映画の「ベン・ハー」を見ました♪
というか、こんなに内容がキリスト教的だと思ってなかったので、そうした意味で一番驚いたというか
まあ、映画の古典の名作と言いますか、誰しも名前くらいは聞いたことがあり、「馬車のレースシーンは今の撮影技術を持ってしても同じものは描けない」と言われていたり……あと、オスカーの栄冠にいくつも輝いている的なことについても、昔からなんとな~く聞いたことはありました
もちろんご存知の方にとっては、「有名な作品だから、そんなこと知っとるがな」という感じとは思うのですが、わたし的には結構衝撃であったため、この四時間近い大作映画について、一応順に書いていってみようかなと思いますm(_ _)m
>>ユダヤの都エルサレム。豪族の息子ベン・ハーは、ローマ軍の新将校としてやってきた幼友達メッサラと再会。だが、今やふたりの間は対立関係にあり、ベン・ハーは反逆罪に問われ、奴隷として軍船に送り込まれてしまう……。
と、アマプラのあらすじにはあるのですが、はじまりがまず、イエス・キリストの誕生や東方の三博士の礼拝で、主人公ジュダ・ベン・ハーとイエスさまの生きた時代とが大体重なっていることがわかります。
メッサラは映画内における悪役かもしれませんが、結構大人になってから見ると、「メッサラの気持ちもわからなくもない」みたいに思わなくもなかったり……何より、かつては親友同士として家族とも親密な行き来があったればこそ、その愛情が憎しみに変わった時、それは本人にもどうにも出来ないほどの威力と燃え盛る炎のような消しえぬ力を持っていた……ように感じられたりもするわけです
出世してローマから戻ってきた親友と再会するベン・ハーですが、彼の妹のティルダが、新しくやってきたエルサレムの総督グラトゥス(彼の次に新総督として就任するのがポンテオ・ピラトということらしい)が通りかかった時、偶然かわらを彼の上に落としてしまったことから――この不幸な事故が原因で、ベン・ハーも妹のティルダも、彼らの母ミリアムも捕縛され、牢屋へ放り込まれることになってしまう。
ベン・ハーはメッサラに、「あれは事故だった」と訴え、またメッサラもそのことを屋根のかわらを調べてそうと承知していながら……ベン・ハーのことを軍船の奴隷のオール漕ぎとして送り込み、彼の母のことも妹のことも助けようとはしなかったわけです
まあ、こう書くと「そんなひどい奴の、一体どんな気持ちがわかるってんだ、ええ!?」という話なのですが、メッサラはもうある意味「ローマ的システムに洗脳されている」というのでしょうか。彼らの生きたのは今から約二千年もの昔でも、今もそうした人生を選ぶ方というのはたくさんいらっしゃるような気がします。「なんだかんだ言ったって、金がなけりゃなんにも出来んじゃないかね、チミィ」とでも言ったらいいのか。
その点、再会した時に「同胞間の情報を探り、自分に売れ」と、ここまであからさまでないにしても、そう遠回しに言ったも同然のメッサラの申し出をベン・ハーは断った。となると、エルサレムという地において、ベン・ハーとそのまま親友でいるということは、メッサラにとっては出世上非常に都合が悪いということになる……流石に、かつての親友を軍船送りにしたり、その母や妹を牢屋送りにしてもなんとも思わない――というのはどうかと思うとはいえ、かといって総督のグラトゥスを害した責任については誰かが負わなければならない。これはメッサラにも到底庇いきれない罪だった。また、庇いきれないとなれば、自分の今後のためにもきっぱり切り捨てるしかない……というメッサラの判断というのは、人間としてではなく、軍人としてという意味であれば、理解できなくもないというか。。。
ローマという国に属する軍人としては私情を捨てねばならないし、今後とも似たことがあったとしても、自分は断固としてそのような決断を下し続けねばならない――という、ここにひとつでも例外を設けると、出世や金や権力といったものは諦めるような生き方をするしかないと思うわけです
これはあくまでわたしの想像ですが、メッサラの人生にはエルサレムという赴任地に再び戻ってくるまでの間にそうした難しい選択をすることが何度か、あるいは何度となくあり、それがベン・ハーが「親友が変わってしまった」と感じた、一番の理由となることだったのではないでしょうか
さて、こうして軍船で奴隷としてオール漕ぎをすることになったベン・ハーですが、その前に彼は港へ囚人として引かれていく途中、とても不思議な経験をします。砂漠の中を何十人もの囚人と引かれていく中で、休憩地にて水を飲もうとしていると、「あいつは危険人物だ。注意せよ」との命令がそもそもあったのか、ベン・ハーだけ水を飲ませてもらえないことに……すると、明らかにイエス・キリストらしい人物がそれとなく現れて、ベン・ハーに水を飲ませてくれます。
「ええっと、イエスさまと同時代をベン・ハーが生きてるのはわかるけど、これが最終的に物語としてどうつながってくるのかなあ」とわたしなどは思いました。いえ、四時間近い大作とはいえ、ベン・ハーがこれから軍船送りになって、おそらくそこからなんらかの形で助かって、馬車のレースに参加するとなったら……そこまで描くだけでも結構時間がかかるでしょうし、そこに平行してイエス・キリストの生涯についてもニアミスする形で盛り込むとか――「いや、六時間映画くらいじゃないと到底無理なのでは」みたいにしか、わたしにはこの時点で想像できなかったからなのです。。。
ところがこののち、アリウスという軍船を指揮する海軍の総司令官がやって来て、奴隷のオール漕ぎたちの仕事ぶりを見て回ります。アリウスから質問され、この軍船に乗り込んだのが一年前で、それ以前に同じように別の船で三年オール漕ぎをしていた……みたいに答えるベン・ハー。これはわたしの過去に読んだ本のおぼろげな記憶なのですが、確かこうした軍船の漕ぎ手というのは、あまり長く持たずに潰れてしまうそうです。ほとんど人間扱いもされず、船の動力という「物」にも近いような扱いで、使いものにならなくなれば海にでもぽいと死体を捨てられてしまう……そんな存在だったのではないでしょうか。
この時、アリウスがベン・ハーを呼び、自分の剣闘士にならないかと持ちかける場面がありますが、アリウス将軍は確かにお目が高かったのではないかという気がします。この劣悪な環境下で計四年、オール漕ぎをして生き延びているのみならず、ベン・ハーには生きる目的に対する怒りのようなものがあった……言うまでもなくそれは、メッサラに対する復讐の思いでしたが、軍船のオール漕ぎになった者はすぐに潰れてしまうので、メッサラはいつかベン・ハーが戻ってくるなどとは別れた時に想像してもいなかったことでしょう。
この軍船は、海上でマケドニアと戦うために向かっていたわけですが、いざ交戦となるその前に、アリウスは何故かベン・ハーの足の鎖だけ外すようにと命じています。そこでベン・ハー自身もそのことを不思議に感じながらも――ふとこの時、自分だけ水を与えられなかったあの時の不思議な出来事のことを思い出すのでした
マケドニアの船がぶつかって来たことで、船の横腹に穴が開き、オールを漕いでいたベン・ハーたちの場所に大量の水が入り込んできます。逃げようにも、他の奴隷や囚人たちは足を鎖で繋がれているので、最早成す術もありません。けれども、自分ひとりだけが逃げるというのでなく、出来る限り他の奴隷たちの鎖も外すようにしてから、ベン・ハーは甲板へ上がってゆきました。そこにはマケドニア兵と激しく戦うローマ兵たちの姿があり、ベン・ハーも相手兵士たちを倒しますが、船が沈むのはすでに時間の問題です。
この時、ベン・ハーはアリウスのことを探しだすと、彼のことを助けてようやくふたりだけが乗れるような木の上で命からがら過ごすことに……アリウスはこの時、自分の指揮した軍が敗北したと信じ込んでいたため、「死なせてくれ」とベン・ハーに頼みますが、ふたりはその後海上を漂ううち、他のローマの船に見つけだされます。
ところが、船上へ助けだされ、勝敗がどうなったかとアリウスが部下に尋ねると、「大勝利でございます、閣下」との返事がこうして、アリウスは自分の命を助けてくれたベン・ハーに心から感謝し、ローマに戻ってのち、彼のことを義理の息子として迎えることになるのでした。
わたしの持っている聖書には、この時代ローマ市民となることがいかに特権に恵まれることかが欄外注に書いてあったと思います。そして、アリウスと心からの絆で結ばれているベン・ハーでしたが、彼は母と妹がその後どうなったかが気になるあまり、こののち故郷のエルサレムへと向かいます。メッサラと再会し、いまやアリウスの息子のアリウス二世でもあるベン・ハーには、彼もまた逆らうことは出来ません。母と妹の行方を探すよう命じるベン・ハー。ところが、驚いたことにはメッサラはその後ふたりがどうなったのかをまるきり知りませんでした。そこで、「もう死んでおりましょう」と部下に言われつつも、牢屋でまだ生きているかどうかを確認してみると……ベン・ハーの母ミリアムも妹のティルダもまだ生きていました。けれど、あれから五年にもなることから――牢獄の劣悪な環境が、この気の毒な母娘のことをらい病にしていたのでした。
ベン・ハーの母と妹のティルダはその後、釈放はされましたが、息子のベン・ハーに会おうとはしませんでした。ただ、かつて彼らの家に忠実だった家令の娘エスターと会うと、「自分たちは死んだということにしてくれ」と泣いて頼むのでした。一度らい病となった者は顔や体の皮膚などが崩れてゆくため、本当は伝染性は低いのですが(今では感染力のもっとも弱い感染症と言われています)、この時代は強い伝染力があると一般に信じられており、一般社会からも除け者のようにされて生きていくしかありませんでした
こうした事情により、エスターはベン・ハーにふたりが死んだと嘘をつくのですが、実は彼女はもともとはベン・ハーと恋仲にあったという女性でした。けれど、この時もしすぐに母と妹のティルダが生きているとわかっていれば……燃える復讐心をもしかしたらベン・ハーは捨てることが出来たかもしれない。ところが、母と妹が死んだと知ったベン・ハーは、メッサラに対して許せぬ気持ちへと再び真っ逆さまに落ちていったものと思われます。
そんなベン・ハーに、殺人によるのではなく、メッサラに対して正統に復讐を果たせる時がやって来ます。ベン・ハーは馬車レースによってローマで勝者となっており、メッサラはエルサレムでの勝者であるようでした。お互い、そのように申し合わせたわけではありませんでしたが、族長イルデリムというアラブの豪商の持つ美しい四頭の白馬によって馬車レースに参加することになるベン・ハー。一方、メッサラは四頭の見事な黒馬に、ギリシャ式の乗り物をつけていました。他にも、アレキサンドリア、メッシナ、カルタゴ、キプロス、ローマ、コリント、アテネ、フリジアなど、国々を代表する参加者とレースをすることになるわけですが、メッサラのギリシャ式の乗り物は、車のところの真ん中がギザギザで回転するようになっており、それで他の馬車に近づいていっては、相手の乗り物が破壊されてしまうという、「未来の車のレースでもそんなアニメとかなかったっけ?」的な、見事なまでの悪役っぷり(^^;)
他の競争者たちが次々倒れたり敗れたりしていったのは、メッサラの攻撃だけが理由ではありませんでしたが、とにかく映画史に残る名シーンと言われているだけあって、この馬車レースのシーンはとにかく見応えがあります最終的にベン・ハーが勝利するとはいえ、一方のメッサラはといえば、彼がそれまで思いのままに生きてきた所業に相応しいような、後ろからやって来た馬や馬車に踏み潰され、瀕死の重傷を負うというものでした。
そしてこの時、最後まで「憎まれ役」でいようとするメッサラでしたが、彼から「母も妹も生きている」と聞き、<業病の谷>とか<死の谷>と呼ばれる場所へ向かうベン・ハー。そこで彼は、ふたりに籠に入れた食料を渡そうとするエスターと出会い、彼女が嘘をついていたことに腹を立てます。けれど、言うまでもなくらい病であれなんであれ、ベン・ハーとしてはふたりの肉親と抱きあわずに帰ることなど到底できなかったことでしょう。
こうして母や死にかかっているという妹のティルダと再会を果たすベン・ハーでしたが、そもそも牢獄に五年も入っていなかったらふたりがこのような悲惨な境遇になることもなかった……との思いからでしょうか。メッサラが死してなお、憎しみの気持ちを彼は捨て去ることがどうしても出来なかったようでした。
けれど、イエス・キリストがこの頃すでに宣教を開始しておられ、エスターはその教えについて聞き入り、ベン・ハーもまた彼についての噂を聞きます。<死の谷>から母と妹を連れ出したベン・ハーでしたが、やはりらい病であることがわかるなり、石を投げつけられたりと、元の生活へ戻るのは難しいことがわかり……ベン・ハーと彼の母と妹のティルダは、イエス・キリストが十字架を背負ってゆく姿を民衆たちに混ざって見かけますが、そのあまりに気の毒な悲惨さに、「あの可哀想な人を助けてあげて」といったように声をかけています。また、ベン・ハーはイエス・キリストにこの時、あの時とは逆に今度は彼のほうが水を飲ませてあげるのでした。
十字架にあげられ、イエス・キリストが息を引き取ろうかという時、不思議なことにベン・ハーの母と妹のティルダの身に、奇跡が起きていました。聖書にもあるとおり、全天全地が暗くなる中、ただならぬ空気があたりを包んでいました。ベン・ハーの母もティルダもこの時、イエス・キリストの十字架のすぐ近くにいたわけではありません。けれど、再び人々から遠ざかっていたふたりに、らい病が完全に治るという奇跡が起きていたのです。
そして、怒りと憎しみによってかつてのメッサラのようになっていたベン・ハーですが、最後、イエス・キリストの愛と赦しの力に触れ、彼自身もまたまるきり変えられてゆきます。十字架の近くで、「主よ、彼らを赦したまえ」とイエスさまが叫ぶのを聞き、すべての怨み・つらみの心を捨てることが出来たベン・ハー。そして、彼がそうした負の感情と決別を果たしたように感じた時、そこにはらい病を完全に癒された母ミリヤムと妹ティルダの姿が……さらには、他の男と結婚することもせず、ずっと彼のことを待ち続けてくれていた愛する女性エスターも一緒にいます
「ベン・ハー」という映画の背後には、いくつもの連想される聖書のエピソードがあると思うのですが、そのこととも相まってか、アメリカなどでは絶大な人気のある作品だ……みたいに書いてあるのを何かで読んだのですが、これはおそらく、全クリスチャンにとってそうなのではないでしょうか
わたしがキリスト教徒としてでなく映画を見た場合どうだったかは、今は想像が難しくなってしまったものの、それでも最後、ベン・ハーの母と妹のティルダのらい病が癒される場面なども、何故か胸に迫る説得力があり、決して「なんだか御都合主義だなあ」とは思わなかったような気がするのです。
また、ベン・ハーのように凄まじい人生、相手を憎んであまりある理由などなくても、わたしたちもまた誰かに対して深い憎しみを抱いたり(そしてそれはしばしば、ベン・ハーのメッサラに対するそれのように、かつて親しかったればこそ生じる憎しみだったりする)、あるいはさしたる理由などなくても簡単に「あんましアイツ好きじゃない」として裁いてしまうこともよくあります。
けれど、イエスさまの愛と赦しに触れたことで、ベン・ハーが変えられたように……わたしたちもまた、彼と同じようにイエス・キリストに倣うべきだと、綺麗ごとでも偽善的にでもなく感じられること、それが「ベン・ハー」という映画の持つ、もっとも強く深い普遍的メッセージ性ではないかと、そんなふうに思いました
それではまた~!!
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