さて、今年もクリスマスの季節がやって来ました!
クリスマスといえばもちろんイエスさまの誕生日ですが、他に思い浮かぶことといえば、日本であればケ○タッキーといったお肉、あるいはお寿司やケーキといったご馳走、あるいはサンタさんのくれるプレゼントといったところでしょうか
多様性、共感・共生、持続可能型社会の【1】のところに、ヘテロの方もゲイの方もまったく同じ権利を有するべきだ……というふうに社会のほうでは今後とも進んでゆくだろう、みたいに書いたんですけど、これは実際のところ、自分的にはとても難しいことだと思ってるんですよね。
日本ではそれは、古くからの因習、文化、人間的偏見……という壁が分厚いにしても、それでも「宗教的理由からタブー視しているわけではない」ことから、若い方を中心に、今後どんどん世代交代が進めば、だんだんそうした方向に進んでいくのが自然だろうとは思っていて(^^;)
では、キリスト教では何が問題なのかというと、聖書の中に同性愛を禁じている教えが書かれている、ということの他に、>>「まことに、あながたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法(聖書)の中の一点一画でもすたれることはありません。全部が成就されます」(マタイの福音書、第5章18節)、>>「しかし律法(聖書)の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです」(ルカの福音書、第16章17節)とあって、同性愛を禁じているにも関わらず、その部分を容認するのであれば、他の教えについても「破ってもよい」というのでしょうか。そのあたりの道徳基準が曖昧となり、聖書に書かれた教えのうち、自分にとって都合の良いところは受け容れ、そうでないところは適当に解釈して聞き従えばよい――何かそんなふうに、聖書の一枚一枚を束ねている紐が緩んでしまい、聖書という書物の持つ威信が失墜してしまうという、そうした危険性を孕んでいるからではないかと、自分的にはそのように解釈しています(あ、このあたりの詳しいことは、専門家である教会の牧師さんや聖書学者の方に聞いたほうがいいかもしれません^^;)。
他に、旧約聖書にはこうした同性愛といったことについての性の乱れ、そのあたりのことが極度に罪深くなった時、ソドムやゴモラは滅んだという有名なお話があるように……この世の終わりにもそうした罪深さが蔓延した時、我々人間も滅ぶのだろう――文脈的にそのように読める箇所がありますし、ゆえにキリスト教において「同性愛を認める」というのは、天国もあり地獄もあり、人の生まれ変わりもあると思いますよ……というくらい、聖書の教え自体が危機に瀕すると言いますか、教えの統一性が目茶苦茶になる可能性があると思うわけです。
たぶん、日本人的な死生観としては、地獄などというものはなく、人間は死後、天国へ行ってのち、その後再び生まれ変わる――というのがかなりのところ近いものでしょうが、それはさておき、日本中、世界中の教会はキリスト教の教える純粋性、聖書の教えの純粋性を一字一句残らず必ず守りたいと考えています。そして、それが正統的かつ健全な教会のあり方であり、聖書の教えにはないグレーゾーンと言いますか、「?」となる問題が出た場合には、聖書の教えと照らし合わせて、「聖書の教えにないことは退ける」、「避ける」という保守的な立場を取るのが一般的です。
とはいえ、その教会にもよりますが、昔は牧師さんになれるのは男性だけだったのが、今は女性も牧師になれる教会がありますし、このあたりのことについては「聖書の教えを守ってないじゃないか。ブーブー☆」みたいには今の時代、なってないとは思うんですよね(またこの点、カトリックの神父の職に女性がなることは今後もないのではないかと思われたり^^;)。
「え?それなのにどうして同性愛はダメなの?」となるかもしれませんが、キリスト教の教え、聖書の教えの純粋性を完璧に守りたいと教会は考えるものなので、「同性愛を受け容れる」ということは、教会の持つ教えの純粋性の一部が破壊される、そして一部が破壊されれば、いずれ教会自体の破壊に繋がっていく……このあたりにジレンマがあって、教会に属している信徒の方々は割と考え方も柔軟で、同性愛者の方に何か偏見を持っているわけではない。けれど、そうなると聖書に書いてあることと矛盾するので、欧米の教会でもこのあたりが今後どうなるか、という問題があると思っています。
ええと、わたしも誰かそのあたりに知り合いがいて詳しいわけでもなんでもないのですが、ニューヨークのファッション界というのは、ユダヤ人のゲイの方が非常に力を持っている……と聞いたことがあります。つまり、ユダヤ人の方でゲイということは、伝統的なユダヤ教からも伝統的なキリスト教の集まりからも最初から排除されている――そうした立場にならざるをえないと思うのですが、彼らの場合はゲイ同士の方で結婚し、養子を迎えて子供のことも大切に育てている……ある意味、家族の形として今の時代の「もっとも進んだ」形態を取っているのではないかと思います。
こうした方の中にはかなりのところ経済的、政治的にも力を持った方がいて、民族の別、宗教の別、肌の色や性別による差別のまったくない世界――という考え方がこの世のスタンダードであるべき、と言いますか、そうした思想を世界のすべての人が持てば地球はもっとよくなるというか、そうした考えなわけですよね。
こう聞いて、「そうだ、そうだ。現実はなかなかうまくいかないけど、世界全体がそうあるべきだ!」と思う方は多いと思います。ええと、ちょっと長くなってしまったので、この続きの、「世界がもしそうなるのが理想であれば」、何が足りないかについて、次回は書いてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
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