神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

この世における生きる意味と、本当の成功とは?

2020年08月19日 | キリスト教

 >>わたしが道であり、真理であり、いのちです。

(ヨハネの福音書、第14章6節)


 キリスト教徒にとってそれは、イエス・キリストを信じることです。

 なので、クリスチャンにとっての生きる意味やこの世の成功といったことはすべてそこに懸かってきますので、お話のほうは実はこれで終わりです(笑)

 でも、同じく聖書には「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネの福音書、第16章33節)とあるとおり、クリスチャンもこの世にあっては患難が許されます。また、とにかく祈って聖書を読み、礼拝を守るといったように、神さまを第一にしたいといくら願っていたとしても――この世で生きるということは今の現代社会では「経済活動を行う」こととほぼイコールですから、その部分における「この世への対応」といったことについては、クリスチャンであっても時に悩み労し、人間関係的なことでも苦しめられたり……といった問題は起こってきたりするわけです。

 そうした時にどうすればいいかというと、マーリン・キャロザース先生の「(神さまに対する)感謝&賛美」を徹底する、ということが、いかなる場合でも基本となることなのですが、ここのブログではしつこいくらい何度もそのことが出てきますので、今回は少し違う角度と言いますか、人間的な角度からこのことの助けとなるようなことを書いてみたいと思いました♪


 >>たくさんよく笑い、
 知性ある人たちから尊敬され、
 子どもたちから愛される。

 誠意ある批評家から評価され、
 偽りの友人の裏切りに耐え、
 美しいものを慈しむ。

 他人の一番良い所を見つけ、
 たとえば健やかな子どもを育てたり、
 花だんを作ったり、
 社会の問題を解決することで、
 世界を少しだけ良いものにする。

 自分がいることによって、
 たったひとつの命でも、ほっと息をつけたことを知る。

 これが、成功ということです。


(『幸せの鍵が見つかる、世界の美しいことば』訳・絵、前田まゆみさん/創元社より)


 また、詩人のエミリー・ディキンスンは、


 >>もし私が ひとつの心がこわれるのを
 止められるなら
 生きるのも むだではない

 もし ひとつの命のうずきを
 やわらげられるのなら
 または その痛みを
 しずめられるのなら

 それとも 気をうしないかけた こまどりを
 巣にもどして あげられるなら

 生きるのも むだではない

(『幸せの鍵が見つかる、世界の美しいことば』訳・絵、前田まゆみさん/創元社より)


 と歌っていて、エマーソンの言葉のほうは「なるほどそうかもしれないが、ちょっと理想的すぎないかな?」という方でも、ディキンスンの言葉になら、きっと心から深く同意されることと思います。

 ちょっとここで、エマーソンの言葉を逆にしてみましょうか。


 >>知性ある人々から尊敬されず(蔑まれてゴミ扱いされ)、
 子供たちからは愛されないどころか嫌われる。

 誠意ある批評家から親指を下にされ、
 真実ある友人の裏切りには到底耐えることなど出来ず、
 心が傷つくあまり、美しいものがあっても気づかず通すぎてしまう。

 他人の欠点ばかりが絶えず目につき、そのことで愚痴をこぼし、
 子供でも育ててみれば何かが変わるかと思いきやそんなこともなく、
 花壇など作ってみてもただ虚しく、
 自分の問題ですらどうにも出来ないのに、
 何かの社会問題を解決するだなんてとんでもない!
(そんな力、わたしにあるわけがない!!)

 どこにいても、誰からも余りものにされていじめられ、
 ほっと息つく暇さえもない。

 さあ、みなさんわかるでしょう!
 これが人生における悲惨でなくて、一体なんだと言うのだ!!


 ……流石にここまで極端なことはないかもしれませんが(笑)、いくつかのことには心当たりがある、人生がそうなってしまうことも理解できる、といったように感じられる方も多いのではないでしょうか。

 また、「蜘蛛の糸」の中で、カンダタが生前殺人や放火といった罪を犯していながら、小さな蜘蛛を助けるという善行を行ったことがあったことから、お釈迦さまが地獄に糸を垂らされたように――生前一度も美しい行いや善行をしたことがない、なんていう方はおられないと思うのです。

 でも、大抵の場合、「この世に生きるゆえに乗り越えていかなければならない苦難や苦悩」のために、他人を踏みつけにしてでも自分が上へ行こうとしたり、自分が仲間外れにされないために、他の誰かがそうなっているのを見ても助けなかったり、「本来なら~~することが正しい」と思うことをどうしても行うことが出来ない――「だから、仕方がないのだ」と自分を納得させながら生きていく……人間の人生の多くというのは、そんなものなのではないでしょうか。

 その他、経済的なこともありますよね。どんなに綺麗ごとを並べたとしても、お金はないよりはあったほうがいいわけですし、経済的なことに関していえば、次のような言葉があります。


 >>真の成功は銀行通帳ではなく、満足した心、平穏な気持ちです。

 自分のした仕事で、報いと感じているものを手に入れ、自分はそれに値する人間であることを知っていることです。

 真の成功とは請求書をなんの苦もなく支払い、自分と愛している人の必要を満たし、少しばかり欲しいものを手に入れ、いくらか貯金できて、誰かに分けてあげられるくらいお金が残ることです。

 真の成功とは、今日のこのままで、あなたの人生がいかに豊かであるかを認識することです。

(『シンプルな豊かさ』サラ・バン・ブラナックさん著、延原泰子さん訳/早川書房より)


 これは書かれた文章を読むと「なるほど、そのとおり!」とか、「いいこと言うなあ」的に素直に思えるものの、実際はとても難しいことではないでしょうか(^^;)

 キリスト教徒、クリスチャンにとって真の成功とは、イエス・キリストを信じ、出来うる限り主の似姿に近い者とされることです。

 けれども他方、聖霊さまを通して神さまに祈り聞きつつ、この世の出来事といったものにも対応していかなくてはなりません。また、ここにはありとあらゆるイエスさまにつまずくための地雷……いえ、地雷というほどではなくても、つまずきの石がたくさん置かれているといっていいでしょう。

 わたし自身もそうですが、「このくらいの小さい石に、わたしがつまずくはずがない」くらいのことに、実は簡単に足を取られて転んでしまったり、でも、転んで足をすりむいても、「主の御名を賛美します!この程度の怪我ですんだことをあなたに感謝します!!」といったようなことを繰り返すうち、イエスさまのことを真実本当に信じているクリスチャンは、石の多いでこぼこ道から何マイルも歩いてのち――「ここはなんて美しい、素晴らしい場所なのでしょう!主よ、こんな場所にまで導いてくださって、本当にありがとうございます!!」といった人生の瞬間に何度でも出会うことが出来るようになるものなのではないでしょうか。

 次のカルヴィン・クーリッジの言葉は、人生の成功に関するとても有名な言葉ですが、信仰にも同じものが大切ではないかという気がするので、書き記してみたいと思います。


 >>この世には不屈の精神に代わるものはない。
 才能ではだめだ。才能を持ちながら成功しなかった人間ほどありふれたものはない。
 天才もだめだ。報われない天才は諺になりうるほどだ。
 教育だけではだめだ。世の中は教育を受けた落伍者があふれている。
 不屈の精神と決意だけが全能である。

(『シンプルな豊かさ』サラ・バン・ブラナックさん著、延原泰子さん訳/早川書房より)


 ただひとつ、不屈の精神と決意だけが全能である、とクーリッジは言っています。

 今回は、わたしがもともと「~~の名言」系の本が好きなので、その関連で記事にしてみたのですが、少しばかり心を慰められたり、励ましを受けたり、「いい言葉だなあ」と思ったりしていただけたとしたら幸いです♪

 それではまた~!!





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