
【天と地の三位一体】バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
タイトル的に、「何もできない力」っていうのは言い方おかしい気がするんですけど、なんとなくわかっていただけるかと思います(^^;)
普段、人って多くの方が、自分に出来ることを何かそれなりに積み上げて日々を生きていると思うのですけれども、たとえば人生上に何がしかの台風がやって来てそれまで積み上げてきたものを倒していくと、当然その時は「あ~あ
」と思い、でもいつまでも落ち込んでいても仕方ないから、やがてまた立ち上がって同じように積み上げていく……人生にはどこかそんなところがある気がします。
その台風があんまり大きなもので、自分自身や人生といったものを巻き込んでいくと――当然立ち直るのにも時間がかかりますし、また自分ひとりでそうするというのではなく、まわりの人の慰めやサポートといったことも当然必要になってきますよね。
わたしが今書いているのは、人生上というか、人の心の中で起きた台風や竜巻といったことなので、気象現象としての台風といったこととは少し違うのですが、人生上というか、人の心の中には自分でゼロ
と感じる地点やそれよりも下のマイナスの地点といったものが存在すると思います。
わたしもそうですが、人はみんな人生は絶対にプラスがいいと思っていて、毎日無意識のうちにも「何かいいことないかな♪」と目や心で探しているものですよね。そしてそのためには運まかせというのでは駄目で、努力といったものが当然必要になってくると思い、努力することでその分の何かを運命からプラスの方向でもらえると信じて日々を生きる……けれど、そうした善的方向性で努力していることが報われず、むしろ皮肉な状態やますます悪い状態に人生が落ち込んでいく時――「神さまなんで」とか「一体自分がなんでこんな目に遭うのだろう」とか「前世で何か悪いことをしたからこんなことが起きてしまったのだろうか」……と、そんなふうに思い悩むものですよね。
そういう時、ゼロやマイナスに感じる心の状態を再びプラスの高いところまで持っていくのは、相当力がいるというか、心身ともに相当力を消耗してしまいます
でも、わたしの信じているキリスト教的には、「何もできない時」こそ、神さまがわたしたちの人生に奥深くに入りこんで力を発揮してくださる瞬間なのです。
これは「ピンチの時こそチャンス」というよりも――普段、わたしたちが肉的な欲望から握っているものを色々と手放し、ゼロやマイナスの状態になった時こそ、神さまがわたしたちの人生に介入してくださるチャンスだということです。
自分の力でレンガをひとつひとつ積み上げていって、あともう少しで家が完成するという時に、台風や竜巻のようなものが粉みじんにしていったとしたら……神さまを恨まずにまた一から同じことを始められる人というのは極めて少ないでしょう。
けれど、それは再び「自分の力」でやろうとするから苦しいのであって、一度神さまにすべてをお委ねして、「ここにもう一度家を建てたほうがいいでしょうか。それともそのための労力を別のことに使ったほうがいいでしょうか」といったことや、同じように家を建てるのだとしても、どのような設計図のとおりに建てればいいのかを神さまにお聞きするのです。
すると、それが聖霊さまを通した祈りでさえあれば、必ず祈りを通して指示が来ます。また、それが来ない場合や、自分の捉え方や祈り方に自信が持てない方の場合は、教会の牧師様にお聞きするとか、方法は色々あるかと思います。
自分自身の考えや努力によってではなく、「わたしには神さまの指示なくしては何も出来ません」と、自分の無力さを認めて神さまにすべてをお委ねして祈る時、間違いなく何かが起きます。ただし、自分がそうなってしまったことに対する不満のつぶやきなどを長く握っていると、神さまの力が完全には現されないということもあるかもしれませんが、祈っていく中でそうした頑固さや頑なさといったものも、聖霊さまがやわらげていってくださるということも多いと思います。
もちろん、わたしたちが自分の手でなすことは、自分の力によってということでもあるのですが、自分の力50%、神さまの力50%といった感じでもなく、自分の力0%、神さまの力100%という形で、本当にすべてを神さまにお任せする時――以前の神さまにあまり、あるいはほとんど頼らずして事をなそうとしていた時よりも、こちらのほうがずっと幸せだという体験を、多くの方がすることになると思うんですよね。
これは信仰の奥義ともいうべきことなので、ちょっとコツがいります。神さまに100%すべてをお任せするよりも、せめても10%くらいは自分で……とか、つい以前からの習慣で思ってしまうかもしれませんが、とにかく自分の人生は100%完全に神さまのもの――といったようにお委ねすると、間違いなく人生は変わってきます。
わたしもそうですが、これは実際に実践するのがとても難しいことなんですよね(^^;)
自分が左の道に行きたい時にも、神さまの聖霊さまを通しての指示は右だというような場合、わたし自身、一体何度左に逸れていって、「あの時神さまが右とおっしゃった時に、気のせいだなどと思わず右に行っていたら良かった
」なんていうことがあったでしょうかorz
そして、旧約聖書というのは、神さまに聞き従えなかった民、イスラエル民族の背信史といっていいと思うのですが、読んでいてつくづくわかるのですよね(^^;)
嗚呼、わたしもまったく同じように自分の計画を握るあまり失敗したり、神さまの言葉がなんとなく聞こえていながら、それが自分にとって都合の悪いものであるがゆえに聴こえない振りをしていたりと、何千年も前の時を生きた彼らと今を生きる自分もまったく同じで、何も変わりがないなあ……なんて。。。
ではでは、次回はこのことについての続きでもと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
タイトル的に、「何もできない力」っていうのは言い方おかしい気がするんですけど、なんとなくわかっていただけるかと思います(^^;)
普段、人って多くの方が、自分に出来ることを何かそれなりに積み上げて日々を生きていると思うのですけれども、たとえば人生上に何がしかの台風がやって来てそれまで積み上げてきたものを倒していくと、当然その時は「あ~あ

その台風があんまり大きなもので、自分自身や人生といったものを巻き込んでいくと――当然立ち直るのにも時間がかかりますし、また自分ひとりでそうするというのではなく、まわりの人の慰めやサポートといったことも当然必要になってきますよね。
わたしが今書いているのは、人生上というか、人の心の中で起きた台風や竜巻といったことなので、気象現象としての台風といったこととは少し違うのですが、人生上というか、人の心の中には自分でゼロ

わたしもそうですが、人はみんな人生は絶対にプラスがいいと思っていて、毎日無意識のうちにも「何かいいことないかな♪」と目や心で探しているものですよね。そしてそのためには運まかせというのでは駄目で、努力といったものが当然必要になってくると思い、努力することでその分の何かを運命からプラスの方向でもらえると信じて日々を生きる……けれど、そうした善的方向性で努力していることが報われず、むしろ皮肉な状態やますます悪い状態に人生が落ち込んでいく時――「神さまなんで」とか「一体自分がなんでこんな目に遭うのだろう」とか「前世で何か悪いことをしたからこんなことが起きてしまったのだろうか」……と、そんなふうに思い悩むものですよね。
そういう時、ゼロやマイナスに感じる心の状態を再びプラスの高いところまで持っていくのは、相当力がいるというか、心身ともに相当力を消耗してしまいます

でも、わたしの信じているキリスト教的には、「何もできない時」こそ、神さまがわたしたちの人生に奥深くに入りこんで力を発揮してくださる瞬間なのです。
これは「ピンチの時こそチャンス」というよりも――普段、わたしたちが肉的な欲望から握っているものを色々と手放し、ゼロやマイナスの状態になった時こそ、神さまがわたしたちの人生に介入してくださるチャンスだということです。
自分の力でレンガをひとつひとつ積み上げていって、あともう少しで家が完成するという時に、台風や竜巻のようなものが粉みじんにしていったとしたら……神さまを恨まずにまた一から同じことを始められる人というのは極めて少ないでしょう。
けれど、それは再び「自分の力」でやろうとするから苦しいのであって、一度神さまにすべてをお委ねして、「ここにもう一度家を建てたほうがいいでしょうか。それともそのための労力を別のことに使ったほうがいいでしょうか」といったことや、同じように家を建てるのだとしても、どのような設計図のとおりに建てればいいのかを神さまにお聞きするのです。
すると、それが聖霊さまを通した祈りでさえあれば、必ず祈りを通して指示が来ます。また、それが来ない場合や、自分の捉え方や祈り方に自信が持てない方の場合は、教会の牧師様にお聞きするとか、方法は色々あるかと思います。
自分自身の考えや努力によってではなく、「わたしには神さまの指示なくしては何も出来ません」と、自分の無力さを認めて神さまにすべてをお委ねして祈る時、間違いなく何かが起きます。ただし、自分がそうなってしまったことに対する不満のつぶやきなどを長く握っていると、神さまの力が完全には現されないということもあるかもしれませんが、祈っていく中でそうした頑固さや頑なさといったものも、聖霊さまがやわらげていってくださるということも多いと思います。
もちろん、わたしたちが自分の手でなすことは、自分の力によってということでもあるのですが、自分の力50%、神さまの力50%といった感じでもなく、自分の力0%、神さまの力100%という形で、本当にすべてを神さまにお任せする時――以前の神さまにあまり、あるいはほとんど頼らずして事をなそうとしていた時よりも、こちらのほうがずっと幸せだという体験を、多くの方がすることになると思うんですよね。
これは信仰の奥義ともいうべきことなので、ちょっとコツがいります。神さまに100%すべてをお任せするよりも、せめても10%くらいは自分で……とか、つい以前からの習慣で思ってしまうかもしれませんが、とにかく自分の人生は100%完全に神さまのもの――といったようにお委ねすると、間違いなく人生は変わってきます。
わたしもそうですが、これは実際に実践するのがとても難しいことなんですよね(^^;)
自分が左の道に行きたい時にも、神さまの聖霊さまを通しての指示は右だというような場合、わたし自身、一体何度左に逸れていって、「あの時神さまが右とおっしゃった時に、気のせいだなどと思わず右に行っていたら良かった

そして、旧約聖書というのは、神さまに聞き従えなかった民、イスラエル民族の背信史といっていいと思うのですが、読んでいてつくづくわかるのですよね(^^;)
嗚呼、わたしもまったく同じように自分の計画を握るあまり失敗したり、神さまの言葉がなんとなく聞こえていながら、それが自分にとって都合の悪いものであるがゆえに聴こえない振りをしていたりと、何千年も前の時を生きた彼らと今を生きる自分もまったく同じで、何も変わりがないなあ……なんて。。。
ではでは、次回はこのことについての続きでもと思いますm(_ _)m
それではまた~!!

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます