
>>女は言った。
「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます」
イエスは彼女に言われた。
「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」
女はイエスに言った。
「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう」
イエスは言われた。
「あなたち話しているこのわたしがそれです」
(ヨハネの福音書、第4章19~26節)
ええと、サマリヤの女性のこの箇所は、この節よりも前の<永遠の生ける水>のことのほうを大きく取り上げるべきという気がするのですが(汗)、ちょっと自分的に今朝方感じたことがあったもので、今回はそのことでもと思います(^^;)
21節、「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます」……そして、実際に今現在<そういう時>が来て長く経つわけですよね。
わたしの住んでる場所は、四方を山に囲まれていたりするのですが、今住んでる場所から、マンションなどの高い建物の背後に山が見えます。北海道では、この山々から雪がまったく見えなくなったのがほんとついこの間という感じで、今も桜が綺麗に咲いていたりします

そして五月のこの時、新緑が力強く生命の歌を歌ってるように感じるわけですけど、朝ごはんを食べ終わって、「さーて、お祈りしようっと!」と思った時のことでした。
ふと窓のほうから山のあるほうを眺めて――ヨハネの福音書のこの箇所を思いだしたのです。
べつにわたし、この山々をエルサレムの山に見立てようとか、そんなことはまるで思いもしなかったのですが、今朝はほんの一瞬、不思議な気持ちになったんですよね。白やレンガ色などをした高いマンションが、なんだか中世の王宮や神殿のように錯覚しそうになったのです(ちなみにわたしが住んでるのは7階です^^;)。
そしてよく考えてみると、今も昔もそういう意味では何も変わりがないのかなあ~という気がしたというか。。。
神さまは常に<永遠>という観点から物事をご覧になるわけですが、極端な話、富士山でもロッキー山脈でもアンデス山脈でもどこの山で祈っていようとも、神さまが真実耳を傾けられるのは、『霊とまことによって』祈る人々に対してなのかなあという気がします。
もちろん、エルサレムには特別の祝福があると思いますし、わたしも人里離れた大自然の中で祈っていて、特別な経験をしたということがあるので、そういう部分は間違いなく絶対にあるのと同時に――今は世界中のどこで祈っていても礼拝していても、『真の礼拝者』が『霊とまことによって』祈り礼拝するなら、世界のどこであっても神さま、イエスさまから祝福を受けることが出来るという恵みがあるということですよね。
あらためてそんなふうに思うと、天気が良かったせいもあって、山々の緑がよりいっそう瑞々しく、美しく目に迫ってくるような感じがしました


これから北海道も夏になり、7~8月は「うえ~。あぢい~!!

それではまた~!!

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