からひとり去り、ふたり去り――と去っていくだけでなく、果ては「あの指揮者は偽善者だ!」といった理由によって彼を殺したり、神殿自体を「なんだこんなもの!俺は神なんか信じないぞ!」とばかり自ら破壊する者まで出てくる……というのが、人間という生き物の本性なのだと思います(^^;)

 けれども、途方に暮れる必要はありません。イエスさまはすでにこうして破壊された神殿を、すでに三日で建て直してくださいましたから!


 >>そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。

「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか」

 イエスは彼らに答えて言われた。

「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」

 そこで、ユダヤ人たちは言った。

「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか」

 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

(ヨハネの福音書、第2章18~22節)


 >>あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

(ローマ人への手紙、第12章)


 >>主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえを捧げなさい。

(ペテロの手紙第一、第2章4~5節)


「愛は身近より」……とても難しいことですが、今年もそのことを覚えて、のろのろな亀の歩みながら、「このレンガを、どんな邪魔が入っても神さまにお捧げするんだ!」との心意気(?)で、目にゴミが入るたび、このことを思い出したいと思います。

 それではまた~!!





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