神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

エクソダス。

2016年08月30日 | キリスト教
【金の子牛の礼拝】ニコラ・プッサン


 モーセが紅海を割ってイスラエル民族をエジプトの支配から脱出(エクソダス)させたお話はあまりに有名ですが、実をいうとわたし、初めて旧約聖書をきちんと読んだ時――このあとのイスラエル民族がどうなったのか……ということに、結構驚きました

 まず一行は奇跡的な神さまの救出劇のあと、三日間荒野を歩いたのち、マラというところに辿り着きました。

 ところが、マラの水は苦くて飲むことが出来なかったため、喉の渇ききっていたイスラエル民族は「神さま、ギブミーウォーター!」と不満を持って叫びます。


 >>モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。

 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラ(苦しみの意)と呼ばれた。

 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った。

 モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。

 その所で主は彼に、おきてを定めを授け、その所で彼を試みられた。

 そして、仰せられた。

「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である」

 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。

(出エジプト記、第15章22~27節)


 いえ、びっくりしますよねえ

 長い間エジプトで奴隷とされ、重いくびきに苦しみ続けたイスラエルの人々は、主(神さま)が解放してくださったことを喜び歌い、このことを感謝しもしたわけですが……三日間も荒野を歩かされたのちに、今度は水がない。しかも、ようやくのことで「水、めっけたー!」と思ったら、その水は苦くて飲むことが出来なかったのでした。

 最初ここを読んだ時、わたしも思いましたよ……「わーっ!神さまってば意地わーる!!」みたいに。。。

 もちろん、モーセがそこに神さまの指示通り杖を投げ入れたら飲むことが出来るようになったのですから、わたしもすぐ「そんならいっか☆」と思いはしたものの――でも本当に、このイスラエルの人々に対する神さまの取り扱いというのは、現代を生きる信仰者が救われたのちに経験する取り扱いと、まったく同じといっていいんじゃないでしょうか(^^;)

 イエスさまのことを信じて、聖霊さまが内住されたのち、「これでわたしは生まれ変わったじょ!これからは清く正しく生きて、神さまからの祝福いっぱいの人生を送ろう!!」みたいに思われる方は多いと思うのですが、ところがどっこい、ここからが本当の神さまからの取り扱いのはじまりだったりするんですよね。。。

 奴隷のくびきから解放されたイスラエル民族の人々もきっと、神さまの奇跡的な救出劇を経験して、これからはただ何もしなくても神さまからの祝福いっぱいの人生だけが待っている……と、もしかしたらそう思ったかもしれません。

 キリスト教徒を意味するクリスチャンの言葉の元は、クリスティアヌス――つまり、神の奴隷という意味だそうですが、わたしたちはそれまで罪の奴隷だったところをイエスさまの十字架の血の贖いを信じることにより、罪の奴隷状態から解放され、神さまの支配下に移されるわけですが、今度は神さまの奴隷として生きるための整えを受けなくてはいけないんですよね。

「なーんだ。そんじゃ、結局のところ本当には自由じゃなくて、結局奴隷のままなんじゃん」と思われるかもしれませんが、奴隷というのは仕える主人が横暴だったりするから不幸なのであって、もし自分の仕える人物が温厚で思いやり深く優しく親切な人だったら、「そろそろおまえもひとりで生きてけ」と言われても、「やだい!ずっとこの幸せな奴隷のままでいるんだい!」という感じで、自分の御主人と決して離れないものだと思います。

 ところで、イスラエルの人々はこのあとも、モーセが十戒の石板を授かるためにシナイ山にのぼっている時、アロンに金の子牛の偶像を造らせてそれを拝むといった偶像礼拝の罪、また毎日の食事として神さまがマナという食物を天から降らせてくださったというのに――もうその味に飽きた、エジプトにいた時はもっと色んなものを食べられた、帰りたいエジプト……みたいに呟き、神さまに対して重い罪を犯しています。

 そしてついには神さまの怒りが極まり、海の底を渡るといった神さまの奇蹟的救出を経験した世代の人々は、約束の地へと入る前に死に絶えてしまうのでした……他の聖書の神さまに聞き従えなかった人々のエピソードもみなそうですが、自分的には「それも無理ないなあ」と気の毒に思えてしまうことが結構多いです(^^;)

 士師記のギデオンは、弱かったところを神さまによって強くされ、たったの三百人の兵士で十二万ものミデヤンの兵を倒すという奇蹟を経験していながら、その後は偶像礼拝の罪を招くといった罪を犯し、ダビデは部下の妻バテ・シェバと寝るという姦淫の罪を犯し、その子ソロモンもまた、たくさんの側女を持ったことで、神さまの祝福を損ない……と、必ず何かひとつのことで躓いています。

 この中でダビデは悔い改めましたが、その罪ゆえにバテ・シェバとの間に出来た第一子を失うという裁きを受けたと思いますし、ギデオンとソロモンに関しては、彼らが直接裁きを受けたというより、その後の治世が混乱したのでした。

 聖書は「いかに神さまの真実の御声に聞き従うことが難しいか」というエピソードで満ちているわけですが、そうした箇所を読むたびに、自分と引き比べて「ほんと、わたしも聞き従えないからなあ……」と、溜息が洩れてなりません。。。

 出エジプト記で神さまは、あらゆる意味での祝福をイスラエルの民に約束しているわけですが、この約束は今ももちろん生きていて、わたしたちもまた神さまの御前に聞き従いの道を歩む時、まったく同じように祝福していただけるっていうことでもあるんですよね。

 わたしもそうですが、自分自身の罪の支配下にある時、わたしは自分のことをとても不幸だと感じていましたし、その罪の贖いをイエスさまが十字架上ですでに成してくださっていると知り――その後は自身に罪のある時には幾度でも神さまの御前に出ていき再び罪赦され……といった信仰生活を送っているのですが、このようにすべての人の罪を拭い去り、真に悔い改めるなら赦してくださる権威を持っている方は主イエスの他には存在しえないと思います。

 クリスティアヌス、神さまの奴隷となることというのは、また新たに別のくびきを首や手や足にかけられて苦しむということではなく――そのように自身の罪でがんじがらめであったところをイエスさまが救ってくださり、そのくびきを神さまが外してくださって自由になるということなんですよね。


 >>しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう」

(ローマ人への手紙、第10章14~15節) 


 この方のことを伝える福音を、これからひとりでも多くの方に語っていけるといいなあ……と、心から望むものです(プラス、マーリン・キャロザースさんの感謝と賛美の教えですね^^;)

 それではまた~!!





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