神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

多様性、共感・共生、持続可能型社会。-【3】-

2021年12月21日 | キリスト教

 さて、今回は前回の続きなんですけど……【2】のところで書いたことと連想されることとして、ブラック・ライブズ・マターのことがちらと頭をよぎる方は多いと思います。

 それで、こうしたBLMの問題、黒人の命は大切にされるべき、また東洋人の命は大切にされるべき、人種的マイノリティの命も当然大切にされるべき――ということと、ユダヤ人のゲイの方というか、ゲイ・コミュニティの方というのは、やっぱり自分たちも「何かと社会で阻害されてきた」経験から、こうした人権問題については全力で応援する……そうした傾向が非常に強いと思うんですよね。

 ですから、同性愛者の方が異性愛の方と同等の権利を社会で得るのは当然だと主張されるのと同じように、肌の色による差別、男か女かということによる差別も一切なくなり、我々はそうした民族の別、肌の色による違い、男か女かという性差からも一切解放されるべきだ――と聞かされると、「そうだ、そうだ、その通りだ!!」となる方は非常に多いと思います。

 それで、大切なのが、「それが正しいと誰もがそう思っているのに、現実がその理想に追いついてないのは何故か」ということなのですが、その1つ目が前回書いたような根強い宗教的な問題があり、あと、これはあくまでわたしが思うにということなんですけど、人間というものが今の状態にまで進化してくる過程において、随分長い間男性は外へ出て働き、女性は家庭を守る的形態だったわけですよね。今ではもちろん、先進国のほうでは男女平等ということには一応なっているけれど、そのあたりのことがもっとも「ススんでいる」という欧米の世界でさえ、多くの女性が「実際は平等でない」と答える場合が多い。

 ここで、この世界をひとつの大きなデコレーション・ケーキにたとえてみたいと思います。それで、このケーキを切り分けた時、この世界で一番特な分配に与るのは誰かというと、「白人の男性」が、条件としては一番いい分配に与りやすいという形態がすでに出来上がっているというか。もちろん、一口に白人の方といっても、リッチな家に生まれついた人もいれば、中産階級の人、貧しく生まれついた人など、色々とは思います。

 ただ、この場合あくまで「文脈的に」言いたいことはわかる……という前提で話を進めてゆきますと、ケーキを切り分けた時、一番いい機会に恵まれやすいのが「白人男性」だとすると、長い歴史の中で黒人の方はいつでもそれより小さいケーキしか与えられて来なかったという、そうした経緯があるわけですよね(マイケル・ジャクソンさんとかウィル・スミスさんとか、黒人の方で成功されてる方はたくさんいるわけですけど、そうしたスターと呼ばれる方はそもそも全体として数が少ないわけですから^^;)。

 また、男女の雇用機会均等法とかなんとか言っても、実際には同じように働いているのに、女性よりも男性のほうが何故か昇進しやすいですとか、お給料のほうも同じ役職に就いていながら男性よりも少し低いですとか、言い出すとキリがないくらい、色々あると思います。

 こちらの男女平等といったことも、社会においてはもうずっと長く男性のほうが優遇され、女性はそれよりも低い位置に甘んじるであるとか、歴史的にそうだったから、これからも女性にあげるケーキは男性より小さめでいいんだ……そういう意識を変えていこう、これからは変えなきゃダメなんだ!と言いつつ、少しずつしか進んでないかな~という、何かそんな感じがします(^^;)。

 それで、一応人類の目指す究極的な形態として、すべての人がケーキを切り分けた時に、寸分違わず同じ分量のケーキを受け取れるべきだ――として、その全体構造に気づいて、そうしなきゃいけないよね……となったのが、人類の歴史的に見た場合、ほんのつい最近といっていいと思います。そして、こちらの方向に向かうべき、という指針が示されたのはいいかもしれないのですが、いまだにケーキの分配に与れない人もいれば、ケーキの表面にのってるフルーツが自分のほうが1個少ないとか、あいつのほうが具合よく切り分けられて大きなイチゴが二つものってるじゃないか!レベルのことで揉める……というところまで人類はやってきた。でも、実はこの構造自体を変えることは本当に難しくて、今人類が気づいて着手しはじめたことっていうのは、デコレーションケーキの表面を変える、というレベルのことだと思うんですよね

 つまり、ケーキの真ん中の目立つところに、「○□ちゃん、お誕生日おめでとう!!」って書いたチョコレートと、それを支えている小さなコグマちゃんなり、コウサギちゃんなりの飾りがあったとしたら、それをいつでも必ずもらって得をするのが「白人男性」だったから、じゃあもう、その飾り自体なくそう、フルーツのっけると、あいつが上にのったイチゴを1個多くもらって得したとか、そんな問題も出てくるから、必ず平等にイチゴなり他のフルーツなりが全員に同じ個数当たるようにしよう……わたし的に、今やってるのがこの段階だと思います(そして、実際のところそれですら難しい^^;)。

 でも、本当にこうした「社会の構造自体を変える」場合、本当にメスが入らなきゃならないのは、ケーキの中身の中心核なわけですよね。そして、その部分についてはノータッチとまでは言わないまでも、その周囲のかなりいいところまではいくけれども……核そのものは変えられない、いや、変えられるにしても、本当にそれが人間にとっていいことなのだろうか――という、最終的にはそのくらいの問題になってくるのではないか……自分的にはそう思うんですよね。

 それで、【2】のところに書いた宗教の問題というのも、この核付近にかなりのところ触れることだったりします。極論をいえば、信仰の自由を認めつつ、そもそも宗教なんていうものがあるから争いが起きるんだ、だが、<神>、あるいは人間の力を超えた大いなる存在を認めないとしたら、我々人間は今後、一体どうなってしまうのだろう……という、デコレーションケーキの核に触れる、というのはそのくらいのレベルの問題になってくるからです。

 また、人間が「人類平等」というスローガンを掲げ、巨大デコレーションケーキをすべての人に平等に行き渡らせるという究極形態(?)を獲得したとしても、今度は【1】のところに書いたような問題が出てきます。つまり、地球の人類の人口はその頃には最低でも100億以上になっているでしょうから、その100億人すべての人が同じ暮らしをするとしたら、地球の資源はとっくに枯渇してしまう。

「人間はその頃には、資源や自由な住まいを求めて他の惑星に移住してるさ」というのが、一番の楽観論かもしれません。そして、そのくらい科学が進歩する頃には、宗教の力も科学に押されて今以上に弱まっているだろう……とは、実はわたし自身は思っていなかったり(^^;)

 これは前に別のところで書いたんですけど、人間の脳というのはそもそも、基本的に「神は存在する」と、自分たち人間を超えた存在を信じるよう、肯定するように出来てるわけです。もちろん、その後、成長とともについてきた「知恵」によって、神なる存在を否定し、無神論になることも出来ます。でも、「神はいるかもしれないし、いないかもしれない」という、神という概念自体を人間の脳からまったく存在しないくらい除き去ることは出来ない。

 そして、自分的にこの<神>を信じることには大きな力があります。わたしや、神さまを信じている人に力があるというのではなく、<神>自身に大きな力があって、すべての解決の源も、わたし個人は神にあると思っています(この答えが気に入らない方は多いと思いますが、まあ個人の信念の問題です^^;)。

 何故か?神さまには――イエスさまには、我々人間ひとりひとりに、完璧なデコレーションケーキをひとつと言わず、いくつでも与える力があるからです。100億人でひとつのデコレーションケーキを分けるというのは、神なき世界の人間の力による考え方であって、神さまは御自身を信じる人ひとりひとりにデコレーションケーキそのものを必ず与えてくださるのです。

 この広い宇宙を見てみると、わたしたちの所属する地球を含んだ銀河と同じものが、今では2兆個ばかりもあるのではないかと言われています。神さまにとってはおそらく、わたしたちが死んだあと、霊だけの姿になったとして、ひとりにひとつずつ惑星くらい与えてくださることはお茶の子さいさいでしょう。時々、今まで死んだ人間全員が霊となっていたら、今ごろ霊界は人口爆発だ……とおっしゃる方がいたりしますが、それもやはり人間の有限な物の考え方の限界を示すものと思います。

 わたしも近ごろ宇宙の本をたま~に読んだりしてると、「宇宙はこんなに広いのに神なぞいるわけがない」と考えるのが妥当とする気持ちがわかりつつ、「嗚呼、この広大な宇宙には必ず意味がある。おそらく、わたしは自分が死んだあとにでも、その理由がわかり、そのことでも神さまを褒め称えるに違いない」と、そんな思いが強まるばかりでした。。。

 まあ、わたしのこの考え方が気に入らない方は多いかもしれませんが、デコレーションケーキを平等に切り分けようとしてキィキィ☆議論するよりも――神さまに祈るなら、わたしたちが神さまにあって祈りあうなら、イエスさまがわたしたちにわからない不思議な方法によって、ひとりに一個ずつかそれ以上、必ずケーキを与えてくださると信じること、このことには必ず力があるということだけ、忘れないでください。

 またそのことが、旧約聖書にあるマナの奇跡の意味であり、イエスさまが起こしてくださった5千人の給食の意味でもあるのだろうと、そのように思います。

 それではまた~!!






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