神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

祈りは壊されるもの。

2020年08月24日 | キリスト教

「祈りとは何か?」と聞かれた場合、キリスト教の教義と照らし合わせた、信仰的に立派な答えというのは色々あると思います。

 ただ、自分的に感覚的な部分で思うのは――「祈りとは壊されるもの」、さらに言うなら「壊されてのち、練り上げられたものこそが本当の祈り」といったものであるような気がします。 

 なんと言いますか、基本的に神さまへの祈りというのは、「壊される」ことが前提になっているというのでしょうか。

 もちろん、ある祈りに関しては、祈ってそう時が経たずに叶えられることもあれば、コツコツ毎日祈り続けていたら、随分時が流れてから神さまからの答えを見たといったこともある一方、特に近頃は自然災害や新型コロナウイルスなど、「神がどうとか関係ないやん!」という人々が無神論になってまったくおかしくない状況がたくさん許されています。

 そのですね、日本でクリスチャンであるということは、「これは神さまに聞き届けられるかどうか心もとないにしても、祈らないわけにいかない」といったタイプの祈りが多くならざるをえないと思うのです。

 どういうことかというと、クリスチャン同士で祈る場合にはまったく問題ないのですが、これだけクリスチャン人口の少ない国で祈るとなると、基本的にまわりの人の多くはノンクリスチャンの方のほうが圧倒的に多い。そういう中で、知り合いの誰それが病気で入院しているとか、息子さんが自殺して死んだらしいとか、こういうことで困り果てているらしい……といったことを聞くと、とにかく祈らないわけにはいかないわけです。

 特に、息子さんが自殺されたといった場合、その親御さんもクリスチャンではなく、息子さんも生前クリスチャンというわけでもなかった、でもその方の救いのためや自殺した息子さん自身も天国へ行けますようにと必ず祈ります。これは自然災害などで亡くなった方の場合もまったく同じで、「イエスさまのことを知る機会がなかったかもしれなくても、天国で憩い、安らうことが出来ておりますように」といった形で祈ります。

 あと、わたし、北朝鮮のためにも祈っています(笑)。笑、なんて書いたりしたら不謹慎ですが、この世界で北朝鮮ほど祈り甲斐のある国はないのではないでしょうか。拉致被害者の方がひとり残らず帰国できますように、といったことについてももちろん祈りますが、北朝鮮の国の隅々にまでイエスさまの福音が届けられることが出来るよう、その環境が一日も早く、一刻も早く一秒でも早く整うように祈っています(また、このことについては韓国のクリスチャンの方がどれほど熱い涙をもって祈っておられることだろうと思います)。

 でも、その他、世界平和に関することですとか、実はこうしたことっていうのは――普段はある程度祈ることは出来ても、わたし自身にとてもショックだと感じる個人的事件が起きたりしますと、一時的にストップしたり、ひどい場合だと自分の問題に祈りを集中させるあまり、それ以外のことは祈ったり出来なくなったりとか、これまでに何度かあったことでした。

 そこで、一度わたしの中で祈りは壊され(ひどい場合だと、一度根底からまったく覆されて壊され、粉々になるといっていいと思います)、その後また、そのバラバラになった破片を集めて、再び基礎や土台の部分から祈りを組み直しはじめる……といった練り直しの作業を、何度も何度も何度も繰り返し続けるわけです。

 たぶん、世界平和に関してですとか、誰か知りあいがいるわけでもないのに、遠くの国の戦争や難民の方のことについて祈る時、「なーんかちょっと偽善っぽくないかな」という疑いを、その人は持たれることでしょう。わたしもそうでしたし、祈って何か意味があるのかとは思わないにしても、「これは真実、わたしの心から出ている真心の祈りといえるでしょうか」とは思うわけです。

 でも、聖霊さまと結びついている祈りというのは、必ず「意味がある」ということが感覚としてわかる、あるいは最初はそう思ったにしても、聖霊さまが必ず「意味があるよ」ということを必ず教えてくださいます。こうしてクリスチャンの祈りといったものは、ただ機械的・無機的に何か文言を唱えるといったことではなく、有機的に神さまと結びついて、間違いなくイエスさまは聞いてくださっているということがわかる、というか。

 これはたとえとしてどうかとは思いますが、簡単にたとえたとすれば、わたしはスマートフォンなどの端末で、それが聖霊さまによってイエスさまという大元のサーバーと繋がっているといったような、生きて有機的に霊的なネットワークとして行き来があるといったことに似ています。

 つまり、祈りのポイントとして、わたしも結構落としがちですが(汗)、自分であー祈ってこー祈ってそー祈る……というだけでなく、聖霊さまが必ず応答してくださるポイントがありますから、そこを(霊的な)耳を澄まして聞いて、そうした返答や聖書による確認が取れたとしたら、その言葉に聞き従っていくということです。

 もっとも、「そんなことをしてなんになるのだろうか」とか、「えーっ、そんなことは絶対無理です、主よ!」といった場合もあるわけですが、結構「なんとなくそう語られた気がする」的なことでも、信仰的なことが動機で行ったことは、あとから必ず実が出てきたり、かなりのところ「無理だ」と感じられることでも、行わなくて後悔することはあっても、行って後悔するということはまずないと思うんですよね(^^;)

 また、とにかく祈りの蓄積として、長期的に祈っていくと、自分が特に祈っていなかったことでも、困っている時に必ずイエスさまから助けの手が出たり、聖霊さまが導いてくださって困難なところを救出されたりと、「あ、これは毎日祈っている祈りの答えだ!」的な局面には必ず出会うことが出来ます。

 あと、祈りの初級的なこととしては、「神さま、祈れません」とか、「いつも三日坊主で終わってしまいます」といったことがあると思うのですが、これはわたしもノンクリスチャンだった頃に経験したことでした。けれども、教会でイエスさまを信じる信仰告白をし、聖霊さまを与えられると、「どう祈ったらいいか」もまた聖霊さまが教えてくださいます。つまり、「どう祈ったらいいかわかりません」とか、「祈れる者にしてください」といったように祈ったり、あるいは牧師さんやまわりの教会員の方などに「どう祈ったらいいですか」と聞いて教えてもらったり、祈り会(祈祷会)に参加したりしていくうちに――だんだんに祈り人として成長していくことが出来るということなんですよね。


 >>ちぎれちぎれになった信仰を元通り直すのに
 いい縫い針があるのですよ
 見たところ針に形はありません
 糸は空の中で刺すのです

 裂けたことがない信仰ほどには
 永持ちしないでしょうけれど
 それでもほんとうに着心地はよろしいし
 前と同じでゆったりしていますよ

(エミリ・ディキンスン詩集「自然と愛と孤独と」第4集、中島完さん訳/国文社刊より)


 ティキンスンのこの詩に関しては、以前にも一度引用したのですが、イエスさまのことを信じてから、「わたしは一度も信仰が裂けるような経験をしたことはない」という方は、おそらくそう多くはいらっしゃらないのではないでしょうか。

 そして、信仰が裂けるたびに、震える手で見えない縫い針を手に取り、もう一度裂けた部分を縫い直すのです。時には涙を流しながらそうすることもあるでしょう。けれどもこうして、何度となく信仰が裂けるような思いをするたびに縫い直してゆくと、それこそがもうその人の素晴らしい信仰の衣服として神さま、イエスさまの目に留めていただけるということなのだと思います。

 もちろん、こうした書き方をすると、神さまは最初から立派な衣装を与えてくださらないケチなお方だ……と言っているように聞こえるかもしれませんが、そうではないのです。なんと言うのでしょう。RPGゲームの「ドラゴン・クエスト」や「ファイナル・ファンタジー」の最初の頃の装備って、皮のよろいとか銅の剣とか、ひどかったらこん棒とか(笑)、とにかく貧弱なものですよね。けれども、聖書を読んだり祈ったり、礼拝を守ったり献金したり――といった心からの捧げものをイエスさまに捧げるうち、信仰がレベルアップし、いつしか装備のほうも鋼のよろいに諸刃の剣とか、さらにはそれよりもっと上の伝説の剣的な装備にどんどんパワーアップしていくといった感じのことに、もしかしたら似ているかもしれません。

 聖霊さまによる導きやミッションなどを与えられても、必ずしもいつも聞き従えるとは限りませんし、信仰的に失敗して後悔することもあります。けれども、ローマ人への手紙、第8章28節に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあるように、失敗もまた、そのことに対して感謝の対応を取るなら、イエスさまの恵みによって必ず益としていただけます。

 まあ、こう考えていって「今のわたしの(信仰的な)装備はどんな感じだろう?」と想像してみますと、「ボロ着と木製の杖」といった感じもしますが、(洗礼者)ヨハネも、「らくだの毛の着物」を着ていたと言いますし、大体聖書に出てくる聖人さまというのは、そう衣服的に立派な服装はしておらず、そんな世間的なことより内面の信仰が大切といったことを説いているものではないでしょうか(^^;)

 なんにしても、毎日イエスさまが祈る時間と祈れる環境、そのための心備えなど、日々必要なものすべてを与えてくださる方であることを感謝します

 それではまた~!!





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