神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

人にはできないことが、神にはできるのです(ルカの福音書、第18章27節)。

2017年11月29日 | キリスト教
【聖ペテロの解放】ベルナルド・ストロッツィ


 >>神にとって不可能なことは一つもありません。

(ルカの福音書、第1章37節)

 >>あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。

(ヨブ記、第42章2節)

 >>ああ。神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。

(エレミヤ書、第32章17節)

 >>人にはできないことが、神にはできるのです。

(ルカの福音書、第18章27節)


 ……この聖書の御言葉を信じ握って、「そうだ!神さまに不可能なことなど何ひとつない」と思っても、結構限界があるような気がします(^^;)

 昔、確かマーリン・キャロザースさんの書かれた記事だったと思うんですけど、ある家族が「神さまの言葉」として「宝くじが当たって家族が悠々自適な生活を送れますように」と願い、きっとその通りになると祈り、その実現を信じていた……みたいな記事を読んだ記憶があります(もしわたしの記憶違いだったらすみません)。

 こうした事柄を「自分に対する神さまの計画」と思い祈り願っても――「結果として」宝くじが当たらずに終わるって多いと思うんですよ(^^;)

 あるいは、ほんの小額当たっただけだったとすれば、「悠々自適」とまではいかないでしょうしね、当然。。。

 でも、こうしたケースについてはもちろん「ほら!だから神さまにも不可能はあるでしょ」と言うことは出来ないと思います。

 また、聖書のピリピ人への手紙には、


 >>私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

(ピリピ人への手紙 第4章13節)


 とあるのですけれども、パウロほど立派でない信仰……本当にゴミクズか、消しゴムのカス程度の信仰しか持ってないわたしには、「確かに神さまはわたしを強めてくださるけれども、『どんなことでも』出来るかといえば、わたしにはムリだなあ」とつい不信仰になってしまいます(^^;)

 他に、「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです」ともイエスさまはおっしゃっておられるわけですけれども、「これも自分には無理だなあ」なんて、やっぱり不信仰になってしまいます。。。

 では、「神さまに不可能はない」、「人には出来ないことが神には出来るのです」というのがどういうことかというと……そのことについて「使徒の働き」から今回は学んでみたいと思います♪(^^)


 >>ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。

 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。

 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。

 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。

 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい」と言った。

 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。

 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。

 そのとき、ペテロは我に返って言った。

「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ」

 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。

(使徒の働き、第12章4~12節)


 この時、ペテロは二本の鎖に繋がれた上、ふたりの兵士の間に寝ており、さらに牢の戸口にも番兵がいてしっかりと見張られているといった状態でした。

 ペテロが捕らえられる前、ヨハネの兄弟ヤコブも捕らえられて殉教していましたから、他の仲間の使徒たちも「ペテロも同じ運命を辿るに違いない」と絶望的になりながら、それでも彼が生きて釈放されるよう祈っていたことでしょう。

 このペテロの釈放には天使が介在しているため、あまりに「神的」かつ「劇的」すぎて、今という現代には「『困っていたら天使が助けてくれる』とか、絶対ないやろww」としか思われないかもしれません。

 でも、天使というよりも、どちらかというと聖霊さまが助けてくださって、このようながんじがらめの状況からでも助けてくださった、悩みから解放してくださった……ということは本当にあります。

 状況としては色々あると思いますけれども、「あんな悩みだけでなく、こんな悩みやあんな苦しみまであって、自分はもう駄目だ」という時でも、神さま(イエスさま)に頼ったら助けられたっていう経験をされている方は本当に多いと思うんですよね。

 これは日本のリバイバルにおいてもまったく同じなんじゃないかな……という気がします。いえ、今の日本の現状を見る限りにおいて、日本の全国民の10%、あるいは20%イエスさまのことを信じる方が起こされるというだけでも、もう本当に奇蹟です。

 でも日本においては本当に霊の縛りがきつくて、ちょうどこのペテロのような状態ともいえると思うんですよね。でも「神さまの時」が成ったとすれば、聖霊の炎がこの日本にも燃やされるのでしょうし――また、日本でそのようなリバイバルが起きたとすれば、聖書的に見た場合、本当に終末が近いということですから、真に神さまのことを恐れ、備えなくてはいけないということでもあると思います。

 また、前回まで長くがんについてとか、病いの癒しということについて長く書いてきたのですけれども、そこで書いた全人的苦痛(トータルペイン)ということを取ったとすれば、まずは、身体的苦痛が体のどこかにあり、精神的苦痛として不安や不眠やうつといったことがあり、その他に社会的苦痛として仕事上の問題や金銭的な問題、家庭の問題があったり、さらにはスピリチュアルペインとして、人生の意味への問い、死の恐怖、絶対的な存在への追求……といったことがあったとしたら、本当にもう四肢をがんじがらめにされているといっていいですよね

 しかもそれだけではなく、その状態から決して抜け出すことが出来ないように監視の兵までついていて、気まぐれに嘲弄されたり愚弄されたり殴られたり……といったことまであったとしたらどうでしょうか。

 言うまでもなく、わたしならもうこんな状態に二週間――いや、一週間でも置かれたとしたら、死にたくなるでしょうし、実際神さまにこの悩みの牢獄の中で死を願ったことでしょう。


 >>闇と死の陰に座す者、
 悩みと鉄の枷とに縛られている者、
 彼らは、神のことばに逆らい、
 いと高き方のさとしを侮ったのである。
 それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。
 彼らはよろけたが、だれも助けなかった。
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
 主は彼らを苦悩から救われた。
 主は彼らを闇と死の陰から連れ出し、
 彼らの枷を打ち砕かれた。
 彼らは、主の恵みと、
 人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
 まことに主は青銅の扉を打ち砕き、
 鉄の閂を粉々に砕かれた。

 愚か者は、自分のそむきの道のため、
 また、その咎のために悩んだ。
 彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、
 彼らは死の門にまで着いていた。
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
 主は彼らを苦悩から救われた。
 主はみことばを送って彼らを癒し、
 その滅びの穴から彼らを助け出された。
 彼らは、主の恵みと、
 人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
 彼らは、感謝のいけにえをささげ、
 喜び叫びながら主のみわざを語れ。

(詩篇107編、第10~22節)


 これが、わたしたちがイエスさまのことを信じた時に現される神さまの御業です。

 イエスさまはわたしたちの悩みの枷を砕き、苦しみの縄目をとき、悲しみを癒し、人間の力では打ち破れない青銅の扉、鉄の閂でさえも砕いて、そこに囚われている人々を解放してくださいます。

 問題そのものに対してではなく、イエスさまに目を留めましょう。

 使徒のパウロとシラスもまた、鞭打たれ牢獄に繋がれていた時、そのような時でさえ、いや、そのような時だからこそ神さまを賛美していました。この時、大きな地震が起きて監獄の扉が開いたにも関わらず、囚人はみな誰も逃げ出したりしませんでした。そしてそのことを通して「責任を取って自殺しよう」と思っていた看守とその家族ですらも、神さまは救ってくださいました。

 こうした、不可能を可能にする神さまの業が、イエスさまのことを信じるなら、必ずすべての人に現されてきます。

 イエスさまのことと、すべての罪を――それがどんな種類の罪でも赦してくださる、イエスさまの十字架の血潮の力とを信じましょう。もし信じておられない方がいましたら、教会でイエスさまことをあなたの人生の中に迎えてください。わたしも、そのような方すべてに神さまの業が現れるようにと、それもなるべく速く、一刻も一秒も速く現されることを共に祈りたいと思います。

 それではまた~!!





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2 コメント

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Unknown (名無し)
2020-06-21 17:46:25
問題そのものに対してではなく、イエスさまに目を留めましょう。

これ最高に嫌い
キリスト教は加害者に利するってことじゃん
ゴミ屑過ぎて殺したくなってくる
俺さー教会で言われたんだよねー
「40にもなって自分の家庭を作れないやつは人間の出来損ない、負け犬」ってねー

お前もそういうことを言う奴らの仲間だ
死ね死ねクズ
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Unknown (dilfinium)
2020-06-29 18:27:00
 たぶん、「幸福の意味」のところの9999……さんと名無しさんは同じ方かなと思いますので、こちらにお返事のほうをまとめさせていただきますねm(_ _)m

 滅多にコメントの入らないブログなので、返事のほうが遅れてしまい、申し訳ありません

 教会、ということはそこに通う教会員の方に「40にもなって結婚できないやつは……」といったように言われた、ということでしょうか。詳しい御事情のほうはわかりませんが、それはわたしでもおそらく「何言ってんだ、この野郎!!」くらいのことは思ったのではないかと思います(^^;)

 先にお書きしておきますと、わたし本人のほうでは「死ね、クズ」とコメント欄に書いてあっても動揺することはありません。もし、ある程度お互いに知っている方に、直接顔と顔を合わせた形で「死ね、クズ」と言われたとしたら、結構ダメージ大きいかな、とは思うのですが

 それはさておき、教会に通う方同士の間で何か人間的なトラブルが起きる……というのは、比較的よく聞くお話とも思うんですよね(^^;)

 正直、この件についてはわたしもブログ内で触れるのはあえてよそうと思ってきたのですが、その教会の牧師さん、あるいは教会員との間で人間的に傷つき、教会から離れてしまう方というのは確かにおられると思います。

 わたしも、自分がイエスさまのことを信じてクリスチャンになってから、実は一番がっかりしたのがそのことでした。それは何かというと、ノンクリスチャンかクリスチャンかということは関係なく、ある場所に毎週通っていて人間関係が形成されると、まあ大体何かしら問題が起きるのが普通らしい、ということです(^^;)

 また、クリスチャンの方でも、そうした日曜礼拝といった神さまの集まりが終わった直後に、他の方の悪口を言っていたり、噂話をするといったことも、比較的珍しくない光景である気がします。

 でも翌週にはその方が「こんな罪深いわたしたちをお許しください」と、壇上で祈っていたり……こうした矛盾から教会を離れてしまうといった方は確かにおられると思うんですよね。

 けれど現実問題として「そうしたことが一切ない、純粋な信仰のある教会へ通いたい」と思っても、なかなか難しいというのが現状ではないかと個人的には思っていたり。。。

 9999さんも、その教会の誰かに心ないことを言われ、とても気分を害されたことと思います。また、わたしの書いた記事を読んでそのことを思い出され、不愉快なお気持ちになられたとしたら、そのことはあやまりたいと思いますm(_ _)m

 これはあくまでわたし個人の考えですが、四十歳を過ぎてからとか、五十歳を過ぎてから家庭を持たれる方もたくさんいらっしゃると思いますし、今の世の中、家庭を持つことばかりが幸せのすべてでもないといったように想像します。

 どんな形であっても、9999さんが御自身にとってもっとも望んだ形で幸福になられること、あるいは今現在幸せであられることが最善であると思います。

 コロナ禍ということもあって大変な世の中ですが、9999さんもご自愛くださいますように……。

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