神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

新型コロナウイルスと対岸の火事。

2020年08月17日 | キリスト教

 失意の胸へは
 だれも踏み入ってはならない
 自身が悩み苦しんだという
 よほどの特権を持たずしては――

(『エミリ・ディキンスン詩集~続自然と愛と孤独と~』(中島完さん訳/国文社刊)


 阪神・淡路大震災が起きた時、確かある新聞記者の方だったと思うのですが、「自分たちは何もわかっていなかった」とおっしゃっているのを、テレビで見たことがありました。

 つまり、それまでにも、他の国でなら――大きな地震や津波がやって来て、たくさんの人々が亡くなった、といった報道ならば自分たちもしてきた。でも、自分の国で同じことが起きてみて初めて……今まで自分たちが記事にしてきたのは対岸の火事としての報道だったことがわかった、といったようなことだったと思います。

 ちょうど今、広島・長崎への原爆投下、また終戦記念日前後ということもあって、テレビの特集番組などを見ていたところ……「戦争の苦しみは経験した者でないとわからない」、「原爆の苦しみは体験した者でないと絶対わからない」といった言葉を聞きました。

 毎年、夏のこの季節になると、大体戦争体験に関するテレビ報道などを見て、「そりゃそうだよ」、「それに、軽々しく「わかった」なんて言える人は絶対いないよね」みたいなことは、大体この時期に今までも思ってきました。

 でも何故か、今年だけは何かが違ったんですよね。。。

 その、「原爆体験は経験した人でないと絶対わからない」という言葉を聞いた時、東日本大震災を経験された方が「あの苦しみは体験した人でないと絶対わからない」とおっしゃっていた言葉とリンクした、というか。

 そして今、新型コロナウイルスという世界中を恐怖に陥れている大きな問題があって、わたし自身、新型コロナウイルスに罹患して重症になったわけではないですから、「その恐ろしいばかりの苦しみ」について、ある程度想像は出来ても、本当の意味ではまるでわかってないと思います。

 それで、ですね。ここのブログでは何度となくマーリン・キャロザース先生の「すべてのことを(良いことも悪いことも)神さまに感謝し、賛美する。そしてその時、決して動かないと思っていた、自分ではどうにも出来ないと思っていた人生上の大きな岩が動いて、問題が解決する」といったことについて、何度も書いてきました。

 そして、わたしがいつもオンライン礼拝を守っている「ザ・ライト・オブ・エターナル・アガペー教会」ではですね、「この新型コロナウイルスを神さまに感謝します!こののちに神さまが勝利を表してくださることを賛美します!!」といったことを堂々と宣言しています。

 見るのはほとんどというか、ほぼ全員に近いくらいの方がクリスチャンと思うのですけれども、それでもわたしがノンクリスチャンで、自分が重症化して命からがら退院したあとにそんなことを聞かされたら……その人の首を絞めてやろうかと思うんじゃないかと思うんですよね(^^;)

 わたしは一キリスト教徒として、マーリン・キャロザース先生の教えについて霊肉ともに深く同意しているので、同じように祈るのですが――ノンクリスチャンの方にとっては、「あいつら頭おかしいんと違うか」みたいなことだろうなというのは、人間の理性で考えた場合、とてもよくわかるのです(また、そのように祈っている牧師さん御自身、そのことは重々承知の上でそう祈っておられると思います)。

 そして先日、NHKのテレビで、浦上天主堂のことを少し報じていたんですよね。長崎に原爆が落ちた時、浦上天主堂にもまた、被爆したクリスチャンの方がたくさんいらっしゃいました。そして、ある医学生の方が、被爆して悲惨な目に遭っているにも関わらず、このクリスチャンの人々が夕方になるとイエス・キリストに祈りはじめるのを見て、最初は非常に腹が立ったそうです。あなたたちの信じているこの神が原爆というものを落としたのではないか、とそう思って。でも、のちには自分は本当はあの時、人間の最高にして最善の、素晴らしい尊厳を見たのではないかといったように、心が変えられた……ということでした。

 原爆投下も戦争も、愚かな人間が犯したことであるにしても、何故神はそれを止める力がおありなのにそうされなかったのか――といったことについては、同じ愚かな人間のひとりであるわたしには、いくら考えてもわかりません。

 ただ、現在全人類が困り果てている新型コロナウイルスについていえば……実は今、分母が逆になったのではないかと、そんなふうに少し思うようになりました。

 あの~、これはあくまでもわたしが、個人的かつ人間的に思うことなので、純正なキリスト教信仰といったこととは少し違うことになるかもしれませんが、大体阪神大震災が起きる前くらいまでは、世界のどこかで大きな地震が起きた、津波が起きた、戦争で非常に苦しんでいる人々がいる……といった報道を見ても、多くの日本人にとってそれは対岸の火事だったと思うんですよね。

 もちろん、心を痛めたり、寄付金を少しばかり送ってみたりとか、そんなことはわたしもしたりしたものの――本質的な意味では「どっか遠くの国で起きた、自分には関係のない出来事」だったと思います。

 でも、新型コロナウイルスの苦しみについては、全世界共通なわけですよ。そして、このことの内には何か、実は深い意味があるのではないかと、近ごろ初めて少しだけ思うようになってきました。「<アレ>にはほんと、みんな困ってるよね」という意味で、言葉は通じなくても、すべての人類が同じ共通した思いを今現在まったく同じ時間を通して持っている……実はこれはすごいことなんじゃないかと、少しだけ思うようになってきました。

「我々人類はひとつ」なんていう言葉を聞かされても、実質的には「みんな、国によって言葉や民族や肌の色や習慣や宗教や、色々違っていてわかりあうのは難しい」わけですよね。わたし自身はこうした「個人の苦しみ」とは別の「世界の苦しみ」といったものは、ある国で戦争やテロが起きたりした時、あるいは大きな自然災害の起きた国などに「嫌も応もなく押しつけられたもの」といったイメージでした。

 つまり、全世界的ではなく、一部の国やある地域に局所的に押しつけられたものであって、そうした人々が「意味もなく苦しみ労した、人生上の涙や虚しさ」といったものは――誰かがそうした強制的に捧げざるをえなかった犠牲があることで、実は自分は平和な国で平和を享受することが出来ているのではないか……と、漠然と感じるところがあったということです(=自分と無関係な国や人々の間で起きていることのように一見思われるけれども、どこか無意識のところではお互いに連帯し、繋がっているところがあるのではないか、と)。

 最終的に何を言いたいかというと、新型コロナウイルスという問題が起きたことで、一時的にしても戦争であるとか、そうした物騒なことは極めて起こしずらい環境に今地球はあるわけですよね。そして、名目として「~~戦争」や「~~紛争」といった名称がついてなかったにしても、中東あたりは常に不安定なわけですし、水面下で起きている戦争といったものであればずっと継続して起き続けてもいるわけです。

 だから、そのあたりの動きが新型コロナウイルスによって鈍ったことで、実は今助かっている人々がいるのではないか……と、今少し思ったりしています。そして、新型コロナウイルスの困難というのは、目に見えないものに対する虚しい恐怖や不安というのがとても大きいですよね。

「綺麗にしても綺麗にしても、ミクロレベルで見た場合これで本当に綺麗になったのだろうか」という不安、「これで絶対罹患しないとは言い切れない」、「最善を尽くしたつもりでいても、罹患する時には罹患する」――また、こうしたことで悩みはじめるとキリがないという虚しさも伴います。 

「でも、こんな意味のないように思えることを意味があると思って続けなきゃいけない」というか、実際のところ予防ということに関していえば意味があるにしても、心情としてはそうならざるをえないところがすごくありますよね

 でも、自分的には今ちょっと、この全人類が負うことになった苦しみには意味がある、といったように思うようになってきました。そして、意味があるとかないとかいう以前の問題として、一クリスチャンとして、ずっと祈ってきて良かったと、本当にそう思っています

 それではまた~!!





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