神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

カルペ・ディエムとメメント・モリの間。

2019年11月04日 | キリスト教
【摘めるうちに薔薇の蕾を摘みなさい】ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス


 有名な脳外科医や高名な神経科医の方の書かれた本をお読みしますと、現代科学といったものは「たましい(魂)」なるものが存在しないことをハッキリ告げていると言います。

 けれども、このお二方とも「それが一体何か問題があるだろうか?」ということだったんですよね(^^;)

 おっしゃっていることというか、書かれている文章は違うのですけれども、行間を読むとしますと、それは大体のところ次のようなことではないかと思います。

 つまり、天国や地獄があるかとか、来世といったものがあるかどうかといったことよりも――我々が「今、ここにあること」が重要なのだと。そして、「今、ここにあること」によって一生懸命日々を生き、やがていつかは死に至るとしたなら……死後が無の暗闇であったとしても、そんなのどうだっていいことだと言えはしないだろうか、ということなんじゃないかと思うんですよね(^^;)

「カルぺ・ディエム」というのは、「その日を摘め」、「一日を摘め」という意味で、大体のところ「今日という日の花を摘め」、「今この瞬間を楽しめ」、「今という時を大切に使え」……という意味だそうですが、そんなふうに毎日を生きていたなら、来世がどうとか、死後に天国があるとか地獄があるとか、そんなことはどうでもよくなる、というのでしょうか。

 けれども、この「カルぺ・ディエム」、意訳すると「今を生きろ」と訳される言葉が、「メメント・モリ」(死を想え)という言葉と、実質的にまったく同じ意味を持っていると見なされるのは、なんだかとても不思議な感じがしませんか?


 >>「飲めよ。食らえよ。どうせ、明日は死ぬのだから」は、イザヤ書、第22章13節にある言葉ですが、人の人生がそのようなものなら、確かに人生は飲んだり食べたり、目の前にある快楽を貪り楽しむ……という、たったそれだけしか人間に幸せというものはない、ということになるかもしれません。

 けれども、パウロは、ローマ人への手紙、第14章17節で「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」と言っており、「いつか死ぬことを頭のどこかで意識しつつ、その上で今という時を精一杯生きろ」……という以上の何かを実は人というのは心のどこかで求めているものなのではないでしょうか。

 また、こちらも大体の意訳となりますが、旧約聖書の「伝道者の書」を読みますと、「人の一生は虚しい。食べて飲んで財産を蓄えたところで、それがなんになろう。人の一生は影のように虚しくすぎゆく。食べて飲んで良い妻を持ち、財産があるならそのことを喜び楽しめ。何故ならすべての人がそうできるわけではないからだ。ゆえに、幸福と出会ったらなら心ゆくまでそれを楽しめ」、「だが、人はいつか老い、死ぬ日が訪れることも忘れてはならない。そして結局のところ、人にとって一番大切なことは神を恐れ、神の命令を守ることである」……実際の「伝道者の書」は、もっと深い言葉と思想性によって綴られているわけですが、とりあえず短くこのようにまとめさせていただきました(^^;)

 でも、「いつか死ぬことを頭のどこかで意識しつつ、その上で今という時を精一杯生きろ」……って、なかなか高度で難しいことのような気がしますよね。。。

 以前、こんなお話をある媒体で聞いた記憶があります。HKさんの番組で、昔「キラッと生きる」という、障害者の方のことを放送する番組があったのですけれども、なんと言いますか、「障害があってもこんなにも頑張ってキラッと輝いて生きてる」……といった方向性の強い番組で、これは障害者のあくまで一面で、真実を描いていないということだったんですよね(わたしも時々しか見てなかったのですが、言われてみたら確かにそうだなと思いました^^;)。

 番組で取り上げられるのは、「健常者の二倍も三倍も頑張って、心も美しくキラッと輝いている障害者の場合が多いけれど、そうしたことばかりが障害者の実態とは言えない」と。健常者にも、そんなにしょっちゅうキラッと輝いて生きている連中ばかりでないように、障害者にも、そうした人もいれば、心が暗く性格もひねくれた難しい人もいる。だけどそんなの、健常者だって同じじゃないか。健常者にも心美しくキラッと輝いている人など極一部であるように――五体満足でいたって、心が暗くひねくれたどうしようもない奴もいる。そういう意味では健常者も障害者もなく、みんな同じだろう、という。

 何よりこの方は、「キラッと輝くように生きている障害者」こそ理想といったイメージを押しつけられるのが嫌だ、といったことを言っておられて、その理想を体現できない障害者はみんなクズだと分類されているような気がして腹が立つ……といったようにも語られていたと思います。

 このお話を聞いた時、「そりゃそーだよな」と思いましたし、「今、ここにあることに集中する」という思想は、今流行っているマインドフルネスの瞑想法と同じものだと思うのですが、わたし自身はやっぱり、こうしたことを突き抜けた先に、結局のところ人が見出すのは「神・天国」といった事柄だろうと思っています(^^;)


 >>「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(一日の苦労は一日にて足れり)

(マタイの福音書、第6章34節)


 これはイエスさまの御言葉ですが、イエスさまは健常者や障害者の別なく、また心が美しくキラッと輝いている者、心が暗く性格のひねくれている者の別なく……そのすべての人を御腕の中に引き寄せようとされました。

 当時、「穢れている」とされていたらい病の方もお癒しになってくださいましたし、「穢れた職業」とされていた娼婦の女性のこともお救いになりました。むしろ逆に、パリサイ人といった宗教的エリートや金持ちの、暮らし向きになんら困っていない人こそ、イエスさまのことを信じることが出来なかったというのは、なんとも皮肉な感じがします(^^;)

 死後に待っているものが無の暗闇でも、現世を精一杯生きたらそれでいいじゃないか……確かに、それはそうだと思うのです。けれども、人間というのはどんな人も、そうそう毎日毎日、24時間毎分毎秒、そんなにキラッと輝くように生きることは出来ないし、そうした一瞬に向けて頑張って生きる――けれど、そんな努力も何やら虚しいと感じ、身近な罪に引かれてその日その日をなんとなくな快楽を貪り生きる……そうした場合も多いと思います。

 また、「それの何がいけないの?」と言われたら、人間はそう強くはない生き物だから……としか、わたしも答えようがないかもしれません。

 けれども、イエスさまは聖霊さまを通してそんなわたしたちを優しく支えてくださり、罪から離れる強さや、また罪から離れて以後はどのように生きていったらいいかを教えてくださる方でもあります。

 日々を一生懸命、キラッと輝くように生きている、その積み重ねがいつか永遠になったら……といった生き方を実際に志向し、そのように生きられている方というのは、確かに神さまから祝福されることでしょう。

 でも、わたしのようにそのような気持ちはあっても、そこへ行くまでに十も二十も障害があって、それを乗り越える気力ももう湧いてこない……その昔はわたしも、そうした障害をいくつか乗り越え、キラッと輝くような瞬間を掴んだこともあった。でももう、そんな疲れる生き方は嫌になったんだ――といった場合、やはりこの世の哲学や科学のもたらす何かはなんの効果もないのです。

 ただ、神さま、イエスさまの衣の裾にでも縋り、「ああ、こんなにも罪深いわたしをお許しください」と告白し、イエスさまの十字架の血の贖いによって罪許され、地上で何があろうとも、最終的には天国へ行けるし、地上でも祈りや賛美、礼拝を通してこの世のあらゆる出来事に対しても困難を乗り越える人智を越えた力を与えていただける……こちらの<魂の救い>を志向したほうが、わたし自身は人間の肉の腕やその思想に頼るよりも、よほど心が楽になる、心身ともに幸せになれる道を見出すことが出来るのです。

 本当に、神さまの、イエスさまを地上に送られた御計画は完璧だったと思います。人間の哲学や科学では到達できない魂の領域のことについて、人間の歴史のはじめからあらかじめ教えてくださっていたのですから。


 >>すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 わたしのくびきき負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

(マタイの福音書、第11章28~30節)


 イエスさまの助けなしに、わたしたちがこの世の荷を背負うなら、それはとてつもなく重く、自分ひとりでは到底担えないものでしょう。けれども、わたしたちには父なる神が地上に送ってくださったイエスさまがいます。また、イエスさまの送ってくださった聖霊さまがともにおられます。

 本来なら、わたしたちのほうこそがイエスさまの十字架をお担いしなくてはならないはずなのに……わたしたちが本来背負わなければならない罪の十字架を、イエスさまこそが背負ってくださったことで――わたしたちのこの世における荷は、とてつもなく軽くなったのです。

 どうか、この方にすべてを……人生上の苦難や困難、問題のすべてをお委ねし、ともに歩むことの出来る者とさせていただきましょう。

 それではまた~!!





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