神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

トイレの詰まりの解消、主に感謝♪

2024年10月28日 | キリスト教

(※本文にあるトイレの詰まりの解消法は、わたしがネットで軽くググって調べた……程度のことですので、もしトイレの詰まりに関して参考にされる場合、あらためてきちんと調べ直してくださいませm(_ _)mなんて思います^^;)

 

 今まで、何度も(大体同じ市内で)引っ越してきて、生まれて初めてトイレが詰まりました

 

 って、互いに相反する絵文字と思うのですが、イエスさまに聖霊さまを通して感謝していると、「すっ転んで膝に痣ができた」→「でも神さまにすぐ感謝」、「雨が降ってきて、車から泥はね攻撃を受けた」→「でもイエスさまにすぐ感謝♪」、「トイレが詰まって困った」→「でもやっぱり主に感謝」……というようになってくるのですが、これはマーリン・キャロザース先生の「どんなことも(いいことも悪いことも)神さま、イエスさまに感謝し賛美しよう」という教えの実践で、今回も特に業者の方を呼ぶこともなく、ホームセンターから新たに何かを購入してきて詰まりをようやく解消――といったことでもなく、ネットで検索して手持ちの洗剤などで無事解決しました

 

 とはいえ、こうした生活を送っておりますと、たとえば目にちょっとゴミ、あるいは睫毛が一本入っただけでも……>>「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつなかいのですか」(マタイの福音書、第7章3節)というイエスさまの御言葉が頭を掠めていったりと――たまたま運悪く、あるいは自分の不注意でそうなってしまったということについてまでも、「なんか自分に悪いとこあったかな~」とか、ちらっと考えてみたりもするわけです。

 

 そもそも、イエスさまのことを信じて救われるというのは、わたしがクソまみれの罪まみれであったところを、イエスさまがそこまでのことをしなくちゃいけない理由は少しもないのに、神さまの深い憐れみによって……まったく罪のない清らかな状態にしていただけるということなわけで

 

 トイレのほうはですね、トイレットペーパーの詰まりといったことであれば(オムツや生理用品、子供のおもちゃなどが詰まった場合は無理)、食器用洗剤(中性洗剤)を大量に流し込む、ハイターを入れて流す(こちらはキャップ二杯分とか、少しでいい模様)、他に詰まり解消用の洗剤的なものも効果的――みたいにあるのを見て、とりあえずわたし、キッチン下のほうにパイプユニッシュとか、そうした系の洗剤と、さぼったリングを消す系のアレ(ドレよ・笑)と、台所や浴室やトイレにも使えるなんとか洗浄丸……といったものがあったなあと思いだし、どれが一番効果的だろう、みたいに調べてみたわけです。

 

 そしたら、一番効果的に思われたパイプユニッシュのほうは、これわたし、浴室の髪の毛などが詰まった時用にかなり前に買ったものなのですが、こちらが一番効きそうに思ったのに、トイレの詰まりにはあまり効果ない……みたいにあったので、一旦除外することに。ハイターについても、「キャップ二杯分?そんくらいで本当に詰まりが解消されるかなあ」と疑わしく感じ、さぼったリング系とかなんとか洗浄丸は、効果あるかもしれない――みたいに書いてあったと思います。これはふたつとも、ハイターと同じく塩素系なので、わたし自身の判断としては「同じ塩素系で、ハイターをキャップ二杯分くらい流すよりは効果ありそう」みたいに、素人考えによって思われましたもので、まずは試してみたわけです。

 

 トイレが詰まっていたのは約三日。「時間がかかっても奥に流れていくようなら、少し様子を見てもいい」、「トイレットペーパー以外のオムツや生理用品が詰まっているといった場合はすぐに業者に連絡しましょう」みたいにあったので、ちょっと様子を見てしまったわけです。ところが、翌日も様子が変わらないどころか悪化したように感じたため、この時さぼったリングを投入し、清潔なニオイがトイレ中に漂ったものの詰まり自体は解消されず、さらに洗浄丸を投入、時間が経って流したあと、洗浄丸を再び投入――これで二日経過。でも詰まり自体は解消されず、「ラバーカップでも買ってくるかあ」とか思ってたわけですが、この時点でそもそも最初から思っていたことが。。。

 

 糞尿まみれのトイレットペーパーちゃんを、すべて手でかきだし、その後さらにさぼったリングさんや洗浄丸くんを使えばいいのでは……という、至極当たり前のことを思い、翌日がゴミの日であったため、「すぐ捨てられる」と思ったことから、夜中の三時くらいに「えんやこらさ、ドッコイショ☆」とばかりすべてビニール手袋をはいた手でかきだし、この時点で「あ~、これたぶん直るわ」といった感覚があり、実際そのとおりになった――というわけなのでございます(笑)。

 

 たぶん、普通に考えた場合「夜中の三時にわたしは一体何をしているのだらう」となるかもしれないのですが、わたし的にはもう喜びしかなかったのですさぼったリングさんも洗浄丸くんも役に立たなかったということもなく、なんというか、その発砲力的なものは多少なり役に立っていたと思われ……すべてのトイレットペーパーとクソをかきだしみたところ――いやもう、トイレのほうは次に流した時、驚くばかりピッカピカのピカピッカに輝くばかりだったというか。

 

 いえ、こういうことを神さまの救い、イエスさまの恵み……みたいにたとえたりするのは何やら不敬な感じがして心苦しいのですが(本当にすみません)、「救われる前(汚い糞尿まみれのトイレットペーパーに包まれたわたし)」→「イエスさまの救いを受けたあと(白く光り輝き、ピカピカに)」という、そのくらいの驚くばかりの差がありました。

 

 ちなみにうち、トイレ掃除はほぼ毎日行っています。それでも、次第次第に尿石がこびりついてきたりもするわけで……でも、ブルーレットさんのブルーさによって「気のせいじゃないかしら?」くらいに思って暮らしており、でも今回さぼったリングさんのお陰で、尿石に至るまですべてかき消え、もうびっくりするくらい綺麗になって驚きました

 

 そして何より、一番神さまに感謝したこと……あ、違うかもしれません。一番感謝したのは「なんにしても詰まりが解消されて良かったあ~。イエスさま、本当にありがとう~!!」ということでしたから。でも、それと同じか二番目くらいに感謝したのは、トイレそれ自体が故障したわけでも、トイレが溢れて大惨事になったわけでも、そのせいで階下の方に大迷惑がかったということもなかったということです

 

 なんにしても、トイレが詰まったことから、何か色々と考えさせられ、今もまた「喉元過ぎればなんとやら……」で簡単に忘れたりせず、「これと似たことをわたしは本当によくやってるよなあ」と反省することしきりなのであります。。。

 

 つまり(シャレじゃないよ!ってわざわざ言わないほうがいいよ!笑)、本当に何かが煮詰まって、本当のどん詰まりになってから「そろそろやらなきゃあ……」と後回しにしてきたことをやりはじめるのではなく、もっと色々前もって出来ることがたくさんある系の、よくあるお話ではあったりするんですけど――そろそろ年末ですし、すべてのことをイエスさまに感謝し賛美しつつも、同時に「色々反省しなきゃ」と思わされる出来事でありました(^^;)。

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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