【ノアの箱舟】エドワード・ヒックス
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした」
イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
というのは、イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
(マタイの福音書、第7章24~29節)
わたしたちは家を建てる時、土台がしっかりしていることが重要だ……と、当然ながらそう考えますよね
>>ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
なぜなら、聖書にこうあるからです。
「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」
したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。
(ペテロの手紙第一、第2章1~10節)
そしてイエスさまがおっしゃっておられたことというのは、わたしたちの心の内側にある信仰の家、また霊の家の土台をしっかりさせなさいということなのだと思います。
いえ、実際クリスチャンの方の中にはもしかしたら――近所や隣に住むノンクリスチャンの方の家があんまり立派で、そのことを時に羨むことがある……ということがあるかもしれません(^^;)
でもわたしは以前夢の中で、そのような家はいずれすべて倒されてしまう、といったように語りかけを受けたことがあります。
つまり、わたしたちクリスチャンだって、自分でこれから自分の家を建てようという時――こう考えますよね。
さて、職場から通勤するのにいい、子供たちが通う学校からもそう離れていない場所に土地を買い、そこに自分の理想とする家を建てようではないか……といったように。そして、それらのことを「自分が思いついて好んだままに」行なって一体何が悪いと思うのではないでしょうか。
また、家を建てるという時には、銀行からお金を借りるといったことは誰もがしていることですし、そんなことにまでいちいち神さまに祈りの中で断りを入れなければいけない必要があるだろうか……と、そう考えるかもしれません。
これはあくまでもたとえ話ですが、実際わたし自身はこれと同じ生き方をして信仰的に失敗する……という間違いを結構しています(^^;)
つまり、わたしたちには社会常識的に考えてそれが普通だとか妥当だと思うことがあって、一応神さまに「ここに土地を買って家を建てようと思っています。神さまもそれでいいですよね?」と祈りの中で確認を取っているようであっても――それが是非とも自分のしたいことだから、実際は神さまによく確認を取らないで計画を実行に移してしまい……その後、色々な不都合が起きてきて「実はそれは自分の思いであって、神さまの御思いはもっと別のにところにあった」と思い知らされる……そんなことがよくあるのではないでしょうか。
信仰の歩みの基本は、①祈ること、②感謝すること、③神さまに聞き従うこと――というのが、わたしが救われた教会の三大柱なのですが、マーリン・キャロザース先生の教えのとおりに祈って感謝し、神さまを賛美すること……いいことも悪いことも神さまに感謝し、また賛美するというのは、基本的な学びさえ受けたとすれば、実行・実践するのはクリスチャンにとってはかなり身近なものになります。
ただ、三番目の神さまに聞き従うことっていうのが、なかなか難しいんですよね(^^;)
自分の思いや神さまの思いでないものが心の中で混ざりあうと、人はどうしても自分の自己中心的な思いを中心にして、神さまがおっしゃっておられることが都合の悪いものであった場合特に、そちらは聞かなかったことにして我が道を行きたがる傾向が強いというか。
そして、クリスチャンとノンクリスチャンの方の違いというのは、まずはこの点が大きいといっていいかもしれません。
ノンクリスチャンの方の場合は、自分の考えで設計したとおりに自分の人生の土台を据えてその上に建物を建てます。けれども、クリスチャンの方でも神さまの声や言葉を聞かずにそうしておられる方もいますが、もし本当に神さまの御声に聞き従うとしたなら――この土台を築き上げるだけでも、実際は本当に相当大変です。
個人的な経験としては、「いや、そうじゃない」とか、「ああしなさい」とか「こうしなさい」という神さまからの注意がしょっちゅう横から入るので、時々「もーっ。わたしもノンクリスチャンの人みたいに、自分勝手に土台を据えて、さっさとその上に家を建てたーい!!」と思うこともあった気がします。
でも、こうして神さまからの整えや義の矯正の訓練を受けて、神さまにあって確かな土台を築くことが出来たというのは、わたしにとって何よりの恵みでした(「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル人への手紙、第12章11節))。
もちろんこれは、「霊の家」、「信仰の家」の話ですから、わたしたちが普段肉体の目で見ている一般建造物というのとはまったく別の話です。
そして、わたしが夢の中で受けた語りかけというのが――ある町があって、そこには白人の人も黒人の人も、他の人種の人々もみな、災害があったにも関わらず、仲良く暮らしているようでした。つまり、お互いに助けあって自分たちの家を好きなように造って、「明日はうちの手伝いに来てくれや」、「おうとも。明日おめーんとこのペンキ塗り手伝ってやるよ」といった具合の会話が、わたしが通りを歩くと聞こえてくるわけです(外国人なのに何故日本語で話してるのかとか、そこらへんは深く考えないほうがいいんでしょうね^^;)
それで……わたしが通りを歩いていった時に神さまから受けた語りかけというのが、彼らの建てている建物がすべて、その土台も設計も目茶苦茶であり、あのままでいったとしたら、また地震や津波が来た時にそれらの建物はすべて簡単にぺしゃんこになってしまうということでした。
そのですね……夢に出てきた人はみんな、大きな災害があったにも関わらず、みなさん全員めっちゃ笑顔なんですよね。でも、その間に入っていって「お宅らの建物は全部土台がなってないから造り直したほうがいい」なんて――果たして言えるでしょうか?
そして、夢の中でわたしは「そんなことはとても言えない」と思いながら目を覚ましたのですが、本当に夢の中では悲しい気持ちでいっぱいでした。目が覚めたあとはすぐ、預言者エレミヤのことを思いだしていたかもしれません。
たぶん、エレミヤもそのような気持ちだったのでしょうし、実際わたしも、エレミヤと同じようにあの町の人々に「主はこう仰せられる」なんて言おうものなら、リンチにあって殺されていたんじゃないかという気がします(^^;)
なんにしても、今神さまの義と矯正の訓練が人生に深く入っていると感じる信仰者の方は、いずれそのような時も終わって固いしっかりとした土台が据えられる時のことを思ってください。しっかりとした土台さえ据えられてしまえば――その上に家を造るというのは、本当にとても楽しいという段階に入ると思います。
たとえば、壁の色は何色にするですとか、窓はこんな形とか、神さまと相談して建造していく作業というのが、本当に楽しくて素晴らしいという段階に入っていくということなんですけど
もちろん、その後もずっと神さまの整えの御手というのはわたしたちの中には入ってくるわけですが、それでもやっぱり「ある程度のメドがつく」という段階が信仰的にはあって、そのキツイ坂をひとつ越えたところから神さまが見せてくださる景色というのは……本当に言葉に尽くせないくらい素晴らしいものだと思います。
それではまた~!!
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした」
イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
というのは、イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
(マタイの福音書、第7章24~29節)
わたしたちは家を建てる時、土台がしっかりしていることが重要だ……と、当然ながらそう考えますよね
>>ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
なぜなら、聖書にこうあるからです。
「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」
したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。
(ペテロの手紙第一、第2章1~10節)
そしてイエスさまがおっしゃっておられたことというのは、わたしたちの心の内側にある信仰の家、また霊の家の土台をしっかりさせなさいということなのだと思います。
いえ、実際クリスチャンの方の中にはもしかしたら――近所や隣に住むノンクリスチャンの方の家があんまり立派で、そのことを時に羨むことがある……ということがあるかもしれません(^^;)
でもわたしは以前夢の中で、そのような家はいずれすべて倒されてしまう、といったように語りかけを受けたことがあります。
つまり、わたしたちクリスチャンだって、自分でこれから自分の家を建てようという時――こう考えますよね。
さて、職場から通勤するのにいい、子供たちが通う学校からもそう離れていない場所に土地を買い、そこに自分の理想とする家を建てようではないか……といったように。そして、それらのことを「自分が思いついて好んだままに」行なって一体何が悪いと思うのではないでしょうか。
また、家を建てるという時には、銀行からお金を借りるといったことは誰もがしていることですし、そんなことにまでいちいち神さまに祈りの中で断りを入れなければいけない必要があるだろうか……と、そう考えるかもしれません。
これはあくまでもたとえ話ですが、実際わたし自身はこれと同じ生き方をして信仰的に失敗する……という間違いを結構しています(^^;)
つまり、わたしたちには社会常識的に考えてそれが普通だとか妥当だと思うことがあって、一応神さまに「ここに土地を買って家を建てようと思っています。神さまもそれでいいですよね?」と祈りの中で確認を取っているようであっても――それが是非とも自分のしたいことだから、実際は神さまによく確認を取らないで計画を実行に移してしまい……その後、色々な不都合が起きてきて「実はそれは自分の思いであって、神さまの御思いはもっと別のにところにあった」と思い知らされる……そんなことがよくあるのではないでしょうか。
信仰の歩みの基本は、①祈ること、②感謝すること、③神さまに聞き従うこと――というのが、わたしが救われた教会の三大柱なのですが、マーリン・キャロザース先生の教えのとおりに祈って感謝し、神さまを賛美すること……いいことも悪いことも神さまに感謝し、また賛美するというのは、基本的な学びさえ受けたとすれば、実行・実践するのはクリスチャンにとってはかなり身近なものになります。
ただ、三番目の神さまに聞き従うことっていうのが、なかなか難しいんですよね(^^;)
自分の思いや神さまの思いでないものが心の中で混ざりあうと、人はどうしても自分の自己中心的な思いを中心にして、神さまがおっしゃっておられることが都合の悪いものであった場合特に、そちらは聞かなかったことにして我が道を行きたがる傾向が強いというか。
そして、クリスチャンとノンクリスチャンの方の違いというのは、まずはこの点が大きいといっていいかもしれません。
ノンクリスチャンの方の場合は、自分の考えで設計したとおりに自分の人生の土台を据えてその上に建物を建てます。けれども、クリスチャンの方でも神さまの声や言葉を聞かずにそうしておられる方もいますが、もし本当に神さまの御声に聞き従うとしたなら――この土台を築き上げるだけでも、実際は本当に相当大変です。
個人的な経験としては、「いや、そうじゃない」とか、「ああしなさい」とか「こうしなさい」という神さまからの注意がしょっちゅう横から入るので、時々「もーっ。わたしもノンクリスチャンの人みたいに、自分勝手に土台を据えて、さっさとその上に家を建てたーい!!」と思うこともあった気がします。
でも、こうして神さまからの整えや義の矯正の訓練を受けて、神さまにあって確かな土台を築くことが出来たというのは、わたしにとって何よりの恵みでした(「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル人への手紙、第12章11節))。
もちろんこれは、「霊の家」、「信仰の家」の話ですから、わたしたちが普段肉体の目で見ている一般建造物というのとはまったく別の話です。
そして、わたしが夢の中で受けた語りかけというのが――ある町があって、そこには白人の人も黒人の人も、他の人種の人々もみな、災害があったにも関わらず、仲良く暮らしているようでした。つまり、お互いに助けあって自分たちの家を好きなように造って、「明日はうちの手伝いに来てくれや」、「おうとも。明日おめーんとこのペンキ塗り手伝ってやるよ」といった具合の会話が、わたしが通りを歩くと聞こえてくるわけです(外国人なのに何故日本語で話してるのかとか、そこらへんは深く考えないほうがいいんでしょうね^^;)
それで……わたしが通りを歩いていった時に神さまから受けた語りかけというのが、彼らの建てている建物がすべて、その土台も設計も目茶苦茶であり、あのままでいったとしたら、また地震や津波が来た時にそれらの建物はすべて簡単にぺしゃんこになってしまうということでした。
そのですね……夢に出てきた人はみんな、大きな災害があったにも関わらず、みなさん全員めっちゃ笑顔なんですよね。でも、その間に入っていって「お宅らの建物は全部土台がなってないから造り直したほうがいい」なんて――果たして言えるでしょうか?
そして、夢の中でわたしは「そんなことはとても言えない」と思いながら目を覚ましたのですが、本当に夢の中では悲しい気持ちでいっぱいでした。目が覚めたあとはすぐ、預言者エレミヤのことを思いだしていたかもしれません。
たぶん、エレミヤもそのような気持ちだったのでしょうし、実際わたしも、エレミヤと同じようにあの町の人々に「主はこう仰せられる」なんて言おうものなら、リンチにあって殺されていたんじゃないかという気がします(^^;)
なんにしても、今神さまの義と矯正の訓練が人生に深く入っていると感じる信仰者の方は、いずれそのような時も終わって固いしっかりとした土台が据えられる時のことを思ってください。しっかりとした土台さえ据えられてしまえば――その上に家を造るというのは、本当にとても楽しいという段階に入ると思います。
たとえば、壁の色は何色にするですとか、窓はこんな形とか、神さまと相談して建造していく作業というのが、本当に楽しくて素晴らしいという段階に入っていくということなんですけど
もちろん、その後もずっと神さまの整えの御手というのはわたしたちの中には入ってくるわけですが、それでもやっぱり「ある程度のメドがつく」という段階が信仰的にはあって、そのキツイ坂をひとつ越えたところから神さまが見せてくださる景色というのは……本当に言葉に尽くせないくらい素晴らしいものだと思います。
それではまた~!!
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