
【神秘の子羊(ヘントの祭壇画)】(ヤン・ファン・エイク)
(※絵画の解説をわざわざするなんて野暮ですが(*/ω\*)、羊の胸から金の杯に血が流れ出ていることに注目してください。これが、主イエスがわたしたちのために、愛をもって流してくださった血です)
>>苦痛には空白という要素があって
苦痛がいつ始まったとも
苦痛のない日が一日でもあったかとも
思いだせないもの
苦痛に未来はない ただ「いまある」だけ
だがその無限のひろがりは過去を含み
新しい苦痛の時代を見つけようと
あかあかと輝いている
(『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~』(中島完さん訳/国文社刊))
苦しみというのは、「ただそこにある」というだけでは価値のないものですが、そのことが信仰によってイエスさまの十字架上の苦しみと結びついたり、他者への思いやりが深まる、あるいは人の優しさがかつてないように沁み入るように感じられる……という意味においてのみ、確かに価値のあるものではないかと、時々思うことがあります。
マーリン・キャロザース先生の感謝と賛美の実践を日々行なっていますと、確かに時々、「今自分はなんの苦しみもなく、神さまへの感謝と賛美と愛で満ちている。ああ、神さま、あの青い空を感謝します。ああ、今日はなんて緑が綺麗なことでしょう!
」といった、「生きていて嬉しい、楽しい!
」状態になることがあるんですよね。
いえ、時々どころか、毎日24時間オールウェイズ(笑)、精神的には内や外にどんな悩みや苦しみがあろうとも、この精神的(霊的)なラインに沿って生活しているのですが、時々、本当にあるのです。悩みも苦しみもなく、ただ本当に100%とか120%、ただ純粋に神さまのことを褒め称えることの出来る瞬間が……。
けれどもこれも感謝なことに、(わたしの場合)こうした状態が五年も六年も続いたということは一度もなく、やっぱり、二年とか三年くらい何も悩み・苦しみのない状態に近い幸福を味わったあとは――やっぱりやって来るのですよね、例の人生山あり谷ありの苦難のようなものが。。。
でも、自分がある程度幸福で喜びに満ちている時にも、いつでも心の隅に「イエスさまの十字架を負う」、そして今その真っ只中にある方の苦しみや悩みをともに担う必要があるのではないか……という意識は、いつもあったと思います。
イエスさまは十字架上で「わたしは渇く」と仰せられました。これは、肉体的な喉の渇きのことではありません。イエスさまは霊的な渇きのことをおっしゃっておられるのです。
そして、このイエスさまの渇きというのは、ひとりでも多くの方がイエスさまのことを信じ、天国へ行けるようになることでしか、決して満たされることはないのです。
>>わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
(ヨハネの福音書、第10章9~15節)
イエスさまは、あなたのためにもすでに命を捨ててくださっています。
日本は偶像礼拝にはじまり、偶像礼拝に終わる国とは思いますが、神社仏閣にお賽銭を投げてもお金が減るだけで(笑)、わたし自身はノンクリスチャン時代にこうした事柄を通して願いが叶ったとか病気が癒されたといった経験は一度もしませんでした。
ただ、なんとなく自分がいいことをしたような清々しい気分は味わうのですが、神さまのことを信じた信仰の実というのは一度も見たことがないのです。
むしろ、クリスチャンになってからそうした行為が自分に不幸や災いを招くと知り、逆に恐ろしくなったものでした。というのも、一般にパワースポットと呼ばれることもあるこれらの場所は、色々な霊(悪霊)の溜まり場であり、多くの人は自分が本当は「何を拝んでいるのか」知らずに礼拝しています。
言ってみれば、空中楼閣の神に「わたしのこれこれの願いごとを叶えてください♪えへっ☆
」といったようにお賽銭を投げるのですが、おそらく、神社で引いたおみくじに何が書いてあったかを人がすぐ忘れるように、その後、その時の願ったことが叶っても叶わなくても、「ま、そんなもんだよね~
」くらいにしか、人は思わないものなのではないでしょうか(少なくともわたしはそうでした)。
>>あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(エペソ人への手紙、第2章1~9節)
この、空中の権威を持つ支配者というのは、サタン(悪魔)のことです。
イエス・キリストのことを告白しない以外の霊は、すべて彼の手の内にあります。彼ら(悪魔・悪霊)というのは、とにかく人々がイエス・キリストのこと以外を信じるよう、あらゆる妨害を仕掛けてきます。
つまり、こうした悪魔・悪霊といった存在が人に良いことをなすことがあるのもそのためなのです。たとえば、人をお金持ちにするですとか、その人の心の願いを叶えることのうちには、イエス・キリスト以外との霊の強まりを強化するために、そのように彼らは日夜勤勉に働いているといって過言でないと思います
(悪魔が勤勉だなんて笑ってしまうのですが、とにかく、主イエスから人々を切り離すためには彼らはあらゆる手段を講じて妨害してくるというのは本当のことです。また、そのことのゆえに日本の多くの方はキリスト教と聞いただけでも眉をひそめたり、「あれはおかしい宗教だ
」と言って突然怒りだす方までおられるくらいです)。
そしてイエスさまはこうしたことのすべてを最初からご存じであられたし、こうしたサタン(悪魔)の惑わしにより、多くの人々の魂が自分に近づいてくることがないということもよくご存じであられます。
もちろん、神さまが真実本当にまことの神であるなら、人間に「自分だけを信じる」ようにさせることはとても簡単なことだったでしょう。けれども、神さまは御自身の主権的権威を用いて、そうなさろうとはされませんでした。そして世界中で人々が色々な神(偶像)を造る一方、あるひとつの方法を通して御自身の救いの道を与えようとされたのです。
人間には自由意志がありますから、「何を信じるか」については自分で決めることが出来ます。けれども、神さまの福音というのは、人の内部から発生して「ああ、私はそれを知っていた(イザヤ書、第48章7節)」といったものではありません。
わたしも自分がクリスチャンになるまでは、もし神さまが本当にこの世界におられるのなら、その存在をはっきり知った時、「ああ、あの方のことは以前から知っていた気がする。彼は今までわたしが祈ったり、お賽銭を投げたりしてきた神にも連なる全世界をお造りになった方だ」といったように感じるのではないかと漠然と想像していました。
けれども、イエス・キリストという方が何者であるかを知った時、神さまは本当に人間にそれ以上決して文句を言わせない、優れて上なる知恵を働かせ、愛のすべてをこの方の上に注いだことにより――その愛により、神さまがこの穢れ多い我らをどれほどまでに愛してくださるのかがわかったのです。
本当に、信仰とは、神さまからの一方的な恵みであり、賜物と思います。>>行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。と聖書にもあるとおり、わたしも、善行積み上げ方式によってしか天国の扉は開かれないというのであれば、イエス・キリストのことを信じることは決してなかったでしょう。
そして、悪魔(サタン)・悪霊というのは、人間のこの「善行積み立て方式によってしか天国へは行けない」とか「良い行ないに富まなければあなたの心の願いは叶えられない」といった事柄に絡めて、人の良心を非常に攻め立てます。
けれども、そこから目を離して、イエスさまの愛に目をとめてください。もし、あなたがイエスさまのことを愛するなら、イエスさまの渇きは満たされて、命の君はあなたの愛によって喉を潤されるでしょう。
また、この方からは永遠の命の川の水が流れてきています。これは霊的な水で、これを飲む者は決して渇くことがありません。つまり、イエスさまは命の君としてこの川の源泉なる方ですから、本当はここからいくらでも霊的な水を飲むことが出来るのです。
それなのに、わたしたち人間のために、御自身卑しい人間の肉の身を纏われて、この穢れ多い地上へやって来てくださいました。イエスさまが渇いているのは、ご自身の永遠の命の水を飲む者に対して飢え、渇いておられるということなのです。
よい羊飼いなる命の君を信じ、その囲いの中に入りましょう。そうすれば、悪い者であるオオカミ(悪魔・悪霊)から守っていただけます。
>>私は、滅びる羊のように、迷い出ました。
どうかあなたのしもべを捜し求めてください。
私はあなたの仰せを忘れません。
(詩篇、119編176節)
イエスさまはあなたのことを今日も捜し求めておられます。
また、一度イエスさまのことを信じた方でも、人生に降りかかる諸事情により、一度信じたにも関わらず迷い出てしまうことがあるかもしれません。けれども、主の懐は深いですから、わたしたちが何度罪の道へ迷い出ようとも、イエスさまはそんなわたしたちを良い羊飼いとして捜し出され、その胸の中に愛をもって抱いてくださるのです。
それではまた~!!
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、
いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
(詩篇、第23編)
(※絵画の解説をわざわざするなんて野暮ですが(*/ω\*)、羊の胸から金の杯に血が流れ出ていることに注目してください。これが、主イエスがわたしたちのために、愛をもって流してくださった血です)
>>苦痛には空白という要素があって
苦痛がいつ始まったとも
苦痛のない日が一日でもあったかとも
思いだせないもの
苦痛に未来はない ただ「いまある」だけ
だがその無限のひろがりは過去を含み
新しい苦痛の時代を見つけようと
あかあかと輝いている
(『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~』(中島完さん訳/国文社刊))
苦しみというのは、「ただそこにある」というだけでは価値のないものですが、そのことが信仰によってイエスさまの十字架上の苦しみと結びついたり、他者への思いやりが深まる、あるいは人の優しさがかつてないように沁み入るように感じられる……という意味においてのみ、確かに価値のあるものではないかと、時々思うことがあります。
マーリン・キャロザース先生の感謝と賛美の実践を日々行なっていますと、確かに時々、「今自分はなんの苦しみもなく、神さまへの感謝と賛美と愛で満ちている。ああ、神さま、あの青い空を感謝します。ああ、今日はなんて緑が綺麗なことでしょう!



いえ、時々どころか、毎日24時間オールウェイズ(笑)、精神的には内や外にどんな悩みや苦しみがあろうとも、この精神的(霊的)なラインに沿って生活しているのですが、時々、本当にあるのです。悩みも苦しみもなく、ただ本当に100%とか120%、ただ純粋に神さまのことを褒め称えることの出来る瞬間が……。
けれどもこれも感謝なことに、(わたしの場合)こうした状態が五年も六年も続いたということは一度もなく、やっぱり、二年とか三年くらい何も悩み・苦しみのない状態に近い幸福を味わったあとは――やっぱりやって来るのですよね、例の人生山あり谷ありの苦難のようなものが。。。

でも、自分がある程度幸福で喜びに満ちている時にも、いつでも心の隅に「イエスさまの十字架を負う」、そして今その真っ只中にある方の苦しみや悩みをともに担う必要があるのではないか……という意識は、いつもあったと思います。
イエスさまは十字架上で「わたしは渇く」と仰せられました。これは、肉体的な喉の渇きのことではありません。イエスさまは霊的な渇きのことをおっしゃっておられるのです。
そして、このイエスさまの渇きというのは、ひとりでも多くの方がイエスさまのことを信じ、天国へ行けるようになることでしか、決して満たされることはないのです。
>>わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
(ヨハネの福音書、第10章9~15節)
イエスさまは、あなたのためにもすでに命を捨ててくださっています。
日本は偶像礼拝にはじまり、偶像礼拝に終わる国とは思いますが、神社仏閣にお賽銭を投げてもお金が減るだけで(笑)、わたし自身はノンクリスチャン時代にこうした事柄を通して願いが叶ったとか病気が癒されたといった経験は一度もしませんでした。
ただ、なんとなく自分がいいことをしたような清々しい気分は味わうのですが、神さまのことを信じた信仰の実というのは一度も見たことがないのです。
むしろ、クリスチャンになってからそうした行為が自分に不幸や災いを招くと知り、逆に恐ろしくなったものでした。というのも、一般にパワースポットと呼ばれることもあるこれらの場所は、色々な霊(悪霊)の溜まり場であり、多くの人は自分が本当は「何を拝んでいるのか」知らずに礼拝しています。
言ってみれば、空中楼閣の神に「わたしのこれこれの願いごとを叶えてください♪えへっ☆


>>あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(エペソ人への手紙、第2章1~9節)
この、空中の権威を持つ支配者というのは、サタン(悪魔)のことです。
イエス・キリストのことを告白しない以外の霊は、すべて彼の手の内にあります。彼ら(悪魔・悪霊)というのは、とにかく人々がイエス・キリストのこと以外を信じるよう、あらゆる妨害を仕掛けてきます。
つまり、こうした悪魔・悪霊といった存在が人に良いことをなすことがあるのもそのためなのです。たとえば、人をお金持ちにするですとか、その人の心の願いを叶えることのうちには、イエス・キリスト以外との霊の強まりを強化するために、そのように彼らは日夜勤勉に働いているといって過言でないと思います


そしてイエスさまはこうしたことのすべてを最初からご存じであられたし、こうしたサタン(悪魔)の惑わしにより、多くの人々の魂が自分に近づいてくることがないということもよくご存じであられます。
もちろん、神さまが真実本当にまことの神であるなら、人間に「自分だけを信じる」ようにさせることはとても簡単なことだったでしょう。けれども、神さまは御自身の主権的権威を用いて、そうなさろうとはされませんでした。そして世界中で人々が色々な神(偶像)を造る一方、あるひとつの方法を通して御自身の救いの道を与えようとされたのです。
人間には自由意志がありますから、「何を信じるか」については自分で決めることが出来ます。けれども、神さまの福音というのは、人の内部から発生して「ああ、私はそれを知っていた(イザヤ書、第48章7節)」といったものではありません。
わたしも自分がクリスチャンになるまでは、もし神さまが本当にこの世界におられるのなら、その存在をはっきり知った時、「ああ、あの方のことは以前から知っていた気がする。彼は今までわたしが祈ったり、お賽銭を投げたりしてきた神にも連なる全世界をお造りになった方だ」といったように感じるのではないかと漠然と想像していました。
けれども、イエス・キリストという方が何者であるかを知った時、神さまは本当に人間にそれ以上決して文句を言わせない、優れて上なる知恵を働かせ、愛のすべてをこの方の上に注いだことにより――その愛により、神さまがこの穢れ多い我らをどれほどまでに愛してくださるのかがわかったのです。
本当に、信仰とは、神さまからの一方的な恵みであり、賜物と思います。>>行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。と聖書にもあるとおり、わたしも、善行積み上げ方式によってしか天国の扉は開かれないというのであれば、イエス・キリストのことを信じることは決してなかったでしょう。
そして、悪魔(サタン)・悪霊というのは、人間のこの「善行積み立て方式によってしか天国へは行けない」とか「良い行ないに富まなければあなたの心の願いは叶えられない」といった事柄に絡めて、人の良心を非常に攻め立てます。
けれども、そこから目を離して、イエスさまの愛に目をとめてください。もし、あなたがイエスさまのことを愛するなら、イエスさまの渇きは満たされて、命の君はあなたの愛によって喉を潤されるでしょう。
また、この方からは永遠の命の川の水が流れてきています。これは霊的な水で、これを飲む者は決して渇くことがありません。つまり、イエスさまは命の君としてこの川の源泉なる方ですから、本当はここからいくらでも霊的な水を飲むことが出来るのです。
それなのに、わたしたち人間のために、御自身卑しい人間の肉の身を纏われて、この穢れ多い地上へやって来てくださいました。イエスさまが渇いているのは、ご自身の永遠の命の水を飲む者に対して飢え、渇いておられるということなのです。
よい羊飼いなる命の君を信じ、その囲いの中に入りましょう。そうすれば、悪い者であるオオカミ(悪魔・悪霊)から守っていただけます。
>>私は、滅びる羊のように、迷い出ました。
どうかあなたのしもべを捜し求めてください。
私はあなたの仰せを忘れません。
(詩篇、119編176節)
イエスさまはあなたのことを今日も捜し求めておられます。
また、一度イエスさまのことを信じた方でも、人生に降りかかる諸事情により、一度信じたにも関わらず迷い出てしまうことがあるかもしれません。けれども、主の懐は深いですから、わたしたちが何度罪の道へ迷い出ようとも、イエスさまはそんなわたしたちを良い羊飼いとして捜し出され、その胸の中に愛をもって抱いてくださるのです。
それではまた~!!

主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、
いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
(詩篇、第23編)
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