【快楽の園】(右扉部分)ヒエロニムス・ボス
それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。
また、彼らにこう命じられた。
「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。
くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません」
また、彼らに言われた。
「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。
もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい」
こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。
(マルコの福音書、第6章6~13節)
いえ、このこともまた、約二千年の昔も今という現代も、何も変わりがないんだな~なんて思います(^^;)
前回も少し触れたことなのですが、やはり福音を受け容れる、イエスさまのことを信じるにはやはり、神さまの<時と機会>のようなものがあると思うので、いくら語られても<時>に至っていない、<時>が熟していない方にとっては、イエスさまの福音っていうのは「馬の耳に念仏☆」みたいなところがあるかもしれません
もっとも、わたし自身の場合一番問題なのは、この「イエスさまの福音を語る」ということだったりするんですけれども(^^;)
ようするに、「神さまのことを突然語ったりして変な人だと思われたくない☆」ですとか、「宗教に走っている軽くヤバい人☆」と思われたくないなどと、人間的な考えがあまりに強く働いてしまって、なかなか神さまのことを語れないと言いますかorz
そしてここでイエスさまがおっしゃっておられるのは、「なんにしても福音について語りなさい」ということなのかなという気がします。もしそれで人々が信じても信じなくても、とにかく語るだけは語って、聞こうとしない人々に対しては<足の裏のちりを落としなさい>とおっしゃっておられます。
わたしの持っている聖書の欄外注には、
>>足の裏のちりを払い落とし=伝道の責任を果たした以上、後は福音を聞いた人々の責任であることを示す行為。
とあります。
いや~、でもそれは神さまちょっと、強引すぎやしねえですかい?(←誰?^^;)
という気がしなくもなかったり。。。
なんていうか、イエスさまのことを語るだけ語ってしまえば、信じる・信じないはあなた次第……でも信じなかったらあなたの魂は地獄行きですよ。ムヒョヒョヒョヒョ☆――という笑い声がしたらどうしよう、みたいなww
わたしが生まれてはじめていわゆる<福音>(神さまの良き知らせ)なるものを聞いたのは、小学生の時に校門近くにいたエ○バの証人の方からでした。イエスさまというか、キリスト教のことを信じた人の魂は天国へ行き、そうでない人は死後地獄へ行く……というのをですね、絵で説明しておられたのですよ(^^;)
それによると、キリスト教を信じている人々は、雲の上で後光の差しているイエスさまの前にひれ伏していて、なんとも清らかで安らかそうな感じでした。んで、地獄へ行った人々というのは、おどろおどろしい地獄の世界で悪魔どもに苦しめられておるわけですね
その時、小学生だったわたしがどんなふうに感じたかといえば――一番最初に感じたのが、物凄く強い反発心でした。「あんなの、本当の神さまなんかじゃないやい!」と思いましたし、何よりその伝道されてた方もちょっと怖い感じだったんですよね(^^;)
まず最初に「イエスさまのことを信じてさえいれば」、こんなに素晴らしい世界へ行けると言って、天国の絵を指し示し、次に「もし信じていないと」、死んだあとにこんなに苦しむのヨォォ、とばかり、地獄のおどろおどろしい絵をいたいけな(?)子供たちに向けて指し示すのでした。
しかもそのあと、「こうはなりたくないでしょおお!?」みたいに半ば脅迫しておられたんですよね(←ほんとに実話・笑)
で、この時わたしの心の中には無意識のうちにもこう刻みつけられたといっていいと思います。
「キリスト教の神だけは絶対に本当の神さまじゃない。そのことだけは絶対間違いない☆」みたいに(^^;)
なので、日本ではキリスト教が何故こんなにも評判があまりよろしくないのか、その理由はよくわかるような気がするのです。
ただ、この時十二弟子を通して行われたものは、ただの福音宣教だけではない……と思うんですよね。イエスさまに対してそうだったように、人々は弟子たちの行う福音宣教に伴った<業>のほうを見て信じた、という部分も大きかったのではないでしょうか。
すなわち、人々を縛って不幸に陥れる悪霊を追いだしたり、またたくさんの病いに苦しむ人々が癒されたことにより――「これこそ本物の神の力だ」ということが次々起きていったのだと思います。
この時に弟子たちの行った<業>を伴う福音宣教というのは、現代のわたしたちキリスト教徒にもまったく同じことが出来る……という、わたしが救われた先の教会では、そのように教えていただきました。また、そのように教えていただけたこと自体、本当に神さまの深い恵みだったと思うんですよね。
というのも、「そのように力強く信じる」というのではない教会と言いますか、「あれはイエスさまの生きた時代であればこそ起きたことであって、今という現代では病人の病気を治すのは結局のところ医者だ☆」といった考えの教会であったとすれば、「本当にイエスさまのことを信じて従うのであれば、どんなことでも出来る」という内心の声との矛盾で、悩むことになったかもしれませんから(^^;)
ただ、そこまでの<力強い業>が起きるためには、「子供のように信じて祈る信仰」が必要であるのと同時に、<あらゆるこの世的誘惑>を退ける覚悟も求められてくるのかな……という気はします。
まず、経済的・物質的必要については、すべて神さまが必ず満たしてくれると信じ、<捨てる>覚悟が必要になってくると思うんですよね。いえ、これは真夏に扇風機やエアコンを絶対使うなとか、そういう話ではありません。そうしたことというのは、どちらかというと痩せ我慢系の自己満足的信仰であって、神さまが真実求めておられることとはちょっとずれてくるというか(^^;)
そうではなく、イエスさま御自身が「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすればこれらのもの(生活の必要)はすべて与えられます」とおっしゃっているように、神さまに真実求めて祈り、その御声に聞き従うならば、すべてのものは満たされると信じる信仰、これがもっとも大切なこと、というか。
つまり、人々が救われるように祈るのと同時に、扇風機が欲しかったら扇風機、エアコンが欲しかったエアコン、あるいは冬場であれば「ストーヴが欲しいです、神さま」などなど、物欲的なことを祈るのは罪ではないと思います。ただ、わたしの経験上、「それが真実本当に必要な場合において」、びっくりするくらい安い値段、あるいはただで手に入るといったようなことはあっても、「あってもなくてもどっちでもいいや☆」くらいのものは、手に入らないか、祈りが聞かれにくい傾向にあるかな~という気はします(^^;)
個人的に思うに、祈りのコツ(?)というか、秘訣のようなものは、とにかく毎日祈る、しつこく祈る、継続的に祈る……また、小学生くらいの時に「同じクラスの○○ちゃんと仲良くしたいです。神さま、よろしくお願いします」と祈ったように、子供のように純粋な気持ちで祈る……ということなのかな、という気がしたり。
でもわたし自身そうであるように、今まで叶えられなかった祈りもありますし、またのちに叶えられなくて良かったということもあれば、随分あとになってもう諦めかけていた頃に<時が満ちて>ようやく祈りが聞かれたということもありました。
ただ、長く祈っていればいるほど、次第に少しずつ祈りのハードルが上がってくると言いますか、<選び>というものが関係してくることがあると思います。「この世的な誘惑の道を選ぶのか、それとも真実神さまの道を選ぶのか」といった試しというものも、日常生活の中で出てきますし、このあたりのことというのは、冒頭の聖書の言葉とも関係してくるところがあると思います。
>>旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。
くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません」
(※欄外注の注釈には、>>当時のユダヤ人社会では、旅行者をもてなし、衣服や食物を与え、宿を供する習慣があったことを背景に語られている、とあります)。
……いえ、鞄にお金を一円も入れることなく出かけるって、今の時代ほとんどないと思うのですが、その上イエスさまは食料的なものも一切持っていくなと言う。何故なら、必要なものは必ず神さまが満たしてくださるのだから、と。
仮にここまで厳しくはなかったとしても、クリスチャン生活を長く送っていると、似たような<選び>のようなものは必ず経験すると思います。そして一見「不可能で厳しい」ように見える神さまの道よりも、人間的に考えて「これが妥当だ」と思えるような道を選んだ場合――個人的にわたしのことをいえば、後者を選ぶとまあ大体絶対的に失敗します(^^;)
たとえば、祈りの中で「神さまにそう語られたような気がする」くらいのことが、自分にとって都合の悪いことだったりすると、「いやいや聞き違いでしょう」みたいに思ってつい落としてしまうのですが、そこで、なんというか人間的に考えて妥当な道を選んだ場合、色々と別な困難なことが起こってきて、「どっちみち苦労するのなら、神さまの呼ばれた道を選んでいたら良かったなあ」みたいなことになるんですよね。
わたし自身も何かと失敗の多い信仰者ですが、「今度こそはあらゆるこの世的な打算、人間的考えに従うことなく、真実神さまの道を選べますように」と、ただひたすらにそう願い、祈るのみだったりします(^^;)
それではまた~!!
それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。
また、彼らにこう命じられた。
「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。
くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません」
また、彼らに言われた。
「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。
もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい」
こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。
(マルコの福音書、第6章6~13節)
いえ、このこともまた、約二千年の昔も今という現代も、何も変わりがないんだな~なんて思います(^^;)
前回も少し触れたことなのですが、やはり福音を受け容れる、イエスさまのことを信じるにはやはり、神さまの<時と機会>のようなものがあると思うので、いくら語られても<時>に至っていない、<時>が熟していない方にとっては、イエスさまの福音っていうのは「馬の耳に念仏☆」みたいなところがあるかもしれません
もっとも、わたし自身の場合一番問題なのは、この「イエスさまの福音を語る」ということだったりするんですけれども(^^;)
ようするに、「神さまのことを突然語ったりして変な人だと思われたくない☆」ですとか、「宗教に走っている軽くヤバい人☆」と思われたくないなどと、人間的な考えがあまりに強く働いてしまって、なかなか神さまのことを語れないと言いますかorz
そしてここでイエスさまがおっしゃっておられるのは、「なんにしても福音について語りなさい」ということなのかなという気がします。もしそれで人々が信じても信じなくても、とにかく語るだけは語って、聞こうとしない人々に対しては<足の裏のちりを落としなさい>とおっしゃっておられます。
わたしの持っている聖書の欄外注には、
>>足の裏のちりを払い落とし=伝道の責任を果たした以上、後は福音を聞いた人々の責任であることを示す行為。
とあります。
いや~、でもそれは神さまちょっと、強引すぎやしねえですかい?(←誰?^^;)
という気がしなくもなかったり。。。
なんていうか、イエスさまのことを語るだけ語ってしまえば、信じる・信じないはあなた次第……でも信じなかったらあなたの魂は地獄行きですよ。ムヒョヒョヒョヒョ☆――という笑い声がしたらどうしよう、みたいなww
わたしが生まれてはじめていわゆる<福音>(神さまの良き知らせ)なるものを聞いたのは、小学生の時に校門近くにいたエ○バの証人の方からでした。イエスさまというか、キリスト教のことを信じた人の魂は天国へ行き、そうでない人は死後地獄へ行く……というのをですね、絵で説明しておられたのですよ(^^;)
それによると、キリスト教を信じている人々は、雲の上で後光の差しているイエスさまの前にひれ伏していて、なんとも清らかで安らかそうな感じでした。んで、地獄へ行った人々というのは、おどろおどろしい地獄の世界で悪魔どもに苦しめられておるわけですね
その時、小学生だったわたしがどんなふうに感じたかといえば――一番最初に感じたのが、物凄く強い反発心でした。「あんなの、本当の神さまなんかじゃないやい!」と思いましたし、何よりその伝道されてた方もちょっと怖い感じだったんですよね(^^;)
まず最初に「イエスさまのことを信じてさえいれば」、こんなに素晴らしい世界へ行けると言って、天国の絵を指し示し、次に「もし信じていないと」、死んだあとにこんなに苦しむのヨォォ、とばかり、地獄のおどろおどろしい絵をいたいけな(?)子供たちに向けて指し示すのでした。
しかもそのあと、「こうはなりたくないでしょおお!?」みたいに半ば脅迫しておられたんですよね(←ほんとに実話・笑)
で、この時わたしの心の中には無意識のうちにもこう刻みつけられたといっていいと思います。
「キリスト教の神だけは絶対に本当の神さまじゃない。そのことだけは絶対間違いない☆」みたいに(^^;)
なので、日本ではキリスト教が何故こんなにも評判があまりよろしくないのか、その理由はよくわかるような気がするのです。
ただ、この時十二弟子を通して行われたものは、ただの福音宣教だけではない……と思うんですよね。イエスさまに対してそうだったように、人々は弟子たちの行う福音宣教に伴った<業>のほうを見て信じた、という部分も大きかったのではないでしょうか。
すなわち、人々を縛って不幸に陥れる悪霊を追いだしたり、またたくさんの病いに苦しむ人々が癒されたことにより――「これこそ本物の神の力だ」ということが次々起きていったのだと思います。
この時に弟子たちの行った<業>を伴う福音宣教というのは、現代のわたしたちキリスト教徒にもまったく同じことが出来る……という、わたしが救われた先の教会では、そのように教えていただきました。また、そのように教えていただけたこと自体、本当に神さまの深い恵みだったと思うんですよね。
というのも、「そのように力強く信じる」というのではない教会と言いますか、「あれはイエスさまの生きた時代であればこそ起きたことであって、今という現代では病人の病気を治すのは結局のところ医者だ☆」といった考えの教会であったとすれば、「本当にイエスさまのことを信じて従うのであれば、どんなことでも出来る」という内心の声との矛盾で、悩むことになったかもしれませんから(^^;)
ただ、そこまでの<力強い業>が起きるためには、「子供のように信じて祈る信仰」が必要であるのと同時に、<あらゆるこの世的誘惑>を退ける覚悟も求められてくるのかな……という気はします。
まず、経済的・物質的必要については、すべて神さまが必ず満たしてくれると信じ、<捨てる>覚悟が必要になってくると思うんですよね。いえ、これは真夏に扇風機やエアコンを絶対使うなとか、そういう話ではありません。そうしたことというのは、どちらかというと痩せ我慢系の自己満足的信仰であって、神さまが真実求めておられることとはちょっとずれてくるというか(^^;)
そうではなく、イエスさま御自身が「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすればこれらのもの(生活の必要)はすべて与えられます」とおっしゃっているように、神さまに真実求めて祈り、その御声に聞き従うならば、すべてのものは満たされると信じる信仰、これがもっとも大切なこと、というか。
つまり、人々が救われるように祈るのと同時に、扇風機が欲しかったら扇風機、エアコンが欲しかったエアコン、あるいは冬場であれば「ストーヴが欲しいです、神さま」などなど、物欲的なことを祈るのは罪ではないと思います。ただ、わたしの経験上、「それが真実本当に必要な場合において」、びっくりするくらい安い値段、あるいはただで手に入るといったようなことはあっても、「あってもなくてもどっちでもいいや☆」くらいのものは、手に入らないか、祈りが聞かれにくい傾向にあるかな~という気はします(^^;)
個人的に思うに、祈りのコツ(?)というか、秘訣のようなものは、とにかく毎日祈る、しつこく祈る、継続的に祈る……また、小学生くらいの時に「同じクラスの○○ちゃんと仲良くしたいです。神さま、よろしくお願いします」と祈ったように、子供のように純粋な気持ちで祈る……ということなのかな、という気がしたり。
でもわたし自身そうであるように、今まで叶えられなかった祈りもありますし、またのちに叶えられなくて良かったということもあれば、随分あとになってもう諦めかけていた頃に<時が満ちて>ようやく祈りが聞かれたということもありました。
ただ、長く祈っていればいるほど、次第に少しずつ祈りのハードルが上がってくると言いますか、<選び>というものが関係してくることがあると思います。「この世的な誘惑の道を選ぶのか、それとも真実神さまの道を選ぶのか」といった試しというものも、日常生活の中で出てきますし、このあたりのことというのは、冒頭の聖書の言葉とも関係してくるところがあると思います。
>>旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。
くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません」
(※欄外注の注釈には、>>当時のユダヤ人社会では、旅行者をもてなし、衣服や食物を与え、宿を供する習慣があったことを背景に語られている、とあります)。
……いえ、鞄にお金を一円も入れることなく出かけるって、今の時代ほとんどないと思うのですが、その上イエスさまは食料的なものも一切持っていくなと言う。何故なら、必要なものは必ず神さまが満たしてくださるのだから、と。
仮にここまで厳しくはなかったとしても、クリスチャン生活を長く送っていると、似たような<選び>のようなものは必ず経験すると思います。そして一見「不可能で厳しい」ように見える神さまの道よりも、人間的に考えて「これが妥当だ」と思えるような道を選んだ場合――個人的にわたしのことをいえば、後者を選ぶとまあ大体絶対的に失敗します(^^;)
たとえば、祈りの中で「神さまにそう語られたような気がする」くらいのことが、自分にとって都合の悪いことだったりすると、「いやいや聞き違いでしょう」みたいに思ってつい落としてしまうのですが、そこで、なんというか人間的に考えて妥当な道を選んだ場合、色々と別な困難なことが起こってきて、「どっちみち苦労するのなら、神さまの呼ばれた道を選んでいたら良かったなあ」みたいなことになるんですよね。
わたし自身も何かと失敗の多い信仰者ですが、「今度こそはあらゆるこの世的な打算、人間的考えに従うことなく、真実神さまの道を選べますように」と、ただひたすらにそう願い、祈るのみだったりします(^^;)
それではまた~!!
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