神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

聖なる楽しみ。-【9】-

2019年04月13日 | キリスト教
【収穫者たち】アンナ・アンカー


 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け

(マタイによる福音書、第28章19節)


 >>ある朝、私は聖霊で満たされ、耐えきれなくなって叫びました。

「主よ、私に何をせよとおっしゃるのですか」

 説教をもう一度始めることは考えられないことでした。ただ声が弱いばかりでなく、説教する場所も与えられていませんでした。カリフォルニア、ニューヨーク、ヨーロッパ、アジア、オーストラリアなど何十カ所から、説教の依頼を長年の間受けていましたが、その度に、「申し訳ありませんが、お引受け致しかねます」と断っていました。声のために、説教ができなかったのです。

 だから、私は神様に叫びました。

「主よ。私に何ができますか」

 主は答えを準備しておられました。

「私が最初にあなたを召した時のように働きなさい」

 もう1939年にさかのぼることですが、はっきり覚えていました。私の言うことに耳を傾けて下さる方にただ単に語りました。

「分かりました。あなたがそれをお望みでしたら、そういたします」

 最初私の頭に浮かんだのは、近所の人たちでした。そういえば彼はもうクリスチャンでしたが、もう私は主と議論するつもりはなくただ聞いていました。その人の家へ行く途中、私が彼に天国へ行くかどうか聞いたとしたら、どう思うだろうかと思案していました。
 
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 今回も早速、マーリンさんの『聖なる楽しみ』の第8章、「福音を伝える」より学んでいきたいと思いますm(_ _)m

 こうしてマーリンさんは、神さまに召された時の熱心さによって、再び一人でも多くの人々にイエスさまの福音を伝える、伝道第一主義の現場へと戻っていかれたのですが……マーリンさんは聖霊さまを通した神さまの言葉を聞くなりすぐ、>>「分かりました。あなたがそれをお望みでしたら、そういたします」と応答されたのでした。でも、わたしが思うにこれ、実際にはすごく難しいことだと思いませんか?(^^;)

 とりあえず、わたしには難しいどころか、ちょっと出来ないことだな、とさえ思いました

 何故かというと、マーリンさんはこののちすぐ、近所の隣人の方や車を買ったディーラーの方などにイエスさまのこと、また天国のことを伝えているわけですが――もちろん、日本は特殊な霊的環境にあるといった事情があるとはいえ、近所の人や割に近しい人のほうが神さまの福音を伝えるのが難しいといったところがあると思います(トラブルになったりしたくない、頭のおかしい人と思われたくない……といった人間的思考がどうしても行動を邪魔してしまうというか^^;)

 けれどもこの時マーリンさんは、まず、「陽気で誰でも困っているような人を助けている、完璧に見える隣人」の方にイエスさまのことを伝えています(つまり、イエスさまの弟子のペテロやヨハネが網を置いてすぐイエスさまに聞き従ったように、神さまから言われたことをすぐ行われたのでした!


 >>隣人として彼は完璧だったし、陽気でだれでも困っている人を助けていたのです。毎週教会も欠かしませんでした。私が、彼にその質問をすると、「いやあ、私はまだ天国にいけるほどいい人じゃないよ。行けたらいいんだが」

「天国に確実に行ける方法があることをご存じですか」

「いつもそんな方法があったらなあと思っていましたよ」

 私はさっそく救いの方法を簡単に話したところ、彼の目から涙が流れて頬をつたったのです。私が話すこと全てが彼にとって良い知らせで、彼は今まで福音を理解していませんでした。それから私たちは一緒に祈り、彼はイエス様を救い主として受け入れました。その後、彼の顔は光り輝きました。今、この人に会ったとき、同じ質問をすると、彼は「天国に行きますよ」とはっきり言いきります。何と栄光あることでしょう。その人の兄弟も四年以上近所に住んでいましたが、私はまだ一度も彼に福音を語ったことがありませんでした。なぜなら私は忙しすぎて、聖霊様や神様の働きについて耳を傾けることをしなかったからです。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける川の水出版より)


 このあと、マーリンさんは車を買ったディーラーの方にもイエスさまの福音を伝えたのですが、その方はなんと!毎週教会へ通っているクリスチャンの方だったのです。

 けれども、この方もまたマーリンさんから>>「天国へ行けると思いますか?」と聞かれると、「行けたらいいんだが……」と答えています。アメリカはアメリカで、日本とは霊的環境が違うので、こうした教会に通っていても「天国へ行ける」とまでは確信していない、確信できない方がたくさんおられるのかもしれません。

 聖霊を受けている教会でイエスさまを信じ、クリスチャンになった方なら、「あなたは天国へ行けると思いますか?」と聞かれたら、「(生前の善行とは関係なしに)わたしはイエスさまの十字架の血潮の贖いによって天国へ行くことが出来ます!アーメン」と答えるでしょう。けれども、聖霊を受けていないか、受けていても弱い、あるいは長い歴史の中で伝統その他を守ることにのみ忠実で、聖霊の実を見ることがないといった教会へ通っている方に「天国へ行けると思いますか?」と聞いたら、「天国へ行くためには、わたしはもっと良い人間になる必要があると思います」、「天国へ行くには、わたしにはまだ善行が足りません」とお答えになる場合があるのだと思います。

 けれども、マーリンさんによってイエスさまの福音の御言葉を正しく真っ直ぐに伝えられたこれらの人々は、今では「イエスさまによって天国へ行くことが出来ます」と聖霊さまによって確信することが出来ているのです!

 もしマーリンさんが神さまの語られたことに聞き従っていなかったとしたら、こうした方々は今も霊的にズレた状態でイエスさまを信じることの本当の偉大さを理解しないままだったに違いありません。こうしてマーリンさんは、霊的にさらに強められ、説教のしすぎで弱められた喉さえも神さまから癒されて、ますますイエスさまの伝道活動に邁進していかれたのでした。


 >>ある朝、目覚めると説教したいという願いがものすごく強くありました。長い間もう説教しなくてもいいようなそんな時を待ち望んでいたというのに、信じられませんでした。ある人たちはリラックスして説教しますが、私はまるで一人ひとりが人生を変えるような決心をすべきだという意気込みで説教していました。だから説教の後いつも疲労困ぱいしたのです。

 しかし、私はもう退職したはずなのに、もう一度説教したいとは!しかもこのあわれなほど弱々しい声で?

「主よ、どうしたらいいでしょうか?」

 私の霊の中に大きいはっきりした神様からの答えがありました。


「あなたがすることは語ることだ。私があなたの声は何とかしよう」


 それから、今まで私を招待してくれていたいろいろなところに電話したり、手紙を書いたりして、連絡をとり始めました。たくさんのところから返事があり、「すぐいらしてください」という内容のものでした。

 ある日、目的地に向かって車を運転していると、聖霊様が大きな声で語るように導いておられる気がしました。


「大声を上げなさい。星に向かって大声で呼びかけなさい」


 どんな意味だろうかと思いましたが、どんな理由にせよ、星に向かって叫ぶべきだろうと思い、運転しながら星に向かって叫んだのです。本当に変な気分でしたが。

 数回叫んだ後、私の声が変えられたような気がしました。どんなに大きな声で叫んでも、喉は痛くなりませんでした。私は祈りと賛美をし続けました。

 確かに何かが私に起こったのです。毎年声が弱くなっていく経験を四十九年も味わっていたというのに、今や私の声は信じられないぐらい強くなっていました。おそらく私は「疑いのトマス」の直系子孫かもしれません。なぜなら、この状態がどのくらい続くものかともうすでに疑っていたからです。

 私が説教の奉仕で出かけたとき、私の声は全く以前と質の違う新しい声に変えられていました。声量が増えたばかりか、私は新しい一連の権威でもって語ることができました。よく神様が私を通して、語っているような感じがしました。以前も同じような体験をしましたが、今回はもっとそれが強かったのです。過去二十年間私の説教を聞いてきた人でさえ、「マーリン、君は前よりももっと熱意と力があるじゃないか」というほどでした。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版)


 それでもまだ、ひとつだけ問題がありました、とマーリンさんは第8章の最後のほうで書かれています。神さまより喉を癒され、力強くイエスさまのことを語れるように、お説教できるようにされたとはいえ、「何を語ったらよいか」という問題が最後に残っていました、と……。

 マーリンさんといえば、その大ベストセラーとなった著作「獄中からの讃美」「讃美の力」のタイトルが語っているとおり、神さま、イエスさまを讃美することの、いいことも悪いことも神さまに感謝する教えの器の方であり、こうした前向きでポジティヴなメッセージを語ることを多くの方が期待されるというのも、とてもわかる気がします。

 けれどもマーリンさんは神さまより、「弟子教育」、言ってみれば、「生ぬるいクリスチャンよ、目を覚ませ」というメッセージを語るよう導かれ、実際そのとおりになさったのでした。

 でも、わたしがキリスト教書店にて、マーリンさんのこの本を手に取り、「生ぬるいクリスチャン」という単語を目にするなり、「この本はすぐにも買わねばならない!」と思い、レジのほうへ持っていったように――こうしたマーリンさんのメッセージを喜んで聞く方々というのは、きっと数多くいたに違いありません。

 もっとも、章の終わりでマーリンさんは人々がそのようなメッセージを聞きたがらないのではないかと心配しておられるわけですが、わたしがそうであるように、「生ぬるいクリスチャン向け」に語られるメッセージというのは、非常に重要なものだと思います。

 また、それと同じように「イエスさまのことを語ったって信じてもらえっこない」とか、「宗教に走っているカワイソウな人だと思われたくない」といったような人間的心配も、実際のところ無駄な心配だということですよね(^^;)

 マーリンさんも書かれているように、これほど大きな器であるマーリンさんが語ってさえ、信じないというか、まだ時が至っておらず、「あ、そーですか」くらいな方や、「へえ。そうですか」、「あ、こりゃどうもどうも」……くらいの方というのもたくさんおられたと思います。けれども、イエスさまのことを口に出して語る時、心が聖霊の喜びによって満たされ――仮に相手がその時すぐ信じたりしなかったとしても、その人の心の中に<種>というのは確かに蒔かれるわけです。

 そして、すぐ聖霊さまによって水がまかれて信仰が成長する方もおられれば、土の中であたかも死んだようになっていたその種が、人生で色々な苦労を経た十年後、ようやく発芽して実を結んだ――けれど、苦労を経た分、その信仰の花の色はとても美しかった……ということが、人生にはあるものなのではないでしょうか。

 そして案外……わたしたちが人間的に考えて、「この人だけは信じそうにない」とか「宗教のシの字を言っただけで、こちらを目で秒殺してきそうだ」と感じる方こそ、意外にも一度イエスさまの言葉が真っ直ぐ心に入るなり――まるでジャックと豆の木のような信仰を持つに至った、ということも実際にあると思います。

 ではでは、次回は第9章「予期せぬ報い」より、喉に続いて弱っていた足の癒しを神さまから受けたマーリンさんがさらに力強く賜物を生かしていかれた証しについて学んでいきたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 不気味の谷を越えて。 | トップ | 聖なる楽しみ。-【10】- »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事